メニューに戻る

第十章  神社仏閣
布市神社


 

布市神社

 

 布市神社の祭神は、天照大神、応神天皇(二体)天児屋根命、上筒男命、中筒男命、底部海津見命、菅原道真公、富樫忠頼卿の九柱である。

 此の諸神は往時野々市各所に鎮座し、何れも富樫氏の勧請の神霊であったが、大正三年十一月二十日西町の鎮守、照日八幡神社、六日町中町一日市町の鎮守、富樫郷住吉神社、荒町の鎮守外守八幡神社の三社を、富樫郷住吉神社に合祀して、布市神社と改名した。翌四年指定村社に昇格し、越えて昭和十二年幣殿奥殿の造営を仝て、工事委員長に角永敬次氏を、又棟梁に西尾弥荘松氏を選任し、三月工事に着手し、翌十二年十月竣工、同十四年七月十六日竣工慶賀祭を挙行した。この造営献資総額は、一万九千〇三十四円二十九銭である。

 

 当社九柱の神霊中、上筒男命、中筒男命、底都海津見神、及富樫忠頼の四柱の神霊は、旧富樫郷住吉神社の祭神で、其内富樫忠頼の神霊を除く、他の神霊は、永延元年富樫忠頼が、人皇六十六代一条天皇の勅に依り、加賀国司として下向し、醇政を布いたので、国民其の化に親しみ、正暦元年朝廷に奏して、重任を乞い、更に正暦四年永住の勅諚を賜った。その時天皇忠頼に前記三柱の神像を賜ひ、爾の封国は、巨河数流に流れ、年中水漫恒に行客日を累して渉る能はず、且亦近時越前の敦賀、能登の福良より、韓唐人の入込み、国内を騒さんとする慮れあり、仍て此の明神の利益を以て、難事を避よと宣し給へり、忠頼畏みて拝領し、同年武松(石川郡出城村武松ナランカ)の野原を拓き社殿を造営した。神霊をここに奉祀し、是れより富樫氏の守護神として、累葉勧請するようになった、是れ富樫郷住吉神社の前身で、今(昭和二十八年)を去る事九百六十一年前のことである。

 偶 長徳三年七月、韓人壱岐対嶋九洲を騒かしたので太宰府からの注進に依り、諸神に御祈祷方仰出された、忠頼能登伊夜比?より、舟木真人を招聘し、其神事を勤めさせたので、舟木家代々住吉神社の神主と為り、大小神祇に勤めた。

 夫から六十六年を経た康平六年(自昭和二十八年八九一年前)、富樫家国(七世)加賀国府を野々市に奠めし時、其境内に社殿を造営し、同年八月十六日武松より明神をその社殿に遷し、同時に富樫忠頼郷の神霊をも合祀し、領内の総社とした。爾今富樫氏には祖、天朝から拝領した神として諸郷何れも、朝夕礼拝するようになった。之れ旧富樫郷住吉神社の濫觴である。此の御遷宮の日に相当する八月十六日には、毎年武松の里人、地先の浦辺にて獲たる魚四十八尾を三尾宛十六籠に盛り、献供し来りて御贄の祭儀行うた。この祭儀は遠く武松の時代からあったものである。長亨二年の御贄祭留書によれば、竹松の衆十人野々市の衆三十八人合計四十八人が、昼未の刻から塩魚供進の神事に取掛り、終って塩魚を酢鱠にして、枋葉に分ち盛り、富樫氏より給はつた。白酒と共に両村衆は、社頭にて酒盛りを開き、夕酉の半刻から巫女が先頭に立ち、鈴を振り鳴らすを相図に、一般衆舞い廻ったそうである。この舞歌は盆踊の条に載することとする。現在の野々市の盆踊は、この神楽舞の転訛でなかろうかと察せらる。

