白山神社

 白山神社は新町(旧町名北横道)の鎮守で、其祭神は己貴命、大山祇命、菊理比咩命の三柱の神霊である。石川郡誌に依れば、今(昭和二十八年)を去る九百六十六年、永延元年、国司富樫忠頼が、高安荘野々市の総鎖守として建立した社で、初め今の北横ノ宮社地に鎮座せしに、同町を距ること遠く、文化文政の頃、今の社地に遷したものである。此社の縁起古社伝等、彼の土賊騒乱の時、焼失掠奪の難に遇い、詳事明かでないが、祭神菊理此咩命は富樫氏の祖、藤原利仁卿の母公(秦豊国の女)恒に御霊神の御神徳を奉賛し給うた神とて、富樫氏との縁因浅からす、忠頼又加賀国司に任じられて御信仰一入に篤く、此の野々市に一社を建て勧請せられしものであろう。此の旧社地北横ノ宮は、明治年間に至る迄神木欝蒼として茂り、昼尚お暗く、魔人(天狗)住んで、毎夜丑の刻には天狗の奏する音楽が聞えると謂われた。

 当社は旧村社で今は氏子四十戸あり社掌は明治七年後、堀布市神社々掌代々兼任している。

 加賀同郷村社区別帳

  白山社  村社  野々市村三十二戸  高山民江 兼

 

 この他に一日市町に観音堂があった。これは明治初年に今の布市神社境内に遷した。

 

 元来野々市には、七宮七墓地(ナナミヤナナサンマイ)と称し、七つの社と七つの墓地が有った所である。七つの墓地は現存しているが、七つの社はその後布市神社と白山神社の二社となった。この七つの社名は、辻ノ宮(荒町)八幡社(荒町)白山社(新町)住吉社(六日町、中町、一日市町)八幡社(西町)天満宮(中町)社名不明の宮一社(西町)の七社である。この内、天満宮、社名不明社の二社を除く他の五社の社史は既記の如くなるも、その他は明らかでない。ただ天満宮の址は中町表田甫御米供田にある。社名不明の社址は、西裏田甫字宮後附近ならんと口碑に伝えられている。

 

加賀国俗 小豆飯濫觴 稲荷社廟之遺蹤

 加賀国俗小豆飯の濫觴稲荷社廟は、既に頽廃し、野々市にその址はないが、今(昭和二十八年)から八百六十八年前の、応徳二(乙丑)年七月白河天皇が、洛南鳥羽の里に苑庭、池溏、殿舎などを造営せられし時、全国にその役夫を課せられたので、加賀介富樫家近もその召に応じて、役夫を率えて上洛し、その工事に参加した。上洛の途中怪しき夫婦の者、家近に相寄りて日く、「我々夫婦は洛外鳥羽の里に年久敷住む者なるが、此頃離宮造営の地に愛子を養育し居たりけるに、早くも石垣を積み立て、取出す事不叶、露命危きにあり。公此度造営の役に上洛するなれば、彼普請の地に於て愛子の露命を救ひ給はば、我等生々世々の高恩忘る可らず。偏に御助け給はれ。」とかきくどき歎いたので、家近速に之れを領掌して上洛し、彼の普請場に至りて石垣を崩したところ、穴の中より白狐の子三匹出た。即ち是れを野外に放ち之れを助けた。其後稲荷明神の託宜ありて、「此度白狐の命を助けたる報として永く汝が家運を守る可し。」とのこと。家近その神託を信じてから屡々奇瑞を得、益々隆興した。家近その霊異の深きを知りて崇敬し、遂に長治元(甲申)年(自昭和十六年八百三十六年前)野々市に社殿を建立し稲荷大明神を奉祀した。この地今の郷村字稲荷の稲荷神社である。その頃は稲荷村は野々市領内であったようである。稲荷明神を奉祀し、祭礼には小豆飯を供えて尊崇し、誠意を奉げたので国民之を做い、凡ての慶祝の行事には貴賤の別なく、時季を諭ぜず、小豆飯を拵えて神に供え、一家田楽の祝膳に乗じ、且近親隣保に之れを頒って祝賀を表するに至った。是れ今の赤飯(アカメシオコワ)則ち小豆飯の濫觴である。

 而して近親隣保に頒つ小豆飯を盛る重は、重据に載せ、袱紗又は重掛で之を蓋い、意匠を凝した「塩タタミ……」に、胡麻と焼塩とを容れ添え、定紋付の風呂敷を以て包み、恭々しく贈進する。其の美風淳俗は、他国に多く見ざる所で、全く家近の義侠と敬神尊崇の余香と謂う可きであろう。

 

