傑堂能勝

 能勝、字は傑堂、河内の人で俗姓は橘氏、楠正成の季子である。初め南朝方として軍に従い勇名があったが、感悟するところがあって高瀬大雄寺に入って僧となり後野々市、大乗寺第四世通幻寂霊に参じて契悟するところが多かった。応永元年越後杜沢に往き耕雲寺を創建、師梅山を請して開山となし、自らは第二代となる。応永三十年八月七日寂した。

 (第十章参照)

 

聖護院道興准后

 遺興は後智院関白藤原房嗣の子である。文明十八年六月、諸国回遊の際に野々市に来り、左の和歌を詠じられたことが自らの著述回国雑記に見えている。

      あくればののいちといへる所を過行けるに村雨に逢ひ待て

     風送るひとむら雨に虹消えて

      ののいち人は立ちもをやまず

  この歌の意味は詳に出来ぬが、前夜は矢作に泊りしものにてその歌に

     今霄しも矢作の里に冬とぞ見る夏も末なる弓張の月

  と詠じられた。

 

飯尾宗祇法師

 富樫氏の末期文明の頃政親の家宰山川三河守、野々市の出第に連歌の宗匠宗祇法師を招聘し、邸内の苑地の蓮花を観賞し句吟相唱和した。天保十年藩儒津田夘儀(凰郷)の石川訪古遊記に

 憶昔山川氏世々富樫氏ノ家宰タリ参河守甞テ種玉老人宗祇ヲ其第ニ招キテ共二芙キョヲ賞シ相唱和ス、事飯尾宗祇ノ宇良葉集ニ見ユ、風流遺韻人ノ歯牙ニ馨シ

 宗祇法師の研究家舘残翁氏が多年探究漸くをの史実を載せたる宇良葉集を発見発表したる処に依ると次のように見ゆ。

 

   加賀国山川三河守許の会に氷室を

   見こしちや宮こ地かくはひむろ山

     をなじ心を

   水さむき山を氷室の名残哉(巳上原文)

 

 此旬を吟した山川邸址は何れの辺かと按ずるに、新町の東田甫にある山川と渾名する所で(レ二十番ヨリ四十番迄、タ一番ヨリ十七番迄、同三十七番ヨリ七十番まで)この地加賀平野を眼前に展開し、西は遠く越前と江能の連峰を望み、東は医王三方の雄峰厳然として聳え立ち、遥に立山宝達の能越の遠巒山、波濤の如く横たわり、倉ヶ嶽、高尾、山科の近山相呼の間に眉睫をうつ。春花秋月の絶景は勿論夏の蒼翠冬の白皚々其眺望洵に絶勝を極む。此の景勝の亭邸に悠然として宗祇が美髯を撫し颯爽たる武将と苑地の蓮花を観して相唱和せる其光景、実に髣髴として推想するに足る。野々市の此の山川第址に宗祇が印したる蹤、地方として稀有の事に属する。この飯尾宗祇の来れる年は文明十年か同十一年である。

 

能楽之師匠諸橋大夫

 加賀能楽は日本全国を通じて相当有名であるが、その盛大となったことは野々市にも俟つべきものがある。これは富樫氏全盛時代に能登国鳳至郡諸橋村字前波の鎮守諸橋稲荷神社(此社住昔諸橋六郷ノ総社ニシテ延喜式内神目伊豆伎比古神社也カ)に在った能楽師諸橋大夫(此祖京都ヨリ諸橋ニ来ル者也)を富樫氏が野々市に招き能楽を奏せしめた。是より諸橋家累世野々市に在って能楽を加賀に流布したのである。諸橋氏は富樫氏より扶持米を賜り且又日光作の翁面をも賜りその面箱には同家の定紋七曜の紋章を付けてあった。富樫氏滅亡後前田公に召出され野々市を去って金沢に移った。諸橋家は初め金春流であったが、喜太夫(初名市十郎)が喜多七太夫の門を出て先代甚吉に養われ貞享三年閏三月前田綱紀の命に依り宝生大夫に入門するに及び爾後宝生流となった。