 寿永二年源平の騒乱の時、富樫泰家は、源義仲に与し、平軍を京師に追い、戦功ありしも、不幸にして義仲は源頼朝の為め、江州粟津にて敗歿したので、泰家術なく、郷里野々市に帰りて、書を鎌倉に致して、頼朝に誡意を披歴し、本領安堵の命を待ったが、俄にその命に接せなかったので、只管当社神明に、祈願したところ、文治元年六月に至って、加賀国守護職に任じられ、同時に左衛門尉に敍せられたので、泰家大に悦び神徳の尊きことを感じ、その報賽の為め、今の布市神社の地を選んで、社殿を造営し、同年九月十三日神霊を、ここに遷した。是れ今(昭和二十八年)を去ること七百六十九年前のことである。この時泰家今の湯桶谷村字西市瀬の鷹栖山三町歩と、押野村字八日市の田地二町歩とを、寄進して護国住吉神社と改名し、領内の総社とした、その後文明六年十一月一向一揆のため火攻せられ、社殿悉く燔燼の厄に遇い、宝物古記録等は掠奪散乱した。その時三人の賊、神罰を稟け失明したと記に見ゆ、その後長享、天文、元亀、天正の打続く戦乱の為め、社運振はす、今日に至ったのであるが、天正十一年四月前田利家(高徳院)の参拝あり、同十五年八月社頭に下馬札を下された。また元和五年五月十五日前田利常(微妙院)が参拝せられ、神楽料の寄進があった。又寛文九年九月七日前田利政の室、松雲院から御米供田一千五百歩の寄進があった。

 当社の祭儀は武松時代から、祭礼毎に浦辺で獲たる魚四十八尾を献供し、後ちこの魚を酢鱠にし酒盛を開いて、夕刻から村衆一同舞い担ったものらしく、野々市へ遷宮後も、その行事が継続せられたので、野々市の祭礼を枋葉祭とも云い、又踊を枋葉踊とも云うたそうである。また献魚を酢鱠にすることを氏子が習い、戸毎に魚の酢鱠即ち今の寿司を造り、祭客に振舞いたるもので、その慣例今に伝って祭礼には、必ず戸毎に押寿司を作るようになったのである。今の寿司は枋葉に包まず小竹笹又は薄板を布くを例とし、祭礼の寿司は、野々市より発祥したるものであろう。当社々記に依れば、長徳三年能登国伊夜比?より舟木真人を聘し神主と定めし時、内川村奥谷十町歩を領地として、富樫忠頼が寄進せられたので、内川奥谷(今ノ住吉村)より毎年粟五舛を供進し来ていた。ところが、貞享年間に村より苦情が起り之れを廃止した。しかし古例に依り粟餅一重は依然として供進して来た。富樫全盛時代の祭礼の篝火用松找は湯涌谷村字西市ノ瀬鷹栖山より、牛三駄にて供進し来たものであるが、富樫氏滅亡後廃止となった。照台寺記録に依れば、住吉明神は和歌三神の一なりとして毎年春祭には富樫氏より連歌の奉納があった。是れ富樫氏一族何れも情操豊麗な武人て恒に雅懐の催しのあったことが知られる。又当社記に依れば安産の御守と称し懐中神符を出した。是れ富樫氏遠祖藤原利仁将軍の母公白山此?神社より受けた産霊之珠の神符て、霊験あらたかな御守であると。

 次て承応年間に至り毎年八月十六日行はれた枋葉祭は廃止せられ、枋葉踊のみとなり、武松より遷宮以来伝った種子祭も文明五年頃より廃止せられ、文治元年より伝った。九月十三日の秋祭と、三月十三日の春祭のみ伝り来たが、明治二十一年頃から野々市七営一帯の祭礼となって、春秋の祭は十月十三日と四月十三日とに行うこととなった。この他に火鎮祭があり、これは天明の頃野々市大半大火にかかったので、夫から毎年二月二十日に行いつつ今日に至っている。

 当社の氏子は富樫氏社稷を絶つ迄、総社として奉祀し来たので、別段氏子はなかったが、其後戦国時代より今の如くに氏子が出来たそうである。長徳三年富樫忠頼能登国伊夜比?から舟木連の末裔舟木真人を武松に招き、神主とし、総ての神事を勤めしめたのを初めとし、夫から以後舟木氏代々相襲き、応永年間に至り、東西両家に分れたが、共に相勤め明応五年嫡家、西神主左内種材死して世子無く、遂に絶家し、慶長二年五月、又支家東神主清見氏亦弱冠子なくして死去した、為に舟木家の社稷を絶ったので、翌慶長三年四月富樫家明の末裔、久安左近宗春、能登国蛸島に蟄居せるを招き、神事を勤めさせ、享保十三年六世保高に至る迄、此住吉神社に居たか、其後何時頃か遂に、其の所在記録は見へなくなった。夫より後の神職は氏子中より世話人出で宮守を勤めて居たか、明治初年に白山比?神社の神主建部政木氏同社と兼任して明治六年迄之を勤めた。明治七年堀多寿美氏を金沢市より聘して専任社掌とし、夫より堀氏子々相嗣き当代美由紀氏に至っている。猶ほ察するに当社神主は富樫氏勧請にかかる野々市七宮の神事をも兼掌したるものてあろう。