 可観小説

  加賀ニ小豆飯ヲ拵へ候起リ

  加州ノ俗間ニ祝事ナレバ小豆飯ヲシタタメ、奴僕へアタへナドスル事アリ、京江戸ナドニ此事ナシ、是ハ富樫介飯縄ノ法ヲナシ、宇賀ヲ祭リテ、何ゾ心祝アレバ小豆飯ヲ拵へ候事、今ニ遺リテ如此トゾ、余風今ニ遺リシ事ヲカシ

 とある。

 斯の如く家近の敬神尊崇に因って、伝統的小豆飯の行事が起り、爾来今日迄、加賀の純朴真撃の醇風を保持しつつある事を、近来他より入り来た輩多く、此美俗を知らず、徒に簡単軽便と因習打破の声高くし、此意義ある醇風美俗の保持を廃滅せんとする傾向がある。しかしこの因習は加賀の風俗として遺す可きものであろう。

 偖て家近今の稲荷村に祠を建て世々之を尊崇し来たが、何時の頃か、之れを富樫の舘内に遷した。その後富樫一族には、各々稲荷明神を祀ることになった。文献に依れば、富樫家明、家善、泰信等の各舘には、皆稲荷明神を奉祀してあった。即ち家明の奉祀した神は、今の金沢市浅野川神社(並木町)に、家善の祀った神は今の石川郡押野村押野の後藤家に在り、泰信の奉祀せる稲荷明神は場所不明である。家近奉祀の稲荷は、富樫宗家の舘内に在ったが、政親亡びて、泰高に至りて一揆は愈々反抗を事とし加賀国内戦乱相続き殆んど寧日はなかった。然るに、天文二十二発丑年(自昭和十六年三百七十九年前)一時小康を見たので、大乗寺塔頭に在った、高安軒(在詳事本章)の首座祖雲和尚(富樫彦五郎輝光)は、自己の薫せる同軒へ神霊を遷し、兵火の不安を避けた。その後天正八年柴田勝家の加賀一揆討伐の兵焚に累せられ、大乗寺と倶に金沢市木ノ新保に移った。亦慶長六年大乗寺坂側の地に高安軒を建て此に安置したが、元祿十年更に大乗寺が野田山に移築されたので、その惣門前外左側に二百五十五坪を藩主より拝領し堂宇を建てここに安置した。元和三丁己年前田利長の宝玉泉院は、この稲荷大明神の霊異の尊きを感じ、社殿を造営せられ、また寛永年中には本多政重その社殿を修理改築した。然るに惜しい哉明治維新の余波を享け、遂に高安軒の廃滅と共に稲荷社廟も廃頽するに至った。

 長治元年家近野々市の地に社廟を建立し小豆飯の美俗を遺して八百五十年如何に趨勢の然らしむ所なりと雖我野々市として惜む可きことである。

 

  玉泉院殿ハ織田信長の四女デ名を永と唱ス天正九年越前府中に入輿、元和九年二月廿四日歿ス享年五十才

 

  加越能金砂子

  塔中高安軒に稲荷あり、当社稲荷明神は福寿の神なれば生とし生けるたぐい此尊神の恩によらずと云う事なし(○中略)の当国前代の守護富樫家代々崇敬として宇賀祭礼の根元故に霊験他に異なり当庵先住祖雲首座は晴貞の正流たるによって富樫所替の後は宇賀神爰に移座し給う此由玉泉院殿被開召社御造営ましましき其後寛永年中本多故安房守政重再興し給う云々

 

 此の史実の一端を見ても、如何に家近の祀れる稲荷明神の神威の尊きかを知ることが出来る。安永九年(昭和十六年より百六十二年前)の秋、出羽の神宮寺町(秋田県仙北郡神宮寺町)宝蔵寺十四代住持粗柏氏継目大礼儀の為め、大乗寺へ来り、此の高安軒稲荷の分霊を拝請し之を奉持して帰り翌十年正月、正平(自昭和十六年凡六○○年前)の頃より連綿として、出羽の富樫氏の宗家である。同国(秋田県)大曲町(仙北郡)富樫氏邸に安置し富樫氏鎮守護神と為した、現に同町富樫時衛邸内に奉祀しある稲荷明神則ち是れである。(出羽大曲町郷土史見事)。

 此の家近の稲荷の分霊を請した宝蔵寺及現在この分霊を邸内に奉祀してある富樫時衛と如何なる縁有るやと云うに正平の頃富樫誠白と云う武将があった。富樫高家の弟か、又は泰家の子孫であろう。河北郡英田村に住して、正平九年南朝天子擁護の義烈を叫んだ。その時加賀の地は、武家方汎檻して時利あらす。遂に誠白が恒に尊敬した宝山宗珍禅師(大智禅師ノ檜下)と倶に富樫氏一門と別れ、出羽へ去って氏神白山宮と宝蔵寺を建立した。その後六代の孫五郎忠之、天文五年(昭和二十八年四百二十年前)大曲町に移り、夫より子孫相襲ぎ現代の時衛に至りたるものである。

