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第九章 富樫氏滅亡後の野々市
明治維新後


 慶応三年十月徳川慶喜将軍大政奉還があって王政復古を迎え、明治四年廃藩置県となった。その当時の肝煎は左の人々であった。

 高橋次郎兵衛  兵地四郎兵衛  小西与右衛門  水毛生伊余門

 其後の行政は明冶九年に石川郡第十一区第五小区に属したが、越えて十一年郡区編制法等が施行せられて、大区小区の編成法が変ったので、更に額村字馬替、富奥村字大平寺を併せて、野々市村他二部落の戸長役場の区域として民選戸長が置かれた。同十七年にはこれが官選戸長に改められ、越えて二十二年四月には町村制が施行せられて戸長が廃止となり、単相に復して村長を置くに至った。挙村一体の努力は躍進的な発展振りを示して、大正十三年七月一日をもって町制を布き由緒ある旧名をその儘に野々市町と名称した。昭和二十八年七月一日は恰も町制実施三十周年に当るので、悠久盛運なりし歴史を回想すると共に大野々市への発展を祝福して盛大な記念式典が挙行された。

 

公吏

 戸長時代において戸長及副戸長の職にあった人々は左の如くである。

  勝田七郎 大矢凉 藤村嘉平 武田友信 館八平 藤村信 館次郎兵衛 瀬尾永章 瀬尾庄平

 

 明治二十二年町村制実施後の町村長及助役、収入役を担任した人々は、左記の如くである。

村長

 氏名     就任年月日       辞任年月日

 瀬尾永章   明治二十二年五月二日  明治二十九年四月二十日

 水毛生伊余門 同二十九年四月三十日  同二十九年九月三日

 藤村理平   同二十九年九月十五日  同三十一年十一月二十四日

 田多野仁三郎 同三十一年十二月七日  同三十二年八月二十三日

 後藤与五郎  同三十二年九月十四日  同三十三年四月十五日

 田多野仁三郎 同三十三年四月二十五日 同三十六年六月一日

 藤村藤作   同三十六年六月十五日  大正十二年四月二日

 館惣次郎   大正十二年五月二十一日 同十三年六月三十日

 

町長

 館惣次郎   大正十三年七月一日   昭和六年八月三十一日

 橋場仕三郎  昭和六年十月一日    昭和十一年四月二十二日

 木戸禎七   同十一年五月十九日   同十二年 三月二十七日

 兵地栄一   同十二年九月八日    同二十一年 三月 十一日

 兵地栄一   同二十一年四月二十三日 同二十一年十一月二十二日

 福田三次   同二十二年四月八日

 