 

  加賀国郷村社区別帳

  八幡社 野々市村 二百八十六戸 建部政木  兼務

  氏子符 明治七年 八幡社  祠掌  堀多寿美

 

 右二史実の八幡社とは西町荒町の両八幡社と住吉社とを総称したもので、氏子二百八十六戸と記してある。

 

社記写

 当社明神御縁起は応仁二年神主舟木内記緒継の編集せし古社伝なるもの御座候得共文明六年十一月門徒宗の騒乱以後長享二年六月介殿御没落迄に宝物と共に掠奪散逸の難に羅り伝はり不申候

 近頃大乗寺に右古社伝写本伝来の由承知致し一見を求め候処快く披見を許され候乍去全部無之僅に首巻の一端のみにて正暦三年御勧請後文治五年御遷宮迄の御略伝紙数拾数枚のものに御座候外に増泉村十村役喜兵衛方に伝来の御贄祭留書総社住吉明神御伝記当村五郎右衛門御祭申伝覚書何れも紙数一二枚宛に御座候是に由り聊か御縁起の概略を窺い奉ることに御座候

 明神の御勧請は人皇六十六代一条天皇の御字永延元年藤原朝臣忠頼郷加賀国介に任せられ下国せられ仁政民を愛し給いし為め任満つるも民を挙けて重任を朝延に請い奉る帝聞食及はせられ御感斜ならず正暦三年二月召されて永任の加賀国介たるへく勅諚を下し給う郷時に大相国公を経て賊臣内を治むる更に憂うる所無御座候得共只越前の敦賀能登の福良より国内に入込み居候韓唐人の輩常に多く窃に謀る所あるものの様見受けられ之れのみ心にかかり申候仰ぎ願くは天朝の御威光と神明の利益とを載き民の安堵を計り申し度と申上げければ叡聞に達し忠義の志を御嘉納あらせられ住吉三柱大明神の御神霊をそ授け賜う郷大に喜び申され帰りて武松の野原を拓き社殿御造営勧請の事終る之を当社の濫觴とする由右諸記録何れも記し御座候

 間もなく長徳三年七月韓人壱岐対馬肥前を初め九州侵し殺戮掠奪を働き候由大宰府より注進申されければ諸国へ軍手配緩怠なく神明に御祈祷方仰せ出さる忠頼郷も畏り能登伊夜比?より我明神に御縁深き氏人舟木連の未なる真人を武松に迎へて神事を勤めさせ石川郡内川奥谷十町歩を御領として寄進し鎮護国家の御祈祷怠りなく勤められ候此神領地何れの頃よりか世人住吉と申習はし只今の住吉村に御座候当社明神の御影を載き氏神と仰き居候元亀年間介殿退転後は神領の沙汰も相止み候得共祖父則宗代迄年々此祭礼に粟五舛を献上し越せしに貞享年間村方不慮の苦情起り其後全く相絶へ候由祖父の申伝に御座候

 右粟献上越さす候得共古例として干今御祭礼には粟の鏡餅一重御供へ申居る義に御座候

 康平六年の頃三代の介殿家国の代に政聴舘第を野々市に定められ候砌境内に総社御造営朝夕領内大小神祇に御祈請其節本社明神は天朝より祖先拝領の霊神なれば日々親しく御参拝あるへき為め同年八月十六日武松より総社へ御遷宮あり年々此御遷宮の日に相当し昔よりの古例を追い武松の里人地先の浦辺にて獲たる魚四拾八尾を三尾宛十六籠に盛り献供罷越御贄の御祭儀を勤め申候

 此御祭儀は遠く武松御勧請の頃に始まり長享より元亀年間の騒乱中に全く相絶へ御儀式も相不伝候得共長享二年の御贄祭留書に依れば竹松衆拾人野々市衆三十八人毎年交替にて罷出昼未の刻塩魚供進の神事に取掛り終って塩魚を酢膾に作り枋葉に分ち盛り介殿より給はる白酒と共に両村衆に与へ社頭にて酒盛を張り夕酉の半刻より巫女先頭に立ち鈴を振るを相図に野々市村衆一同舞い回る其神楽歌