 三州志に依れば、富樫氏の狐の霊異あることは、家近に始まらず、其祖、利仁将軍北国下向の時、妖狐の恠異あること既に宇治拾遺に見えると載せてあるから、富樫氏と狐は往時より由縁あるものである。

 しかし洛南鳥羽離宮とは今の京都府紀伊部下鳥羽村と竹田村に跨り安楽寿院以南加茂川小枝に至る凡そ十町城南森南北六町の地内にて今真幡寸神社の附近である。又家近が上洛して狐の霊異を享けた年歯は四十六歳で社廟を建立した年歯は六十六歳であった。

 

 三洲志

  今大乗寺塔頭在高安軒於是稲荷也

  扶桑略記

 公家近来九条以南鳥羽山荘新建後院、凡ト百余町焉近習郷相侍臣地下雑人等、各賜家地営舎屋宛如都遷○中略五幾七道六十余州、皆課役掘池築山自去七月至今月其功未了、洛陽営々先過於此矣池広南北八町東西六町水深八尺有余殆近九重之淵、或模於蒼海或写蓬幽畳巌泛船飛帆煙浪激々瓢掉不碇、池水湛々風之美不可勝計

 

 而して此の稲荷社廟を創建以来三十三年毎に開帳の祭典を行うたものである。今金沢市小立野に在る禅院天徳院蔵記録を富樫氏史料彙存第五稿に戴しあるを見るに、正徳三年発巳、延享二年乙丑、安永六年丁酉、文化七年庚手の四次に亘りて開帳式典を執行したる事実を見る即ち

 (天徳院蔵従廷享元年甲子八月到同二年三月宗孝代留帳第八)

 高安軒稲荷大明神開帳之件

 拙寺安置仕候稲荷大明神正徳三年一七日開帳仕今年三十三年ニ相当候間先例之通当四月五日ヨリ十一日迄十七日之間開帳被仰付被下候様ニ奉願候右之趣宣敷被仰上可被下候以上

   延享二年丑三月二日         高 安 軒  全  牛 印

       大乗寺御役者中

 (中 略)

 大乗寺塔頭高安軒安置ノ稲荷正徳三年一七日開帳仕今年三十三年相当侯ニ付当四月五日ヨリ十一日迄一七日致開帳度旨顧書付年寄衆江相達候所願之通可申渡由ニ候条右日数令開帳朝六時門ヲヒラキ七半時仕迴夜中参詣人可為無用候尤諸事作法宣火之用心堅御申渡可被成候以上

  乙丑三月七日                 品 川 主 殿  印

                         菊 池 十六郎  印

                         青 山 将 監  印

 

 宝円寺 天徳印 両役寮

 (巳下略)

 拙寺安置之稲荷大明神安永六年三月廿七日ヨリ四月三日迄一七日開帳奉願願之通被仰渡開帳任候然処去巳年三十三年相当候得共右社以之外及大破候ニ付内外造作等彼是仕候内外ノ外年間取今年迄及延引申候依テ開帳奉願度奉存候得共先年御開届押御紙而見当不申候ニ付其段御達申上候得者御本山ニハ別紙写之通御紙面御扣御座候之旨被仰聞候得共御本紙者拙寺方住持交代等之節如何仕候哉見当不申無念之至奉存候此段何分御聞届願之通開帳被仰付被下候様奉願候以上

  文化七年三月                  高安軒 了 念 印

 

 本山御役寮

 (巳下略)

 右の史実に依れば天文二十二年高安軒首座祖雲が本願寺派の乱暴を避くる為め神霊を同軒に遷したる以後に於て開帳式典を為したる事明瞭なり然れば夫れ以前に於て定年開帳を為したるや否やは確言する能はざるも此の天徳院の記文より推察するに定めし開創以来執行したるものならんか彼の伊勢大廟、春日社の式年遷宮の例より見ても定年開帳の事も強ち否定すべきものに非らずと思料する。唯だ其の文献の捜出を見ざるを遺撼とする所である。

 

 富樫諏訪神社之遺蹤

 富樫諏訪神社は本町諏訪野にあったので詳しいことは判明しないが富樫惣社として大社であったそうである。加能郷土辞彙には富樫郷住吉神社の前身でないかと戴してある。

 

 

 

 