助役

 藤村信    明治二十二年五月十一日  明治二十八年五月二十一日

 館八平    同二十八年六月九日    同二十九年八月十三日

 瀬尾庄平   同二十九年八月二十一日  同三十一年五月三日

 館八平    同三十一年六月十一日   同三十一年六月十五日

 田多野仁三郎 同三十一年八月二十四日  同三十一年十二月六日

 後藤与五郎  同三十一年十二月二十九日 同三十二年六月十二日

 橋場権右衛門 同三十二年六月十三日   同三十六年三月十一日

 藤村藤作   同三十六年五月二十二日  同三十六年六月十五日

 前田喜太郎  同三十六年七月十八日   同三十七年五月三十日

 橋場権右衛門 同三十七年九月一日    同四十一年八月三十日

 瀬尾庄平   同四十一年九月一日    同四十二年九月二十三日

 橋場権右衛門 同四十三年十一月二十二日 大正元年九月三十日

 田村権次郎  大正二年二月三日     同五年四月二十一日

 瀬尾庄平   同五年五月十五日     同九年五月十四日

 瀬尾爾郎   同十年一月二十日     昭和七年四月二日

 木戸禎七   昭和七年四月三日     同十一年五月十九日

 前田良    同十一年六月一日     同十二年十一月七日

 木戸禎七   同十二年十二月二十六日  同二十二年四月八日

 堀岡喜太郎  同二十三年五月九日


収入役

 岩脇又一  明治二十二年五月六日    明治三十年五月二十二日

 前田喜太郎 同三十一年二月七日     同三十二年二月六日

 藤村豊次郎 同三十二年二月二十日    同四十一年九月四日

 藤谷嘉吉郎 同四十一年九月十日     大正元年九月九日

 瀬尾爾郎  大正元年十月十二日     同二年四月九日

 藤谷嘉吉郎 同二年四月十五日      同八年一月十六日

 田村長松  同八年一月二十一日     同十二年一月二十日

 小寺一郎  同十二年三月十五日     同十二年十一月九日

 城戸孫次郎 同十二年十一月九日     昭和三年十二月二十日

 徳野孫二  昭和三年十二月二十八日   同六年六月十二日

 前田良   同六年六月十九日      同十二年十月五日

 田村長利  同十二年十月七日      同十二年十二月二十六日

 木戸禎七  同十二年十二月二十六日   同十三年三月三十一日

 橋場雄次  同十三年三月三十一日    同二十二年二月二十五日

 堀岡喜太郎 同二十二年三月二十日    同二十二年五月九日

 竹内弥三男 同二十二年五月三十一日

官街

 〇金沢地方法務局野々市出張所 大正十年十月創設せられたもので、昭和二十二年五月新憲法及裁判所法施行に依って金沢司法事務局野々市出張所となり、越えて二十四年六月に現在の金沢地方法務局野々市出張所となった。其の所管区域は野々市町、押野村、額村、富奥村(清金末松を除く)旧富樫村、旧三馬村(有松、泉を除く)の範囲である。

 

警務

 ○松任地区警察署野々市駐在所 明治十年頃邏卒屯所として設けられたものがその逸速い前身であるが、昭和二十三年三月迄松任警察署野々市巡査駐在所として来たのが、同年から石川地区警察署に転じ、更に昭和二十八年一月から松任地区警察署に属することとなった。

 ○野々市町消防団 本団は明治二十四年四月二十三日の本町大火に鑑みてその必要を認め、野々市消防組を組織して腕力喞筒一台を備えたのが始まりである。大正十四年五月には自動車喞筒一台を購入し、昭和二十四年十二月更に一台を増加して現在は此の二台の自動車喞筒と尚手引ガソリン一台、腕力喞筒二台を備付けて火災保安に万全を期している。現在団員四十五名猶を此の野々市消防組設立以前において藤村理平氏が個人で経営された丸藤組があったが、明治二十七年五月消防条例発布に伴うて、野々市組に合して発展的に解消した。

 

通信

 ○野々市郵便局 明治三十六年二月に創設され、大正元年十月電信事務並公衆電話が設けられた。また大正十一年五月には特設電話区域外区域となり、昭和十七年十月以来金沢野町郵便局区内に属した。

 

産業

 旧藩時代には草高三千四百石と謂われ、米穀・蔬菜等を産出した。又伝馬問屋に属する駅馬七十三匹、役夫二百十人の負担と木呂の搬出等を副業とした郡内第一の大村落であった。

 その頃の記文に見えるものを雑多に拾うと。

 戸数 元祿二年             二百九十三軒

 高  野々市村吉兵衛組年月不詳(高帳) 三千三百四十二石六斗二舛免五つ三歩

 同 (石川郡高免帳 年月不詳)     三千三百九十二石六斗二舛

 同 (婦負郡長沢村酒井松太郎蔵 年月不詳高帳 野々市村)三千四百二十石七斗一舛五合

 商店 延宝六年 名物書上        煎餅屋 五軒

 同  同                草履

 同  万延元年八月 石川郡質屋帳    質屋 舘屋徳兵衛

 同  同                次兵衛

 同  亀ノ尾ノ記            茶店 夏の水木津春雄 新野佐藤の祖

 公設 安政元年、仝三年 後藤家大書   馬市

 

 右の外油屋三右衛門(館八平の祖)北治兵衛(喜多直次方の祖)の油商があった。北治兵衛家譜に宝永年間の記が見える。

 明治四年廃藩置県が実施せられるると共に、諸般の制度が改廃せられ、郡勢は自然に松任町に移ったかその発祥ともなり、基礎ともなったものも少なくない。特に模範農場と耕地整理の濫觴の如きは特筆すべきであろう。  

模範農場と耕地整理(田区改正)

 明治九年野々市に農事社なるものが設けられ、県下の同志を聚めて、農事の改良について教導した。これが即ち松任高等農学校及び県立農事試験場の前身である。明治二十年これを石川郡模範農場と改名して渡辺譲三郎を聘して場長とした。恰かも当時において農商務省権少書記樋田魯一が欧米諸国の農事視察を了えて帰朝したが、同氏は我国にも農地改良の急なるを説き、地方長官会議に提案して大いに田区改正の必要を力説した。本県令岩村高俊はこれを賛して、帰県後直ちに郡区長を招集してその旨を伝え、郡区長直にまたこれを一般農民に指示奨励したが、これに応せず仍て本郡長安達敬之は野々市にある模範農場に於て成果を試みるべく、これに田区改正の実行を命じたので渡辺場長は率先夫役を励し村民またこれに応援して遂にその完成を見ることが出来た。これ実に我国に於ける耕地整理の嚆矢であって、この模範農場の生徒として当村に玉田小三郎、安原村に高多久兵衛等あり高多久兵衛は翌二十一年この改正にノットって自村の田区改正をした之れより野々市発祥の斯業が逐次全国に行われるに至った。