  八尋の鰐は神楽に驚き尾鰭を立て沖の荒波遙かに飛去る難有やな目出度やな

  武庫津の宮居神楽か響く沖の御船に御旗か見ゆる勝閧揚る難有やな目出度やな

 等十数種御座候由今多くは伝り不申候

 武松神鎮座の折は近浦一帯に御贄を供進せし由に候得共其御祭儀日並相分り不申候

 御贄祭俗に枋葉祭とも申候由にて今は此古例に基き塩魚十二尾を毎年御祭礼に供進する計りに御座候氏子各家は塩魚酢膾叉は枋葉を布きし鮓客人に振舞申す事に御座候

 喜兵衛所持の明神御伝記には只今竹松の住吉杜は当社の旧地跡に里人御影を祀りしものと記し御座候得●●仁の古社伝残本には其事無之其勧請何の頃か相分り不申定めし後年の義と存候

 応永年間より神楽舞拝見の所方群衆も翌暁迄舞回はり候事例と相成年々盛大に赴き候由是御贄踊の濫觴に御座候

 承応年間より他村盆踊と同一日並に改め申候乍去今も踊歌の節文句他村と大に相違い居る義に御座候

 又毎年必ず踊場にて活祓を行い然る後舞踊を催し候も全く右の次第に依る義に御座候養和元年以来介殿泰家は木曾殿に御味方せられ木曾殿討死後右大将へ申聞きを立てられ候得共久しく何の御沙汰なく心配致され只管当社明神へ祈願を籠められ文治元年十一月鎌倉に召され加賀の守護職仰せ付けられ左衛門尉を授けられ候に依り一方ならず神徳を感じ給ひ同五年今の土地に社殿造営に取掛り九月出来其十三日御遷宮此時御先祖忠頼郷の霊像をも相殿として崇め鷹栖山三町歩八日市の田地二町歩を御寄進被為成護国神社と称へられ候得共領民は依然総社住吉大明神と申奉り候是より以後今日に至る迄御遷座無之義に御座候

 此御料林御供田共に介殿御没落の為相絶へ申候

 今は只西市ノ瀬八日市共に当明神御影を崇め其氏子と相成居迄に御座候

 文明六年十一月二十二日笠間兵衛家次等賊衆引連れ介殿屋形に攻入り候以来御領内騒乱止む時なく長享二年六月八日介殿政親御生害に至る迄に当社も乱賊押入り数々掠奪を被り宝物古記録等悉く散逸致し候御社殿も大に荒果たりと伝記に記され申候

 其の後今江の館泰高野々市に移り来られ当社明神の御信仰不浅英子植泰介殿相続と雖も国司の御威勢更になく其の泰俊元亀元年五月六日乱賊に襲はれ舘をも焼かれ一族越前金津溝正氏方へ退転被致当国の領土全く人手に渡り申候

 舟木神主は祖先真人以来連綿相続数十代に及び応永年間東西両家に別れ共に相勤め罷社候処明応五年嫡家西神主左内種材死して子なく断絶慶長二年五月末家東神主清見亦弱冠功なくして死去の為め断絶仕候

 天正十一年四月太守高徳院様御入国旧国司の守護神として御崇敬遊はされ同十五年八月社頭に下馬札を下たし給い元和五年五月十日微妙院様御社参の砌神楽料を御寄進遊はされ寛文九年九月七日松雲院様より社領として当村の田千五百歩を御寄進被遊候

 私儀祖先は介殿高家の弟家明の末流にて久安左近宗春と申候長享年間の騒乱に難を脱かれ能州蛸島に罷在候

 処慶長三年四月迎へられ神主職相勤め私にて六代宗家富樫家守護神に仕へ奉り今、目前に此安らけき御仁政に会うこと誠に冥加に余りたる義と奉存弥々丹精を抽んて朝夕治平安国の御祈祷ロリ不申候 謹 言

  亨保十三年戌辰秋八月

  獲国住吉大明神社神主

  和泉守藤原保高花押

 

祖父則宗物語

 一、当社明神ハ神代ニ於テ日向ノ橘ノ小門ノ水底ニ居テ水葉稚カニ出居マス神ナリ御名ハ底筒男中筒男表筒男ト申シ奉リ神功皇后征韓ノ主神ニマシマシ候紀ニ物部麁鹿火大連夫人ノ言トシテ

