メニューに戻る

第九章 富樫氏滅亡後の野々市
明治維新前


 富樫氏絶炊の後我が野々市は一向宗徒の治下にあった。土豪若林雅楽助、同甚八郎の二氏が富樫舘に住居した。天正八年三月九日、織田信長は本願寺の武力を覆そうとして柴田勝家に命じ北国の一揆に対して痛烈な討伐の手を伸べた。

 この時若林雅楽助は野々市の堅塁を恃んで極力抗戦したが、新興の武家勢力に対しては如何とも術なく、惨たる敗北に終った。実にこの野々市攻略たるや峻烈を極め、勝家は湊川、本吉、宮越と海岸線に沿って進み、宮腰から南上りに野々市北面を火攻すれば、佐久間盛政はこれと呼応して鶴来、四十万を経て野々市の南面から火攻し、南北から狭撃された野々市領域は殆んど全面火の海と化した。戦の結果野々市は文字通りの焦土となり、古来の建造物、宝物、古記録の類一物も残さず燔燼せられ、武家、諸坊は皆他へ奔って僅かに土着の百姓のみが残ったという有様だった。(この戦況の史実第二章にあり)

 勝家が若林雅楽助、同甚八郎を討って後、しばらく野々市に在城の由が織田軍記に記されてあり、後に木村九郎左衛門孝信や不破彦三が住したという。木村九郎左衛門孝信は信長公の臣にて、不破河内守光治に属し、松任の城主鏑木右衛門大夫常ハクの聟となって、手勢三十騎の随一と称され、野々市の出城を預かった。今日住吉社にある大木の銀杏は孝信の植えしところというがさだかではない。

 以上の如く前田藩政に至る迄に武人数代に亘って我が野々市に構えしものなれどもその氏名及住居の跡などはさだかではない。前田藩治となって以後の野々市は、もはや政治の中心を離れ、流石往昔の盛運を偲ばせて郡内第一の大高村ではあったが、北陸道の一宿駅に過ぎぬ存在となった。政治文化の中心地として、領主の存在地として高い誇りと教養を持つ加賀国に対しては、難治の国柄として、前田氏に於ても三代に亘るまでは徹底的な武断政治と、反面懐柔策がとられたものの如く、我が野々市も以後の二百八十余年間を平和な一農村として大政奉還を迎えたのであった。藩政が整うに従って村の行政は十村、肝煎、山廻、新田裁許等の諸機関に依って施行せられたことは他の町村とかわりなく、新しい封建制度の下で野々市が藩主からまた武家から、どのように見られ、どのように扱われて来たかは、藩政中に残されたいろいろな文書が、はっきり示して呉れるであろう。その意味に於て私見を加えず、当地に関係した近世文書を出来るだけ集めて年代順位に記載することにした。しかし斯うした資料はまだ多数に存在することであろうから、断簡を厭わず集収保存されるよう希っておく。

 

明暦四年改元万治元年の分

 

 

万治二年の分

 

 

万治三年の分

 

 

万治四年改元寛文元年の分

 

 

寛文二年の分

 

 

寛文三年の分

 

 

寛文六年の分

 

 

寛文七年の分

 

 

寛文八年の分

 

 

延宝二年の分

 

 

延宝三年の分

 

 

延宝四年の分

 

 

延宝五年の分

 

 

延宝六年の分

 

 

延宝八年の分

 

 

延宝九年の分

 

 

天和二年の分

 

 

天和三年の分

 

 

貞享二年の分

 

 

貞享四年の分

 

 

元祿元年の分

 

 

元祿六年の分

 

 

元祿十一年の分

 

 

元祿十二年の分

 

 

元祿十三年の分

 

 

元祿十四年の分

 

 

元祿十五年の分

 

 

元祿十六年の分

 

 

宝永元年の分

 

 

宝永三年の分

 

 

宝永四年の分

 

 

宝永七年の分

 

 

正徳三年の分

 

 

正徳五年の分

 

 

享保三年の分

 

 

享保四年の分

 

 

享保五年の分

 

 

享保七年の分

 

 

追加の分

 

元祿二年

 

 

元祿十六年

 

 

享保三年

 

 

享保五年

 朝鮮人御用馬割符

 

 一、十五疋    加州三郡

   内三疋    能美郡

    一疋    松 任

   残而十一疋 石川河北宿馬高に而割正二一〇五

 

  内

  二 疋 但当り 一疋 七分三厘  四 宿

  二 疋 同 断 一疋 八分三厘  野々市

  二 疋 同 断 二疋 四分五厘  鶴 来

  一 疋 同 断 一疋 一分三厘  高 松

  二 疋 同 断 二疋 四分八厘  津 幡

  一 疋 同 断 一疋 四分三厘  竹 橋

  〆十疋外 一疋津幡竹橋両宿より出し申筈

                   (下略)

      六月四日(享保五年)