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第八章  国府廃滅



 富樫政親の敗死に依り、従来本願寺派と相提携し来りし富樫小三郎泰高は、その居館を能美郡御幸塚から宗家累代置庁の地野々市に移し、政親の遺舘に入り、加賀全土の守護となった。其時蓮如は、山崎山(今の金沢城址附近)に一寺を建て、本願寺と号し城廓を築いて豪勢を張った。土民之れを尊称して御山と呼び、諸坊また愈南都北嶺の僧兵的、性質一層に強固となり、緇衣を纏いたる武士の如く、土民又之れに従いて、幕府の威令も守護の統制も行われず、国冶の実権は、本願寺宗徒の手に帰した観があった。土冦は西方に弥陀仏あることを知りて治世安民の人生を求むることを知らず、加賀全国は本願寺の領土の如くになり、土頁粗役は尽く江州山科の本山に納むることとなり、夫から蓮如、実如、証如、顕加の院主四世、凡そ九十年の間宗教政治が布かれたのである。泰高は嘉吉以来の苦闘の効空しく、明応年中卒した。法号、瑞光院真幸と云う。

 而して、この泰高の歿年を延徳元年とする説もあれども、額村四十万善性寺の文書に依り、明応八年九月晦日以後永正元年三月五日迄の五年の間とする説があるがこれは確実であるようである。

 

  善性寺の文書

  本庄四十万村之内大仙寺分之屋敷並山林之事○本庄○同村法慶○道場に所寄附也然上者可全知行之状如件

    明応八年九月晦日

 

 この文書は、泰高が兄教家の子成春の廟所及び山林を、政親の滅亡後、十二年目の明応八年九月晦日に、善性寺方へ寄進せし時の文書であるようで、当年泰高の存命して居ることが明らかである。

 

  又同寺文書に

  本庄四十万村之内大仙寺敷地同山林之事法慶 道場任真幸御寄進之旨永久不可有相達者也仍状如件

    永正元年三月五日

 

 この文書は、泰高の後嗣植泰(恒泰ト唱へシ事アリ)が、曩に祖父泰高の善性寺へ寄進せし成春の廟地及び山林、更に寄進方再認せし時の文書のようで、泰高の歿後のことであろうとのことであるから延徳元年説は研究すべきである。

 泰高の長子泰成(慈顕ノ事)は、恒に上洛し、将軍の御供衆或は御相伴衆として、幕中に活躍し、官中務大輔に叙せられしも、文明の末年父泰高に先立て歿した。仍て泰高の歿後その孫植泰統を襲いだのである。

 享祿二年植泰の時、本願寺の権臣、下間頼秀 筑前 弟頼盛両人、証如上人の着命なりと偽わって、加賀一揆を煽動し、加賀及両越を蠶食せんとしたが、加賀在国の宿老及び三山(皮佐谷の松岡寺、山田の光毅寺、二俣の本泉寺のこと)の大坊主は此の挙に応ぜず、富樫植秦も亦之れに応ぜなかった。享祿四年下間党は松岡寺を囲み、蓮綱以下の蓮枝を虜え、又は虐殺し、本泉寺、照台寺(野々市)、清沢寺の諸寺を焼き、その勢大いに昂ったから、在国の宿老悉く国外に難を避けた。この時野々市の照台寺は越中松寺村に奔り、富樫植泰はー族と共に、越前金津城主溝江大煩介長逸の下に寄食した。加賀は全く下間党の掌中に帰したのである。

 然るに翌天文元年、山科の本願寺は、佐々木定頼の為に焼かれ、証如上人は大阪に走ったので、下間は加賀を棄て海路大阪に走退した。加賀は是が為め戦わずして富樫氏に帰し、先に避難した寺院及び富樫氏一族も野々市に復帰した。

 この時植泰は一人越前に留り、植泰の子泰俊は帰りて再び野々市に国庁を開いた。

 泰後野々市に在りて国内の統一を図ったが、天文四年下間又々加賀に攻め寄り、泰俊の政を妨げたので、泰俊は、最早己れに利あらざることを悟り、再び越前に難を避け、野々市を去った。仍て弟晴貞加賀守護となって、国政を執ったのである。この年植泰金津に於て一揆の為めに自害した。

 

  富樫記

  天文四年五月十一日泰高又為一揆自害号泰雲寺

 

 此文書中泰高とあるは、おそらく植泰の誤りで、また泰雲寺とは植泰の法号である。

 斯の如く泰高の歿後植泰は、享祿四年下間党の為めに一族と共に、越前に去りて帰らず、天文元年其の子泰俊、一族と共に越前より野々市に帰りて国治の任に当り、専ら国内の統一を図ったが、天文三年四年の下間党の再起に因り、再び越前に避難した。仍て弟の晴貞統を襲いで国主となったのである。

 

  富樫氏史料彙存

  大乗寺蔵椙樹林大乗護国禅寺中興碑中明徳癸酉罹干兵焚半化灰矣、天文甲午又為舞馬所厄

  (註)此の文書中「天文甲午」は、天文三年に該当する。

 