 夫レ住吉神ハ初メ海表ノ金銀之国百済新羅任那等ヲ以テ胎中ノ誉田天皇ニ授ケ訖レリトアリ又住吉御本宮ノ神代記ニハ神功皇后ノ御言葉トシテ

 勝交リ親シム所ノ百済国者是大神ノ授ケ賜フ所也人故ニ由ニ非スト御座候去レハニヤ古来明神ヲ軍ノ大神トモ令三軍大明神トモ異唐国大神トモ申シ奉り候

 一、新羅任那両国ノ都ニテモ昔ハ国守ノ神トシテ齊キ率リシ事古書ニ御座候

 一、明神ノ和魂ハ摂津国住吉カ御本宮ニテ荒魂ハ長門国豊浦ノ住吉坐荒魂神社ニ御座候

 一、御本宮神主ノ起源ハ神功皇后ヨリ征韓ニ因アル武内大臣ノ弟甘美内宿禰津守大神主ノ祖手搓宿禰舟木連ノ祖田々宿禰ノ三人ニ仰付ケラレ其後甘美内宿禰罪アリテ貶セラレニ神主トナリシ由ニ御座候

 一、舟木連ハ神武天皇第二皇子神八井耳命ノ子孫ニテ皇后韓国御征伐ノ砌舟ヲ作リ献セシヨリ舟木姓ヲ賜ハリ子孫諸国ニ広カリ候由

 一、摂津御本宮ニハ昔神功皇后ヨリ御寄進ニ相成播磨国椅鹿ノ杣山ヲ御造営及ビ船材用ニ御所領ノ由長門国豊浦住吉荒魂宮ニモ舟木山御所領ノ由去レハ長徳年間介殿ヨリ舟木氏ヲ神主ニ召サレ内川谷十町歩ヲ御寄進被遊候ハ舟木山トシテナラント被存候

 一、御相殿忠頼郷神像ハ介殿吉宗ノ御作ナリト申伝へ候

 一、御神宝ノ内産霊珠ハ介殿御遠祖利仁将軍御母君泰氏白山比?大神ニ安産御祈顕夢中御感得被為在即日将軍御誕生ト申伝へ介殿御家ニ取リ無上ノ御宝ニシテ文治五年御遷宮ト同時ニ当社ヘ奉安ト申伝ヘ諸人安産ノ霊験著シキコトニ御座候

 一、御拝殿護国ノ二字竪額ハ介殿泰家御筆ノ由申伝ヘ候年代古ク今ハ文字鮮明ナラス候

 一、宝殿ニハ介殿御代々申胃太刀類多ク奉納得座候処文明六年士賊ノ掠奪ニ逢イ其上長享年中宝殿モ兵火ニ羅リ多クノ宝物記録悉ク焼失セリトノ事ニ御座候

 一、文明六年土賊共御本殿へ侵入笠間ノモノ三人共即座ニ失明盲目ト相成遂ニ乱心相果候由神罰ナリト申伝ヘ候殊ニ笠間明神ハ本社明神御同体ナルニ其氏人トシテ不逞ノ所業神罰ノ厳シキモ理ナリト可申候

 一、康平六年介殿御引越之節当地ハ高安荘ト申セシ由是ヨリ布市ヲ野々市ト改メ其後又野々市ト称セル由ニ御座候

 一、其後当村ハ押野郷ニキ富樫郷トナリシハ其又後ナリト申セバ介殿家国ノ御代ハ富樫氏ニハ無之齊藤氏ナルへク被存候

 一、只今ノ御社地モ御舘地続キニテ元総社ハ西隣ナリト承及ビ侯

 一、御祭礼ニ桑酒進献ノ義ハ其起源年代共ニ相分リ不申候得共以前ハ介殿家ヨリ御供進ノ由

 一、介殿御時代ハ毎年南都春日御社へ御供米三石宛進献被遊候由

 一、元神主舟木氏ハ舟木連ノ後裔トシテ連綿シ来リ世間両家ニ分立後モ西神主ハ依然村路氏ヲ祢シ東神主ハ舟木氏ニ復シ候由

 一、大抵古キ神社ハ神仏両部ニ御座候処当社ハ古来唯一神道ニテ社僧別当ノ類居不申候

 一、介殿時代毎年御祭礼ノ篝火用松材ハ西市ノ瀬ヨリ牛三駄ニテ供進シ来レル由ニ御座候

 一、御贄踊ハ承応年間迄ハ男ノミニテ同年間他村同様盆ノ踊ト相成女入交り候由

 一、御社頭ニ介殿昌家御手植ノ老松三株御座候処延宝二年三株共枯死到候

 一、当村氏子ノ義ハ元亀元年介殿御退転後ノ事ニテ以前ハ御領円一般ノ御守護神ニ御座候故別段氏子之レナキ事ニ御座候

  庚戌年六月   保高改メ久安宗高記之

 

 

 