照台寺

 照台寺は、真宗大谷派に属し、山号を光聖山と称する。始め天台宗であったが、嘉祿元乙酉年(昭和十六年ヨリ七一七年前)真宗開山親鸞が、越後に流罪せられた時、念和々尚、聖人を倉部川の辺に駕を迎い、専修念仏の要義を聞いて、之れに帰依し、天台を真宗に革め改宗の開基を念和とする。改宗二世に至って寺号を賜り、その後寺運進展し石川二大御坊に数えられ、波佐谷の道場と共に有名であった。五世堯助は本願寺第五代綽如上人の玄孫、即ち第七代存如上人の孫である。当寺は享祿四年(自昭和十六年四一一年前)本願寺の家宰、下間頼秀(筑前ノ事)及びその弟頼盛は、証如上人の着命なりといつわって、加能両越を侵そうとした。その時照台寺は、加賀大衆に属したので、頼秀の火攻を享け、野々市に在ること出来ず、遂に越中国、松寺村に奔った。翌天文元年本願寺は、佐々木定頼の暴挙に依り、法主証如上人は大坂に走った。この報賊党に達すると、頼秀加賀を棄て、宮腰より海路大坂に渡った。この時加賀は稍小康を見たので、当寺は越中松寺村より帰り、再び祖塔に法燈は煌いたが、叉々天文四年下間党再び来襲して火攻したので、今度は難を越前に避け、朝倉孝景に寄り済師を請いしにその効果見えず遂に野々市に帰って下間に帰依したようである。由来当寺は高田専修寺派であったが、この災厄に依り、止むを得ず本願寺派に属したので、その後本願寺第十二代准如上人の時、東西両派に分れたので今の大谷派に属し今日に至ったのである。而し照台寺が、この享祿四年と天文四年に、火攻せられた時の加賀の国情を考察するに、本史第七章にも述べしように、一向宗徒は、長享二年政親を亡ぼして能美部御幸塚より泰高を迎えて、野々市の館に置き、守護職として、国内の信望をつなぐの利器とした。明応年中に泰高歿し、其子泰成宮中務大輔に陞り、将軍の御伴衆となり。幕中に活躍したが文明年中父に先立ちて夭折した。泰成の子植泰、泰高の後を嗣いた。当時国内は、土豪、武士、代官など各所に割拠し、一向の寺坊も法衣の下に、甲胃を帯び闘争を事とし土民も亦、之れに追随して、上を恐れず、弱肉強食徒に跋扈反目を業とし、将軍の威令も、守護の統制も一として更に行われず、只士賊の専横政治となり、加賀国権はその手に帰した。蓮如は明応八年乙未三月二十五日寂し世子実如は、大永五乙酉年二月二日寂した。実如の子証如、法燈を襲いだが、幼弱であったので、ここに権臣下間頼秀及び其弟頼盛は加能両越を蠶食せんとして、越前の超勝寺、本覚寺と共に兵を揚げ、加賀一揆を煽動した。加賀三山の大坊主松岡寺、光教寺、本泉寺及宿老河合、州崎等は、この下間の挙を以て不逞なりとして応ぜなかった。其時富樫氏及能登の畠山氏、越中の神保、椎名氏等は、其国衆即ち大一揆を後援し、下間党即ち小一揆と対抗した。爰に於て加賀本願寺宗徒は、正しく二派に分れ、乱闘は続けられた、殆んど寧日無く遂に下間は波佐谷の松岡寺を襲い、堂宇を焼き、寺主蓮綱(蓮如ノ子ナリ)及其孫等の蓮枝を虜とし、清沢御坊をも焼き、鶴来金劔宮及其附近燔燼の厄に罹った。此時蓮如の子蓮悟の在った若松の本泉寺も亦焼かれ、蓮悟は能登に奔りて畠山氏に寄り、河合、州崎等の宿老、亦能登に逃けた。ここに非謀残虐の下間党は、能美山ノ内に根拠を占め国衆は、長領に之れを防いで拮抗した。先に捕えられて山ノ内に在った。蓮綱は八十二歳の高齢で幽禁の中に寂し、子蓮慶(蓮如ノ孫四十九才)及其子実慶(二十九才)慶助(二十三才)共に迫られて、山ノ内に自害し、亦之等に従っていた下間頼宜、頼康、頼継等も共に戮せられた。蓮慶の室実妙(実如ノ子)能登に逃りて彼地に歿し、顕誓(蓮如ノ孫)僅に免れて越前に逃れり、爰に温和説を唱いえたる国衆(大一揆ノコト)も一敗した。是に於て、此の渦中に陥りたる、富樫植泰その子泰俊等挙けて、越前に辞去し(在詳事第七章)遂に国内は下間党の掌中に帰したのである。この乱階に照台寺は国象大一揆に属していたので、下間党の火攻に累せられ、野々市に安居すること能わず、越中、越前と居を転々し、済師を求めるに至ったそうである。而して当寺がこの渦中に巻入れられたのは、単に大一揆に属せしのみでなく改宗以来真宗の本寺たる高田専修寺派に属し、且亦富樫氏と内戚外戚の関係があって、恒に富樫氏に加担し同氏を扶けたので、遂に下間党と拮抗するに至ったようである。