 模範農場に於ける田区改正の状況は左の如くである。

 

  区域歩数 二町五段八畝三歩

  完成歩数 二町七段八畝六歩

  増減   二段〇三歩増

  筆数   旧地域百二十二筆 改正地域四十二筆

  費用   三十一円三十二銭四厘

  人夫   二百六十九人五分

 製図及側量等諸費 二円二十銭

 この田区改正後、大正三年本格的に本町全域に亘って耕地整理に着手し同九年工事を完了した。これが今日の田地である。其後多少の整理を施したが単なる農道水路の改廃位のものである。

 又、水毛生伊余門氏の荒廃地の開拓、養蠶、桑園の改良を首めとし、製糸伝習所の開設、石川米改良会社設立に伴う県外移出米の改良等文化産業の発達進歩を見た。

 現在では田地二百〇六町二反五畝○四歩畑地四反九畝〇四歩を有し、平年的六千石の米収を得る。農家百九十七戸あり。商家六十戸、工業二十戸あり、何れも発展の道を進めている。

 主なる工場は、

  大北工業株式会社

  北国漁網撚絲株式会社野々市工場

  大日特殊製作所

  東和織物株式会社

  丸一紡績株式会社

  金沢紡織株式会社野々市工場

 

 当町に於ける産業用として消費電力量左の如し

  小口電力  八十二件       二七二、七五馬力

  大口電力    六件     三〇〇〇四、〇〇馬力

  農業用電力 六十一件        六一、〇〇馬力

 

 

 

野々市町農業協同組合

 本組合は大正七年信用販売購売組合として設立せられしを起とし、其後仝劃の改廃に依り、組織及名称等の変更屡々ありしが、昭和二十三年三月五日に至り、更に仝劃の変更を要し、名称を現在の如くに改称し、出資口数四百三十四口(一口の出資格五百円)に改め、今日に至った。現在の設備として農業倉庫六十坪、同倉庫附属建物三十六坪、木炭倉庫十五坪、肥料置場三十六坪、作業場十五坪、事務室三十五坪、他に精米、精麦、製粉、肥料粉砕等の諸機を設備する。

 

野々市町商工会

 大正十年二月野々市商工会を組織し、爾後各地の商工機関と連絡を取り、生産取引の調査並に各方面の視察を為し、協同一致して会員の業務及び町勢の発展に努力した。今日では事業の見るべきもの頗る多い。

 

記念事業

 明治三十七八年戦役記念として、小学校基本財産造成の目的を以て、石川郡額村字大額地内山林二町歩を卜し、同三十八年四月以来殖林を経営した。又別に石川郡と共同にて同戦役記念の石川郡模範植林を経営し、金沢市坪野町(旧富樫村)地内に明治三十九年及四十年に亘り五町歩の殖林を経営した。この殖林に依る収益は、十分の二は本町のものとし学校基本財産に充たした。大正十二年三月三十一日郡制廃止と共に石川郡自治会に譲渡した。昭和二十六年伐期に達したので皆伐する。

 

教育

 野々市には安政の頃瀬尾庄造氏(屋号問屋)ありて、始めて寺小屋を設け、自ら教鞭を執って在村の青年を教育した。これが当町の団体教育の創始とも云える。後明治六年七月にいたって学校令の施行と共に寺小屋を廃して野々市村落小学校として設置され、瀬尾氏宅を男子部校舎に、水毛生伊余門氏(屋号桶屋)を女子部校舎に充て、男女両部から成る義務的教育を行った。翌七年四月一日校舎を住吉神社(今の布市神社)境内に新築して住吉小学校と称した。越えて仝九年、生徒の増加に伴って校舎の狭隘を感じたので、更に一棟をその隣に増築してこれを女子部に充てた。かくて住吉校として一旦合していた男女両部が再び分離して、男子部の校名を野々市小学校と改称し、女子部を桃夭小学校と命名した。蓋し当時開校式に臨んだ桐山石川県権令の命名で、「桃之大夭灼灼其華之子子帰宜其室家」なる詩経中の一文を出典とするものである。其の後桃夭小学校を廃して野々市小学校と称して男女一棟の校舎に入る事となり、明治十八年には更に高等科が置かれ、同三十年四月一日両陛下の御真影を奉戴、昭和二十一年一月二十八日これを奉還した。六・三の新学制によって中学校が設けられ、校舎を増築して昭和二十二年四月二十日開校した。歴代の小学校校長の氏名は次の通りである。

 