故事覚書

 一、神代伊弉諾尊日向ノ小門ノ橘ノ憶ケ原ニ往キ御祓シ給ヒシトキ九在ノ神出現シ給フ其内海底ヲ沈濯シ給ヒシトキ生レマセシハ底筒男之神潮中ヲ潜濯シ給ヒシトキ生レマセシハ中筒男之神海上ヲ浮濯シ給ヒシトキ生レマセシハ表筒男之神ニシテ此三柱ヲ住吉大明神卜申シ奉ル

 一、神功皇后御神徳ニ依り新羅百済ヲ御征伐翌年二月吾魂ハ大津渟中倉之長峡ニ居ルへシトノ神敕アリ皇后ノ御体ニ訖リ所々ニ循行キ給フ内摂津墨吉ノ地ニ至リ之レ真住吉々々々ノ国ナリト神告アリテ其土ニ鎮座シ給フ依テ其地ヲ住吉トイフ

 一、荒魂ハ日向ノ小戸ノ橘ニ止リ給フ此小戸ノ橘ノ檍ヶ原ハ日向トイへトモ今ノ筑前国ナリトノ説アリ然レトモ日向国ニモ又此地名アリテ的カナラス

 一、筑前国那珂郡往吉村ニ住吉神社アリ叉同郡志賀島ノ志賀明神ハ底津少童神中津少童神表津少童神ノ三柱ニテ即チ住吉明神ト御同胞九柱ノ御内ナリトイフ之レニ依レハ筑前説ノ方正シキカ如シ

 一、現今摂津御本宮御祭神ハ四柱ナレトモ之レニ仁徳天皇十二年ヨリ神功皇后ノ御霊ヲ合セ祭リシニ依ル当社ハ古代其儘ノ奉斎ナリ

 一、住吉明神ハ海ヲ守ラセ給フ御神ナルカ此故ニ其元海士族ノ祖阿曇連之レニ奉仕ス然ルニ神功皇后ノ御代ニ至り津守連奉仕スルニ及ンデ阿曇連退キタリトゾ

 一、摂津御本宮御盛大ノ砌御舟木山トシテ御神領紀伊国兄山ヨリ河内国天野錦織石川大和国葛木ノ二上山生駒山ニ亘り一方摂津国為奈山城辺山ヨリ播磨国賀茂明石賀古三郡ノ諸山ニ至ルトノコトナリ

 一、増泉村十村役林喜兵衛ヨリ出テシ当社明神御伝記ニ御贄祭種子祭ノ文字見ユレトモ御祭儀ノ次第不明御贄祭ハ別ニ留書アレハ聊カ事ノ概略ヲ伝フルモ種子祭ハ毎年二月朔日トイフ外何ノ所見ナキハ惜ムへシ但海産ノ幸ヲ守ラセ給フ神徳ニ基クハイフ迄モナシ此御伝記ハ文明五年ノモノナレハ其時代迄伝ハリシ御祭儀ナルコト明ナリ

 一、当村八左衛門方ニ種子祭ノ神符ナルモノ所持シ居レり縦七寸幅三寸田畠能成福御守護トノ板木摺ニテ中程ニ直経二寸五分円形ノ中ニ護国住吉大明神ノ御朱印ヲ押シアリ之レニ依レハ米穀ニ限ラス其年内ニ時クへキ田畑一切ノ物種子ニ付祈請セシモノト察セラル

 一、照台寺老僧ノ話ニ住吉明神ハ和歌三神ノ一ナリ此故ニ介殿時代一門家人毎年春連歌奉納ノ御催シアリシナリト同寺ノ記録ニアル由ナレトモ当社ニハ何ノ所伝モナシ

 一、又右老僧ノ話ニ昔ハ当社ヨり安山ノ御守ト称シ懐中スヘキ小神符ヲ出シ諸人之レヲ乞フモノ多カリシト記録ニアル由之レハ産霊之珠ノ神符ニテ今モ祈請ノモノアレハ授与シ居レトモ乞フモノ二三年間ニ僅カ一二人ノ有様ナリ

 一、富樫介殿祖先利仁将軍ハ左大臣藤原魚名ノ裔孫ニシテ父ハ越前国司時長母ハ同国ノ豪族秦豊国ノ女ナリ秦氏ハ元帰化人ニシテ坂井郡ニ住シ威福ヲ張レリ利仁外祖父ノ故ヲ以テ坂井郡ヲ領シ更ニ敦賀郡ノ土豪藤原有仁ノ子トナレリ此有仁ノ富強ナルコトハ今昔物語利仁将軍著蕷粥ノ事ノ一節ニテモ知ルへシトイフ鎮守府将軍ニ累進シ延喜年中賊ヲ下野国ニ討ツテ功アリ館ハ敦賀郡御名村ニアリシカ子孫北陸ニ広カル斎藤富樫林進藤匹田竹田等ノ諸族即チ是レナリ