 古書

 加賀に於ける能楽の初期(中略)然るに何時の頃よりなりけん今詳らかならざれど諸橋家は加賀の守護富樫家に召出され前波を去りて加賀に移住し富樫氏より扶持米を賜り且紋章を賜しかば是より後とても七曜の紋を扇箱に付け置けり当時諸橋家は加賀の何地に居りたるにや或は富樫氏の時国庁の在りし石川郡野々市なりしならんか長享二年富樫氏滅亡の後も猶ほ加賀に留まり主前田氏に召し抱へられたり

 

諸橋氏家譜

 

 

画聖雪舟

 画聖雪舟は、富樫政親、晴貞の招きに応じて野々市に来られた人で、詳事第五章政親、晴貞の条に記してある。而して雪舟は古今通じて未だ甞て見ざる所の画家にて壮年の頃支那に渡りて四百余州を廻り己が師を求めんとしたけれども、師たる人無く只得る所支那の山水のみなりと云う画家であった。永正三年八十七才にて歿した。

 

孝子三太

 孝子三太は人の知る如く本郡林村字曾谷の人で、慶長二年(昭和十六年ヨリ三百四十五年前)三月廿五日金沢市塩川町に住む山田権左衛門(前田家臣千五百石)に、祖父三兵、父三五兵衛を惨殺せられ、母おまんも其時三太を分娩し産褥に伏していたので、この騒ぎに怖れて遂に逆血死亡したので、遺児三人の養育の道は絶、兄の市坊、仁太の両人は分家間平の家に預けられ、自分は母の産室から直ぐ金沢市彦三二番丁齊崎権之進の馬丁角助に貰われた。三太は此の生家の惨劇を露知らず自分は角助の実子なりと思っていたが、それから十三年を経た慶長十四年八月十五日、市坊、仁太の兄弟は両親と祖父の仇を討たんと金沢市十一屋町に於て山田に討かかり、飴売小平(本名高橋右衛門ト云ヒ太田但馬守ノ家臣也)の扶刀を得て決行したが無慙返り討の悲運を見、飴売小平は其場で自匁し山田の首を取ることが出来なかった。之れを聞いた三太の養親角助は、三太をして両親、祖父の仇討を決行させねば措かずと、十三才の三太を呼寄せ、惨事以来の顛未を語ったところ、三太は驚愕直に復讐敢行の決意を為し、養父母に暇を乞い許しを得たのである。爰に角助夫妻は一家をたたみ、自分等二人は西国八十八ヶ所の御仏様に、三太の武運長久を祷る為め、巡礼となり、慶長十四年八月下旬自宅を出発した。その時三太は養親との惜別の情圧え難く、親は子を引き子は親を慕い、遂に我野々市の照台寺門前桶屋(水毛生方)の樫ノ木の下まで来たり、此処に親子の最後の別れを為したと云う。是れが野々市に於ける有名な孝子三太の来土である。

 これから三太は剣師齊藤金平の門に入り、日夜剣道の修練を為し、日に日に上達したので、愈々立志七年を経た元和元年八月十五日、山田権左衛門が前田家墓参を了し十一屋村に着するや、恨み重なる山田に向い十九年以来の縁果を含め一刀の下に斬付け、首尾克く祖父三平、父三五兵衛、母おまん兄市坊、仁太の仇を討ち遂げた。藩主孝心を賞して弐百石の高を賜った。

 

豊臣秀吉

 天正十三(乙酉)年豊臣秀吉が佐々成政を越中に討たんとする時野々市を過ぐ。その時加賀領主前田利家野々市に迎え、水毛生伊余門方にて豊公と面談した。豊公の乗馬を同家の庭にある大杉に繁いだと云う。今尚其大杉は在る。(是昭和二八年ヨリ三五九年前)

 以上の外菅原道真の通過は第二章に、平維盛、源義仲、源義経の通過は第五章に、親鸞の来錫及び剣工安信、信長の居住は第十章に、其他は各章にそれぞれ既記してあるからこれを省略する。

野々市町小史