 主なる法宝物は

 一、親鸞聖人自画の真影

 一、同 御手植の藤

 一、同 真筆と伝えらる紺紙金泥十字の名号

 一、同 木像

 一、聖徳太子の木像

 一、阿弥陀如来の金仏(富樫氏甲本尊と伝う)

 一、虎猫の御書

 この虎猫の御書とは、昔本山の堂内に一匹の老鼠在り、堂内を荒すこと夥しく、遂に安置の本尊をも冒潰する有様で、これを退治する為め、照台寺より虎毛の老猫を献したところ、その後老鼠も猫も見えず二三日を経て両者格闘して斃死したのを発見した。法主痛く猫の忠誠を感じ、感謝状を与えられた。これが虎猫の御書である。毎年一月五日供養法会を厳修して、虎猫の宴福を祈っている。

 当寺七世姓勝は、寺門を世嗣永勝に譲って法を他郷に布めんと、越後国中蒲原郡石山村字石山に留錫し、此処に一庵を結び布教に努めた。寺号を照大寺と号し姓を照光氏と称する。今法燈赫々として燦くこの時野々市から三戸の門徒、姓勝に随伴して、同処に留る、今尚ほ子孫現存すると。

 現住職裕兼氏に至る迄嗣法二十四世凡そ七百五十年、加賀国中の古刹である。富樫氏時代は、門徒加賀四郡に渉って、その数実に数千に及んだと伝う。

 

 

 

高安軒

 高安軒は曹洞宗に属し、観応元戌寅年(北朝正平五年)(自昭和十六年五九二年前)大乗寺第三世明峰和尚の塔司として、富樫氏十九世昌家の量家(富樫十五代泰明ノ子泰信ノ山代殿ニ養レテ嗣子トナル)(一名高泰とも称す)の開基にかかるものである。夫より天正八年柴田勝家の加賀一揆を討伐する迄凡二百三十有余年、野々市大乗寺塔頭にあったが、勝家の兵焚に罹り、大乗寺と倶に、金沢市木ノ新保に移りそれより二十二年を経たる慶長六年大乗寺坂側に転じ、越えて元祿十年、大乗寺が野田山に移されし時、其惣門外左側の地に、百五十五坪を藩主より拝領し、堂宇を建立し明治初年迄在ったが、維新の廃仏毀釈の余波を稟け、廃滅するに至った。観応元年以来凡五百二十年幾多の文献史料も文明以来の戦禍の為め焼失、散乱し、教十代に亘る住持の名をも詳にする能わず、僅に知れる号を記して後考に俟つこととする。

 

  天文に祖雲 元祿に安清 享保に祖光

  延享に全牛 寛延に直観 文化に了念

 

 昭和二丁卯年、木村次作氏(野々市ノ古考家)同軒の廃滅を慨して、舘八平氏(後ち残翁と号す)と相謀り、この再建を企て、金沢市西町栄昌庵故直指石応老尼亦之れに賛し自ら資を損して努力した。遇々大正五丙辰年大乗寺旧址より野々市の住人野村松次郎氏が曹同禅三祖の霊骨(在詳事大乗寺条)を発掘したので、この奉安を兼ね、明峰禅師の神授の伝説ある白山霊泉(本章大乗寺条ニ詳事アリ)の隣地に一庵を結び、嘗て廃滅せし高安軒を復興した。是れ現在の高安軒である。

 此の復興せる高安軒の首座を直指石応老尼とし、同尼同庵に立ちて布教伝道に努めたが、昭和十三年寂した。その時曹洞宗管長は両本山の紋章入香炉を贈って遺址顕影保持の功績を表した。亦同軒は既述の如く小豆飯の濫觴稲荷大明神鎮座せられしこととて上下の信仰あつき禅院であった。現住特清水祖田老尼を中興第二世とする。

 

 尊経閣蔵金沢市寺院由来

 一、当軒は大乗寺三代明峰和尚塔頭にて御座候観応元年之建立到当年四百年に御座候代々大乗寺寺内に罷在候得共大乗寺屋敷狭少に御座候故慶長六年より本多安房守下屋敷之内申請居住仕候尤元祿十年丑八月大乗寺替地被仰付只今之処寺地山へ引越候節当軒も同時引越只今之地へ住居仕候云々   高安軒 直観

  寛延二年二月二十三日

 