 一、利仁ノ子叙用斎宮頭トナリ初メテ斎藤氏ヲ冒カス其子吉信ハ永延元年長子滝口ノ候人忠頼ト共ニ加賀国介ニ任セラレルトイフ然レトモ吉信下国セサルニヤ忠頼ヲ以テ富樫氏国介ノ祖ト為ス吉信ノ末子斎藤伊博ハ越前国押領使トナリ子孫坂井郡河口庄ニ繁昌ス

 一、国司常在執務スル所ヲ国庁又ハ国衙トイヒ其所在地ヲ国府又ハ鄙ノ都ト呼ヒシトイフ去レハ誰人ノ歌ニヤ

 

   国まもる住江の御恵に

      ひなの都の弥栄え行く

 

 一、富樫氏隆盛時代ハ野々市今江両家ノ外三家並ニ二十一家トイフアリ彼ノ林松任倉光久保久安押野山川額槻橋安江高柳ノ類即チ是ナり然ルニ野々市館ハ長享二年六月八日政親高尾山御廟谷ニテ自害セラレ絶滅シ今江ヨり泰高野々市館ニ移ラレシモ是又其泰俊ノ時元亀元年五月六日土賊ニ攻略サレ越前国金津溝江家ニ客居シ再興ヲ計ラレシカ天正二年二月十六日一揆ノ為メ攻略サレ溝江宗天入道及ヒ其子大炊允長逸ト共ニ泰俊モ自殺セラレ仝ク介殿家ハ断絶セリ泰俊ノ辞世

  

   先立ぬ悔の八千度悲しきは

      流るる水の廻り来ぬなり

 

 一、我等祖先左近宗春ハ天正年間父宗時ニ従ヒ能登国珠洲郡蛸島高倉彦神社社家ノ許ニ潜ミアリ宗時同所ニテ死歿ス慶長三年当地へ迎へラレシ爾後代々明神ニ仕へ奉ルナり宗春ノ歌ニ

 

   遠つ祖の斎きまつりし大神に

      今日より仕へまつる嬉しさ

 

   諸人の心のうれし今日よりそ

      御神に仕へ世をは過さん

 

 一、正保三年馬替村百姓惣兵衛物取リノ疑ヲ受ケ召捕ハレ五十日余モ入牢ノ儘ナリケレバ其女ひな年十七至ツテ孝心ニテ病母ニ任ヘ且弟ヲ労リアリケルカ当村三右衛門ヨリ神徳ヲ伝ヘ聞キ三七日毎夜来ツテ百度ヲ踏ミ祈願ヲ籠メシニ満願ノ翌日惣兵衛無実ノコト明白出牢セり明神ひなノ孝心ニ感応アラセラレシ所ナリトテ諸人一層尊信シ奉レリトゾ

 

 次に祭神九柱の内、天照大神、応神天皇、天児屋根命の神は西町の鎮字旧照日八幡神社の祭神で、御神像拝領等に関しては明かでないが、石川郡誌に依れば、その創建は今(昭和二十八年)を去る事七百六十四年程前の、建久の頃、富樫家春(十三代)初めて今の西表田甫八幡田(一作八幡座)に、社殿を造営して此の三神を祀りて、勧請したようである。これが当社の濫觴である。天正年間今の鶴来往来、へ十八番地へ遷し、夫より大正四年神社併合迄、凡そ三百五十年程鎮座ませし神徳高き霊神である。明治初年其筋より御神像御調査の砌、由緒深きことを知り、櫃に厳封し神職一名を差向きされしが、氏子七十余戸を以て扶持すること出来ず、旧住吉神社に譲ったのである。斯の如く古杜であるが、伝記宝物等は、土賊騒乱の時、焼失、掠奪等の厄にかかったものであろう。大正七年この社址に舘八平氏自ら資を損して一基を建てその址を遺してある。

 次に同しい祭神の内の応仁天皇及菅原道具の二柱の神は東町の鎮守旧外守八幡神社の祭神で、当社は文化の頃、野々市七社の一つであった辻ノ宮(社名天満宮祭神菅公)と併合した社である。辻ノ宮は今の荒町西田甫にあったので神徳高く村内に死者ある時は必ずこの社に莚を叩く音が聞えて、村民は死者あることが予想せられる実に霊験ある神であった。今この祉跡に一基を遺してある。

