メニューに戻る

第十一章  天皇行幸及皇族台臨



 

 明治天皇之行幸

 明治十一年十月五日、明治天皇北陸御巡幸の砌り、野々市に御光臨あらせられ、藤村理平方にて御小憩遊ばされた。この日は村民早朝から陛下の御英姿を拝せんものと欣喜勇躍し、累日に渉る沿道の清掃をも一入清く掃き浄め、清砂を敷き、各所に国旗を揚げ、七五三繩を張りめぐらして心からの祝意を表した。近郷近在から集まった奉迎者によって沿道両側の堵をなすに加え、野々市小学校をはじめ近村諸学校の生徒が手に手に日の丸の旗を飜して、三馬村二万堂橋から堵列したのほ赤誠溢れた見事なものであった。藤村家にては門前に墨痕鮮かに「御小休所」と書かれた高さ八尺の標札を立て、その腰垣に青竹のやらいを結び、門の左右には盛砂に御浄水桶を備え、門には紫地に菊花の御紋章を染め抜いた幕をうたせ、尚玉座と尊められた十二畳半の奥座敷には種々な装飾が施された。附近の藤谷嘉四郎方を供奉騎兵の休憩所に、杉浦友里方及び藤村嘉助方を供奉警官の休所に、絹川善吉方を御厩舎に、鈴木豊次郎方の井戸水を御膳水に、それぞれ御用を割当て諸般の準備が遺憾なく整いられた。十月二日金沢市南町中屋彦十郎方行在所に着御あらせられた聖上には、三、四両日に亘る金沢御巡幸の日程を終えさせられ、翌五日午前七時同行在所を御発輦同八時六分藤村方へ御着輦になった。聖上には茶菓を召されて小憩の後、同八時四十分同家を御発輦、天気麗わしく松任へ向わせられた。松任行在所に充てられた寄所に御着になったのは九時三十五分であった。当日は早朝から曇り勝な空模様で風は無く、降雨が予想されたが、降り出したのは午前十一時過からで、野々市御通過の時刻は幸にも雨なく、村民一同悠心に御迎送申上げることの出来たのを喜んだ。この時野々市に有功者として御納度金下賜の御沙汰あった人達は次のようである。

 

  加賀国石川郡野々市村平民 藤村理平

 一、金拾五円也 但御小休所

 

               同人

 一、麻晒 弐匹 但玉座自費ヲ以テ修繕候ニ付

 

  加賀国石川郡野々市村平民 鈴木豊次郎

 一、五拾銭也 但御膳水御用

 

  加賀国石川郡野々市村平民 絹川善吉

 一、金弐円也 但御厩課小休所

 

  加賀国石川郡野々市村平民 藤谷嘉四郎

 一、金弐円也 但騎兵小休所

 

  加賀国石川郡野末市村平民 杉浦友里

 一、金参円也 但巡査小休所

 

  加賀国石川郡野々市村平民 藤村嘉助

 一、金弐円也 但巡査小休所

 

 当時聖上の玉座に充てられた藤村家の座敷及び次の間、門などは往時野々市の十村役であったと云う舘家に有ったもので、藩政時代に藩主のため、村費をもって同家邸内に造営せられたものである。藩政時代には屡々野々市前田公の来駕があって、その都度舘家に立寄り、この座敷にて休憩せられたと云う。

 

皇族宮の御来臨

 ○秩父宮雍仁観王殿下には昭和五年十月三日、陸軍大学々生として、図上戦術御研究のため御来県の際、野々市小学校に御立寄り御昼を喫せられた。

 ○東久邇宮稔彦王殿下には、大正七、八のニヶ年間を第九師団歩兵第七聯隊第一大隊長として御在隊中、大正八年秋季機動演習の石川平野を中心に行れた際、南軍に属し給うた殿下には北軍を圧迫しつつ御英姿を野々市に臨ませ給い、その泥土にまみれた御奪闘振りに村民齊しく恐懼醒感激した。

 ○季王世子垠殿下には大正の頃陸軍大学々生として図上戦術御研究のため北陸地方に御来臨、その節野々市に照台寺に御立寄あって御昼食を喫せられた。