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第三章  国府開奠



 今(昭和二十八年)より八百九十一年前の康平六年の頃富樫次郎家国(利仁ヨリ七世也)、創めて加賀国富を野々市に移し国務を執った。これが抑国府開奠である。これから野々市が四隣に其の存在を認められるに至ったので、野々市の今日あるはこの家国の国府開奠に因るものである。

 家国、府を野々市に奠めて、旧来の地名布市を野市(ノノイチと読む)に改め、其の東部に館を築き、祖々父忠頼(利仁より四世)以来宗家の守護神として、累代崇拝せる三柱の御神像(元住吉神社之御神像也詳事第十章)を武松(石川郡出城村竹松カ)より野々市に遷し、館内に安置し封内の安隠を祈ったのである。茲に庶政一新、加賀国府置聴の地としての基礎全く固まった。

 是より八世信家、九世家近、十世家経、十一世家直、十二世泰家、十三世家春、十四世家尚、十五世泰明、十六世家明、十七世高家、十八世氏春、十九世昌家、二十世満家、二十一世満春、二十二世教家、二十三世成春、二十四世政親と子孫相継ぎしが、長享二年一向一楔の為め政親が亡びたので、傍系の富樫泰高政親の遺館に入りて国政を執ったが、その子孫泰成、植泰、泰俊、晴貞と相継ぎ、元亀元年晴貞に至りて、又復、土賊の為め社稷を失うた。その前後凡五百年の間、此野々市に国府を置き国政を執ったので加賀国中の冠府であった。従って又文化の発祥地でもあった。人家も領域も詳かでないが古書口碑等に依り考察するに、人家も数千戸あり、領域も今よりも広範な地域であったようである。亦主なる建造物は、豪荘な富樫館を首め、大乗寺、承天寺、高安軒、聖光山照台寺、住吉宮、小豆飯の稲荷社廟、八幡二社西町 荒町、白山社等建ち並び、亦人物としては、富樫氏一門支流を首め、傑僧徹通、瑩山、明峰、大智及び大楠公の実子傑堂能勝等がある。又剣工、安信、信長等の諸美術家並に加賀能楽の師匠、諸橋大夫其他豪族として高橋新左衛門頼次、不破河内守光治、同彦三、木村九郎左衛門孝信、若林雅楽助、同甚八等中世史乗に於ける名声の人物在り、猶お野々市へ来たりし名士としては、聖護院道輿準后、連歌の宗匠飯尾宗祇法師、画聖雪舟等がある。就中人物中富樫氏累葉の諸卿には、忠勇義烈仁侠撫愛の聞え高く、孰れも史乗に事蹟を顕わさないものは無い。而かも戦乱相継ぎ、千才吶喊の声耳に喧しい時代にも拘わらず、克く家名を保持し国家に貢献したることは、実に甚大であった。斯の如くその頃の野々市は英雄大器の人物が存在したのである。

 今茲に国府開設の史実を挙げよう。

 

 来因概覧(三州志)

  家国之時石川郡高安荘 中昔之荘名今無之 野野市 三宮古記作野市是也下ノ野ハ助語ナリ ニ府ヲ開ケリ 自是至富樫泰俊凡四百年余野々市ニ居ス 云々

 

 同全附録(三州志)

  家国に至リテ館ヲ石川郡高安荘野野市二造リ 今野々市ニ御倉跡、御館跡ト云フ所アリ土人ノ口碑ニ富樫泰高之館跡トス景周按スルニ長享二年正親滅亡後泰高茲ニ移ルナラン館跡家国以来富樫氏四百年茲ニ居ス 国政ヲ治ス(下略)

 

 故墟考(三州志)

 

 家国が府を野々市に奠めしは、其位置国の梢東に偏するが、山に近く海に近く、亦、交通の便ありて戦政共に利有るが故であった。即ち館より僅かに二十町を距てて高尾山があり、山中嶮阻にて高尾城がある。

 

  註 此城は家国が、野々市に府を開いてから、凡そ弐百三十年前の、承和の頃からあったように思われ、富樫氏の築城にかかるものでないようである。其頃同山に真言宗別院があって、其僧徒此城に拠ったものであろう。

 

 故墟考

  類緊国史巻百八十仏道部ニ承和六年三月庚戌加賀国高尾山寺真言別院ト載スル者 下略

 

 亦大野河口から比楽河の水路あり、物資の運搬に便にして且陸路越前越中能登に通する便あり、是等の地の利を選び富樫氏累代此の野々市に、国庁を奠めしものである。

 この国府開奠の紀年に就いては、諸書明らかにしないも、舟木内記に因れば康平六年とあるので之れを徴してこの年を紀年とする。これ以前加賀の国府は加賀建国(弘仁十四年昭和二十八年ヨリ千百四十四年前)以来、能美郡国府村大字古府にあったのである。

 

 和名鈔

  加賀国府 在能美郡行程上十八日下九日