 又、応仁天皇を祀れる八幡宮は、何処に鎮座せられたか明かでないが、慶長の頃今のノ三十番地(大乗寺旧址)に遷座せられし神である。その神徳極めて高き旧社であったが土賊騒乱の時、宝物伝記等焼失し顕影を見ない。

 以上の如くこの社は、八幡宮と天満宮との二社併合々祀されたもので古書には、

 亀ノ尾ノ記

  村より西に天満宮の社あり云々

 金沢古蹟志

  野々市天満宮の向ふに白山水あり云々

 白空撰千綱集

  金府を去ること一里ばかりに、のの市と云ふ里あり入口右の方に八幡宮たたせたまふ

 

 

 次に布市神社の保存宝影を掲げる。

 

一、神刀 三振

 この神刀三振の内、一振は二代信長の作で、信長は応仁の頃、富樫氏(富樫氏二十二世)に仕へ、野々市に住み、大乗寺の霊水、白山水でこの銘刀を鍛えたものである。信長の祖父を安信と云い、安信は京信国の弟子で、越後国山村に住む正信の子である。安信は文和二(癸己)年に生れ応永四(丁丑)年四十五歳で歿した。人と為り加賀国主護、富樫氏(昌家或満家)に聘せられて野々市に来り、白山水を以て刀を鍛え富樫氏の御用を勤めた。是れから安信の子信長嗣き、信長の子二代信長亦之を嗣いで鍛えたものである。今より凡そ四百八十年前のことである。他の二振は慶長の頃のもので、三条吉永之作一尺六寸、河内守国助之作二尺である。

 

 

一、奉額

 佐々木志津摩の揮亳にかかる木額壱枚あり、額字は住吉大明神と書いてあって、この人は江戸時代の有名な書家である。

 狩野明信の描いた源平八嶋海戦の絵額壱枚がある。明信は文化文政の人で、加賀藩より五十俵を拝領した画家であった。

 

 

 

一、古木 公孫樹

  一本 周囲  一丈五尺

              高さ  十三間

 

 この古木公孫樹は、何時頃誰人の植えしものであるか、諸説ありて明かでないが、富樫忠頼とも云い、家国とも云い、或は泰家とも云い、或は木村孝信とも云う、樹令から察するに、忠頼又は家国としては遠きに失し、木村孝信としては近きに失する感じがするから或は泰家に当らんかと思われる。今夫等の関係紀文を掲げれば

 亀ノ尾ノ記

 木村長門守重成の伯父木村九郎左衛門孝信が織田信長の臣となり、野々市に在住せし不破河内守光治に属し当地松百の城主鏑木右衛門大夫の聟として(中略)今此村中に住吉社ありこの境内の銀杏の喬木は此の孝信

 の植えしものなりと云ふ

 

 和漢三才図絵 

 

 この二史実中、和漢三才図絵は、正徳二年(自昭和二十八年二百四十二年前)浪華の人高島良安の著作に係る書で、その頃大木であったと云うことであるから泰家時代に植えたものと見られる。社記には文治元年泰家が社殿造営の時植えたものと記してある。文治元年は今(昭和二十八年)を去る七百六十九年前である。

 

 

一、弁慶の石  一名雨乞の石

 この石は、文治ニ(丙午)年(自昭和十六年七百五十六年前)三月一日、富樫泰家、彼の安宅関に於て弁慶の勧進帳にこと寄せ、義経一行の潜行を通したとき(在詳事第五章)義経はその答礼の為め同年三月三日(桃花節桃ノ節句)野々市の富樫の舘へ弁慶を遺した。その時弁慶はこの石を鞠の如くに扱い、力持の曲技を泰家の従覧に供した。終って弁慶は、其石を今の西裏字力石に投げたと口碑に伝えられている。(力石出名録)その後何時の頃か旧照日八幡神社境内に移し、大正三年の神社併合のとき、本社境内に遷した。この石大盤若石で、弁慶でなければ扱うことが出来ない石であった。明治維新頃迄、旱天の時は西町若連中総出して野々市村内をこの石をかつぎ廻ったところ、必ず霊異あって慈雨忽ちにうるほしたから、この霊石を呼んで雨乞石とも称した。この如く由緒深い石であるが、幾百年の間に風火震水に遇い、今は著しく減少している。

 

 

一、富樫氏先業碑(在詳事第五章)

 

一、忠魂碑(明治四十四年建之村民)