 猶お当軒の名称に就ては開基富樫量家を一名高泰とも云うから、この名に基くか或は野々市は高安荘に属していたから、この荘名に基くか何れこの二事より典したるものであろう。

 

法林寺

 本寺は真宗大谷派に属し、文明年間の創建にかかる寺院でその開基は石川郡富奥村字下林定林寺よりの出にて昭和二十三年寺号公称の許可を受け今日に至る。現在住職三林俊氏を以て第八世とする。

 

隆郭寺

 本寺は真宗大谷派に属し、慶応二年六月羽咋郡元女村本乗寺の弟、野々市に来りて開剏したる寺院である。明治十二年六月寺号公称の許可を受け今日に至る。現住職元女尚氏を以て第三世とする。

 

大乗寺之遺蹤

 弘長元年(昭和二十八年六百九十三年前)富樫家尚が野々市の字外守にあった泰澄大師の作である。大日如来の大仏堂の境内に一寺を建立し、大日山大乗寺と号して真言宗密師澄海阿闍梨を聘して住持とした。是れ野々市に於ける大乗寺の創建で、現在金沢市城南野田山に法燈燦として煌く曹洞宗古刹東香山護国禅大乗寺の起源である。

 泰澄大師ハ越前麻生津ノ人、白鳳十一年六月十一日生、元正天皇ノ御宇養老年中白山ヲ開山シタル大徳也、神護景雲元年三月十八日遷化年八十六、凡一二三○年前ノ人也。

 澄海が大乗寺に住して二十九年を経た正応二年(自昭和十二年六百四十九年前)家尚に謀りて、越前永平禅寺第三世徹通義价禅寺を請して苦心創剏怠らなかった。教寺大乗寺を徹通に捧げて、真言を禅院に革め、徹通をして大乗寺開山第一祖と崇めた。

 徹通は是より先、文永六年永平寺第三世を承け、高祖承陽大師の尊命始めて成りて僅に六年、彼の権力争奪の渦中に投入せられ、文永九年永平寺を退き其の山下に養母堂を建て、甞て高祖大師より山門鎮護の為め永平を離山せず必ず永住せよとの厳命を受けていたので、之れを尊守して離脱せず、所謂庵居隠遁不遇の身と為り、夫より正応二年迄凡そ十九年の間、虐遇を忍び苦難に耐えて七十才の頽令に達して猶お動かず。この時に当って徹通より業を受けた澄海阿闍梨は、悲惨なる恩師の不遇を見るに忍びず、有為の徹祖をして徒に枯悴せしむるは、法の為め国の為め実に惜む可きと慨き、之れを家尚に説きて、澄海は慨然として大乗の寺門を徹祖に捧げ、以て恩師に答えんとして徹通に再三屈請した。始め此請に頑として応ぜなかったが、徹祖も澄海の至誠と家尚の熱望に動かされ意を決して離山し、洞派を興隆せしめ以て親嘱の主旨を洞徹せんと、意気軒昂曹洞嫡々の信衣を捧持して、宗派伝播の雄図を胸に包み、愛子瑩山を伴って大乗寺に来り、真言を禅院に革めたものである。

 徹通大乗寺に来るや其道風高く巨才俊髦其の傘下に集り、曹洞禅の流布、弘道の基礎ここに成った。徹通、孜々参控怠たらなかったが、その後二十一年を経た延慶二年九十一才にて入寂した。

 註徹通義价は俗姓藤原にて利仁将軍の孫、富樫吉信の後胤である。越前国足羽郡に出生し延慶二己酉年九月十四日入寂(自昭和十二年六百二十九年前)

 茲に開祖寂して洞派の太祖たる常齊大師、即ち瑩山は、多年の参究遂に徹通の嗣となり、伝衣嗣法大乗寺二世となった。先師徹通と同じく禅教流布に努めた、彼の道元禅師の正法眼蔵と共に、洞派の双璧と謂う可き伝光録も大乗に於て提唱(正安二年)され、亦信心銘拈提、座禅用心記も其当時の著述に係るものである。その頃徹通に随従した巨匠明峰、大智、峨山、無涯、珠旨、淵無、通幻、無底等一世の俊貌大乗寺に掛塔した。其の盛観偉容実に懐うべきである。是瑩山一世の最も緊張爛熟の時代にして、彼の尊皇義忠の聞え高き、大傑僧明峰、大智の生涯の鍛練も、実に此時に大成したのである。此の瑩山会下の徒其の業成るや、皆競うて法を四方に伝え化を緇素に施し、其の扶植全国に濔浸した。即ち曹洞禅の普及弘道の淵源茲に胚胎したもので、我野々市の地は曹洞の発祥地とも称す可きものである。

 

 

 

 

 