  氏名    就任年月      転任年月

  中村茂次  明治二十年二月   明治二十年四月

  岡崎政照  同 二十年四月   同 二十一年六月

  長沢啓   同 二十一年七月  同 二十四年一月

  松井静之  同 二十四年一月  同 二十五年二月

  庄田常保  同 二十五年二月  同 二十七年十一月

  中村政太郎 同 二十七年十二月 同 三十五年四月

  太田定義  同 三十五年四月  同 三十九年四月

  田中半次郎 同 三十九年六月  同 四十三年十月

  浅山英男  同 四十三年十二月 大正元年十二月

  長沢啓   大正元年十二月   同 十年十一月

  桜井純一  同 十一年一月   同 十三年四月

  新谷辰次郎 同 十三年四月   昭和二年三月

  梶本正男  昭和二年三月    同 四年三月

  酒井長森  同 四年三月    同 六年三月

  三須順朔  同 六年四月    同 九年十一月

  亀田次吉  同 九年十二月   同 十一年五月

  新宅久雄  同 十一年六月    同 十四年九月

  村井文三郎 同 十四年九月   同 十六年三月

  北川潤   同 十六年四月   同 十七年三月

  福島源太郎 同 十七年四月   同 二十年四月

  前田資知  同 二十年五月   同 二十一年九月

  西川他吉  同 二十一年十月  同 二十二年二月

  北川政雄(代理)同二十二年二月 同 二十二年三月

  小村梢   同 二十二年四月  同 二十三年三月

  中川末子吉 同 二十三年四月

 

 

 中学校の歴代校長ノ氏名

  小村梢    昭和二十二年四月  同 二十三年三月

  笠間与三郎   同 二十三年四月   同 二十四年十月

  中川末子吉   同 二十四年十一月

 

 

補習学校

 明治二十年十一月二十五日小学校に於いて夜学を設け、校下青年教養の道を開いた。翌二十一年申議夜学と称せり、次で同三十三年六月校下青年は研鑚会を組織し冬期夜学を開始した。同三十六年に至り野々市村夜学とし、翌三十七年一月十九日野々市村立農業補習学校とした。越えて大正十三年三月実業補習学校とし昼間教授したが昭和十年七月青年学枚となり後、戦後昭和二十二年四月学制改善に依り廃止された。

 

 

図書舘

 明治四十年、時の校長田中半次郎氏、本町に図書舘の放置なきを憂え率先して、町有志の寄附を求め、小学校内に設立したので、是れが図書舘の始めである。その後大正九年三月野々市村図書舘とし、越えて昭和二十七年公民館内に附設して青年団図書部に移管した。

 

公民舘

 昭和十四年の建設にかかるもので始め隣保舘と称したが昭和二十四年公民舘と改称し社会教育のセンターとして和洋裁学院、図書舘を開設し、青年産業研究会、生活改善協議会、講演会、読書会、趣味講座など、あらゆる方面に於て、生活に即する教育、文化の向上に努めている。

 

青年団

 本団は明治三十一年創立にかかるもので、これ以前は各町毎に若連中なるものがあって、今の青年団の行事を為していたが、この年各町若連中を併合し野々市青年団と称し各町に支部を置き一村の統一を図り青年の教養に努めた。大正五年七月一日文部、内務の両大臣の訓令に依り団則を改正し、一層の発展を見たが大東亜戦争の時諸般の企劃改正に依り、今日の青年団が出来た。

婦入会

 昭和四年町内婦人間に婦人会結成の声揚かり当時当町小学校に奉職中の新谷美濃里先生の協力を得て結成をえた。初代会長に木村玉氏が就任した。戦時中は銃後奉公に終戦後は生活改善や教養の向上に活動している。

 

保育所

 昭和十三年四月一日野々市小学校の一部を借受け季節託児所を開設せるも狭溢且通年制の必要を認め、時の方面委員部に於て町当局と協議し、中央団体、県、町並篤志者の寄附などに依り、翌十四年十月現在の建物を竣工、翌年五月一日より開設、昭和廿三年保育所に改称、施設内容等に優秀なので、昭和二十八年知事より表彰を受けた。

 

通産省工業技術局電気試験場野々市支所

 本所は昭和二十四年十一月一日開設せられ富山、石川、福井の三県下の電力需給取引用電気計器の検定試験並に各種電気計器の試験更正の依頼に応じ叉電気に関する研究調査並に技術指導を行うことを主事としている。敷地六百七十一坪

 

金沢放送局野々市放送所

 昭和五年四月十五日開設にかかるもので、始め放送出力三粁ワットであったが同二十二年八月第二放送が増説せられ現在では第一第二放送共に十粁ワットである。