 本願寺第十代証如上人日記天文五年十月十九日之条

 富樫小次郎方より書状並太刀之代百馬代来

 是ハ富樫氏始祝義ニ来

  (註)此文書中小次郎とあるは晴貞の異名である。

 

 晴貞は天文四年、兄泰俊の本願寺宗徒の迫害を越前金津城に避けたので、その空位の国治の任に当ったが、安寧ならず、下間賊党専横を極めたから、元亀元年五月将軍義昭は晴貞に教書を賜い、賀賊退治の命を発しられた。晴貞織田信長と謀りて出陣せんとしたが、下間党之を聞き、信長は我本山の怨仇である、然るに晴貞之れに与するとは何事ぞ、先ず晴貞を討ちて仏恩を謝せんと、五月上旬、野々市の館を囲んで火攻した。晴貞之れを防ぐことが出来ず、野々市の大乗寺に一時潜伏したが、又之れを重囲し火を放ったので、晴貞河北郡長屋谷伝燈寺に走った。賊軍之を追撃して同寺を囲んで火を放ったから晴貞は防戦の術も尽き、遂に寺内に於いて自裁した。此時晴貞の嫡男晴友(宮内少輔)は越中に走り、二男輝上(号彦二郎)三男豊弘侍者は血戦して、野々市に戦死した。時は元亀元年五月十四日であった。

 爰に於て康平六年富樫家国が開奠せし国府も五百七年を歴て晴貞の亡命と共に廃滅した。昭和二十八年より三百八十四年前のことである。

 一揆は国主晴貞を亡して猶お飽き足らず、さきに越前金津城主大煩介長逸の下に避難した富樫泰俊を、御山御坊の杉浦壱岐守が大将となって天正二年、更に越前に攻めたので支えること出来ず、泰俊は落城に当りて、宗祀の絶えるを憂え、腹心の一郎党に幼児の三男三郎家俊を托し、窃に城を逃がしめ後、嫡男植春、二男天易侍者と倶に、城内に自刃した。泰俊の辞世に、

    先立ぬ悔の八千度悲しきは流るる水の廻り来ぬなり

 郎徒はこの幼児家俊を背負い、加賀に下り富樫家善以来富樫氏と所緑ある石川郡押野村字押野に至り、此処に隠れ賊軍の視を避けた。家俊長じたが再起叶わず、爾来子孫相嗣いで同村に在住した。是れ今の押野の後藤家であると。斯の如く富樫氏は泰俊を最後に一門尽く本願寺宗徒の為めに滅亡せられたのである。

 

 来因概覧に曰く

 (前略然ルニ長享二年頽運極リ是ヨリ士冦縦横火宅僧驕虐加州ハ修羅ノ衢トナリ瞽ボウノ黔首只弥陀仏アルヲ知リテ治世安民ノ人生ヲ求ムルコトヲ知ラズ故ニ闔州本願寺ノ領地ノ如クナリユキ土貢ヲ尽ク江州山科ニ納ム云々

 とあり又某史には

 (前略)抑国主ト千才ヲ交ヘテ之ヲ殪スガ如キハ乱楷ノ甚シキモノニシテ固ヨリ仏門ニ帰スルモノノ避ク可キ所然ルニ之ヲ敢テシテ憚カラザルモノハ政権ノ獲得ニ興味ヲ有スル〇〇僧○云々(中略)

 本願寺門徒之政親ヲ憎悪スル所以ハ彼ガ専修寺ニ親昵スルガ為メニ非ス云々

 とあり又橋本辰彦氏の趣味の日本歴史には

 (前略)親鸞八世ノ法孫ニ蓮如上人ト云フ人アリ弁才一世ニ卑デ専心布教ニカヲ捧ゲテ居タリシガ比叡山ノ衆徒ニ嫉マレ忌マレテ此処ニ居ル能ハズ漂然去リテ姿ヲ北陸ニ現ハシ荊棘ヲ開キ山地ヲ平ゲ越前吉崎ニ一寺を卜シ(中略)

 然ルニ其ノ権力ヲ以テ身ヲ法門ニ托スル彼等モ亦イツシカ専姿横暴ナル南都北嶺ノ僧兵的性質ヲ帯ブルニ至り或時ハ法外ノ要求ヲ領主ニ強訴シ又或時ハ堂々千才ヲ執リテ為政階級ト衝突シタリ加賀ノ領主富樫氏ハ実ニ斯クシテ彼ニ攻メラレ滅亡サレタリ云々

 

 とあり、又、大正十三年十一月加越能の山野に於て、特別陸軍大演習の砌り、摂政宮殿下親しく統監せられ、その時野々市の後備役陸軍歩兵中尉角永敬次氏、五日石川県立師範学校に於て、富樫史蹟に付いての御前講演中、左の如き言葉があった。

  本願寺側ノ此計画ハ正シク同族ノ血ヲ以テ血ヲ洗ハシメル皮肉ナル遣方デアッタノデアリマス