 慶長元年瑩山は明峰に大乗寺を譲り、能州に永光寺を創立し、明峰大乗寺を嗣いたがこれを以て足れりとせず、諸方に行脚して普く法を求めようと志して、同寺を泰翁運良に托し、周遊拾三年に及んだ。此間正中二年永光寺に在る時、元弘蒙麈の秋に当り、護良親王の令旨に依って祈祷を為し、主事に努めた。後再び大乗寺に帰り、亦大乗寺を珠巌道珍に譲って越中光禅寺へ去った。珠巌は寺内に承天寺を開創す。(明峰禅師ノ詳事第十三章ニ載ス)是れより先寺内に徹通の塔司として定光院があり、瑩山の塔司として東光院があり、明峰の為めに高安軒(現在之高安軒之源)があった。各香煙絶えす、富樫家善(押野住む)亦広大なる寺領を寄進し仏堂伽藍は法に叶え規に準し、荘厳なるものがあった。既にしてこれより十数世を経た永正拾四年後柏原天皇(百○四代)の勅願書となって寺名更に揚った。

 

 当寺事為

 勅願寺可被致長日不退転御祈之由、天気所通執達如件

  永正十四年六月三日  左中弁任長

  大乗寺玉峰和尚禅室

 

 然るに長享二年一向一揆が富樫政親を亡してより、不幸野々市は戦乱相継ぎ干才頻りに動き、遂に戦禍大乗寺に及んだ。即ち元亀元年士寇は富樫晴貞を追撃した時、大乗寺は全く焼焚され、住持雲窓祐補は、その余燼を収拾して承天寺を仮りに大乗寺として、微に法燈を挑けしも、十年を経たる天正八年柴田勝家が、一揆を掃討した時、承天なる大乗寺も燔燼の厄に遭い、澄海以来三百年の大乗寺も茲に潰滅に帰した。その時の住持は虎室春策第十四世で、今を去る事三百八十五年前である。

 元亀、天正屡次の兵焚に遭い、土冠に蹂ランされ、亦三百年の外護の富樫氏を失い、気息奄々たる大乗寺を痛歎した金沢の藩士加藤重廉氏は、木ノ新保に在る邸を提供し、私財を捐して大乗寺とした。ここに大乗寺は開剏以来三百二十年、曹洞興隆、名匠育成の歴史ある我野々市の地を去ったのである。

 加藤重廉氏は加賀藩の重臣で、始め六千俵を賜わったが、後五百石を加えられた藩士である。法名、大梅院殿即是存心居士慶長十四年歿した。

 此の加藤氏の援護に依る大乗寺再興の年月は天正の末期か文祿の初期でなかろうかとのことである。

 而してこの大乗寺が、野々市の何れの辺にあったかと謂うに、今その全域を評にすることは出来ぬが、開山塔所が野々市町ノ三十番地、即ち荒町の八幡神社址であることは明瞭で、又ム四十八番地に現存する白山水は同寺境内にあったことは明瞭であるから、これを基点として考察すれば、この附近八町四方は大乗寺遺址であったようである。

 

 左に是等の史実を揚よう。

 

 

 

 

 亀の尾の記

 村より西に天満宮の社あり社後に大乗寺開山徹通禅師の塚あり此辺大乗寺跡と云う

 

 加越能金砂子

 野々市村領の内大乗寺開山徹通和尚の墓所御座候則此辺皆大乗寺の屋敷の由申候只今は田畠に成り屋敷跡しかと知れ不申候

 

 寛永地誌 三州道の草、加越能三州旧跡記

 同村領(野々市村)之内大乗寺徹通和尚の墓御座候此辺以前大乗寺有之候由申伝候へ共寺跡相知不申候

 

 三州奇談

 布市の邑は往古は富樫氏の都会にして数千軒坊舎ありしに今寺号は村々に残り田間の松原にも皆古墳あり曹洞宗の徹通禅師の塚も布市の村にあるに今一堆の喬木しんしんたり

 

 白空撰千綱集

 金府を去ると一里ばかりに、のの市と云う里あり入口右の方に八幡宮たたせたまう其西の方に大乗寺開山徹通和尚の骨塔あり永平二代懐堪奘尚の遺骨も同所に納り待べることなり草木心のままに茂りあいて道もさだかならず

   古墳やたづねあたればかんこどり

 

 加賀石川宿町記

 野々市宿

 

 大乗寺跡 本村の東北字外守にあり概ね田園に属し同寺開祖徹通の墓地僅に存す長享二年戍申一向宗徒の焼夷するところとなる

 

 これ等の史実を綜合し大乗寺境内西北隅にある、徴通和尚の塔司は、荒町八幡宮の境内なること、最早疑うの余地はない。同社が大正三年布市神社に合祀したる後大正五年其の社地を整理開拓した時、野々市の住人、野村松次郎氏が地下約六尺のところから石櫃一個を発掘した。之れを当時野々市に在りし古考家舘八平氏請うて識者に鑑したるところ、上文記載の如く、所謂三祖の霊骨であるとのことであった。徹通が入寂してから六百余年(入寂后大正四年迄)を経て発見したことは、甚だ奇蹟と云うべきである。発掘した野村氏の談に依れば、発掘の際過て其の石櫃の一部を破損亀裂せしめたが、奇しきにも数日ならずして破損亀裂の部分は原状に復したとの事でこの一説を見ても三祖の霊骨なることを知るべきである。この霊骨を昭和二年舘残翁氏は木村次作(現在野々市古考家)氏と図り高安軒に安置した。

 

  大乗寺和尚より霊骨発掘者野村氏に贈りし賞状

           野村 松次郎 氏

 同氏ハ大正五年野々市耕地整理工事ニ従事中字外守旧八幡神社畔ナル旧大乗寺開山塔所ノ下ヨリ石櫃ヲ発掘セリ之レ当寺二十七世卍山禅師ガ藩主前田氏ニ提供セシ古書ニ記載セル三祖尊ノ霊骨ヲ奉安スルモノナリ而シテ其尊貴ナル所以ヲ聞知シ舘八平氏ノ乞ヒヲ容レ無報砂ニテ分与シ今日アルヲ致セシモノ偏ニ同氏発掘ノ功ト謂フベシ洵ニ感嘉ニ堪へズ依テ茲ニ賞状ヲ呈ス

  昭和二年八月二日

           高安軒本寺

                  大乗六十五世  徳 翁 大 龍 印

 

 白山水と八町四方の寺領について金沢古蹟志に

 

  野々市天満宮の向うに白山水あり是れ古へ大乗寺此地にありし時の白山水也(下略)

 

 とあり亦亀の尾の記に

 

  此天満宮の向うに大乗寺白山水あり云々

 

 尊経閣歳大乗寺替地願証文並由諸控中に

 

  当時古代の境内八町四方と申来り候に付(中略)当分御用にも無之山辺にて八町四方拝領仕候云々

  天和三年十一月

 

 寄進加賀国石川郡押野庄福樹林

  大乗寺田地敷地事

 合田位町並敷地 田坪付別紙有之

 

 敷地

 

    四至 限東山王西江 限南富樫堺

       限西白山大道 限北敷地堀

 右当寺者、開山徹通和尚、同二代瑩山和尚遺跡也、故崇敬異他之精舎也、(下略)

  貞和二年丙戍四月十六日

     地頭  藤原 朝臣 家善 在判

 

 以上の史実等に依り大乗寺址が、当町ノ三十番地旧荒町鎮守宮跡及びム四十八番地、白山水を中心に、八町四方同寺領であったことが窺はれる。

 大乗寺野々市より木ノ新保に移り加藤重廉氏下邸に寺連を紹ぐに至ったが、慶長四年金沢城外濠修築の為め藩主より石浦郷に地を賜り本多氏邸上屋敷に移った。その後幾何もなく此地高山南坊(高山長房ノ事也)に賜ったので、更に石浦郷本多下屋敷に移った。これは慶長六年で十五世謙室和尚(慶長六年十月入寂)の時である。

 

 其後大乗寺は十数世を経た卍山和尚の時、即ち元祿八年(卍山和尚ハ第二十七世也)今の野田山に(当時寺地山)移転し、仏堂伽藍建てその完成は元祿十年八月十三日であった。この時藩主より拝領した寺地は、五千八百四十三坪である。爾来数十世を経て第六拾七世現清水浩龍和尚に至った。

 富樫家尚が大乗寺を建立し、法護を宇内に流布したことは、普通の国主大名が単に祖先の宴福を祈る為めのそれと趣きを異にし、実に国家社会の為め開剏したもので、徹通傘下に在った瑩山は、後醍醐天皇の勅問に答へ曹洞の要義を明かにし、後ち常済大師の称号を拝し、明峯は護良親王の勅を奉して越中にて其の主事に努め、大智は西陲の一角に孤立尊皇を絶唱した菊池武光一門の純忠至烈を陶冶し、通幻は彼の大楠公の季子、傑堂能勝に法義を薫陶し何れも建武の大業を擁護した。その他の名僧も四方に行脚して仏道普及に努め社会に貢献する所多かった。

 東香山大乗護国禅寺誌

 通幻来る楠正成の季子傑堂能勝通幻に持して大乗に掛搭す

 

 当時は弘長元年開創以来茲に七百年、法燈昭煌として徳化比隣に及んでいる。

野々市町小史