メニューに戻る

第十三章  名物及旧蹟



 

馬市

 野々市の馬市は、遠く富樫氏時代からあったものである。即ち今から(昭和二十八年)四百八十八年前の文政元年既に野々市に馬市のあったことが見える。亦長享二年一向一揆が、富樫政親を高尾城に攻めた時、其の賊将笠間兵衛家次が、数千の兵を率いて野々市の馬市に屯すと三州志に見えるから、其の当時からあった事は明白で、亦其の規模の大なることも判る。その後大正六年法律に依り、有名な野々市の馬市も廃止せられたのである。この馬市に関する文書として、押野村後藤家秘蔵の文書に嘉永七年即ち安政元年及び同三年に、同家十世の次郎左衛門幸安氏が、十村役を勤めた時、藩公より

 

 「野々市住吉ノ宮に於ける馬市の施行の義に付其の主付十村を申付けられ同勤の者と出精す可し」

 

 とあり亦前田家秘蔵の文書中その当時の野々市の馬市の定書を見れば次のようである。規定には

 

 第一期日

  三月二日ヨリ日数二日岩犬同二十二日ヨリ日数三日間女馬ト牛トテ都合五日間

  四月二十日ヨり日数七日三才駒岩犬市同二十七日ヨリ日数三日間女馬ト牛都合十日間

  五月二十日ヨリ日数七日二才駒市同二十七日ヨリ日数三日女馬ト牛都合十日間

  九月二十日ヨリ日数五日間三才岩犬市同二十五日ヨリ日数三日女馬ト牛都合八日間

 

 第二規定

  御家中ノ買馬ハ御博労ノ手ヲ離レテ町博労ノミ中次ノ義ハ成ラズ売人ハ御郡方博労へ世話ヲ頼ム事御家中持馬払下ノ時ハ他国ノ者買受クルトモ買人ハ御郡博労ノ手ヲ経ル事

  牛馬売買ノ世話料ハ牡馬一疋銀六匁女馬一疋五匁牛一疋四匁博労へ取受ケル事但売人ト買人ト半額宛取受クル事

  能州牛馬新川郡並ニ富山領へ売捌ニ赴ク時指紙ヲ渡ス若シ望人無クシテ戻ル時ハ其指紙小杉ノ御改所へ指出シ裏書受ヶ消印取受帰リテ役所へ指出ス事

  他国へ買ヒ行ク分ハ今江改所通行札加賀方ヨリ渡ス市立ノ外ハ他国へ出ス事禁スル事市場口銭ノ内ヲ以テ横目博労給銀市場入用引去リ残リハ郡方御土蔵へ上納ノ事

 

 第三馬籍

  駒出生ハ組合ニテ引統ベ帳面ニ仕立差出方

  二才駒 郡役所へ相達シ当才駒帳ノ読ミ合セ本帳ハ郡奉行所ヨリ若年寄衆御席へ差出ス事其耳札板印打駒見立早春ニナス事

  二才駒 御召上ノ時ハ駒代金銀五枚並片道率キ料金百疋宛渡ス事

  三才駒 毛変リノ時出役馬役毛色見極メタル上耳札ヘ何年見分何毛ト奉行印章ノ上渡ス事耳札紛失ノ時弐百文取立咎メ申シ付代リ耳札渡ス事

  二才三才駒共十二月ニ相成候ハパ売買停止ノ事

 

 第四種馬

  御厩ヨリ通知ノ時ハ望人書付ケ取立差上決定ノ節ハ受書持参率キ人御厩へ出受取リ役所ヘ届出帰村ノ事御添物アル時ハ御厩ヨリ申来リ盆暮両度ニ村役人ヨリ請取ル事

  斃死ノ場合書付ヲ以テ速ニ断リ若年寄御席ヘ達シ御厩ヘモ申出ス可シ

  種馬ノ子出生ハ毎年正月二才駒帳二致シ届書差出ス事

 

 第五博労

  博労ノ内横目博労ハ才許十村ヨリ人撰シ誓詞ヲ差出サセ任命ス横目博労ヘハ焼印相渡サス給料ハ一人年中百目宛市場口銭ヲ以テ渡ス横目博労ハ牛馬仲次ヲ禁ス

  横目博労ヨリ平博労ニ成ル時ハ改メテ平博労ノ誓詞ヲ上附 事横目博労ハ駒毛調ヘヲ為ス事

  平博労モ横目同様誓詞差上ケル事平博労ニハ焼印ノ札渡ス事耳口銭ハ百匁ニ付キ一匁五分ノ事

 

 以上述べた如く馬市は遠き古えより野々市に開かれ加賀馬政の中心地たることが知られる。殊に嘉永安政の時代には住吉ノ宮(今ノ布市神社)境内に於て開設し、藩の奉行を始め主付十村、御馬役、御博労等出張の下に、盛大に施行せられたるものである。然し往古の馬市場は今の馬替村で徳川時代は住吉宮の神域に在った。明治大正の頃には中町瀬尾永敏方と六日町駒井与三郎方との両家で開かれたのである。

 

伝馬問屋

 富樫氏全盛時代に於ける国冠野々市が、彼の一向一揆の騒乱以来惨々たる姿に落入ったが慶長の初期より漸次衢街を形成したので宿駅の観を留め同二十年即ち元和元年(昭和二十八年ヨリ三百三十九年前)藩より大節道木呂川橋爪から新町まで前口千二百五十間奥行十五間の地を無税として与え、この地を宿駅と為し駅馬七十三匹と役夫二百十人を置しめ着荷の際駅馬役夫を徴用して逓駅に服しせしめた。これから伝馬問屋が始まったのである。その問屋の位置は布市神社前の橋南側西詰であったが明治諸政の改廃と共に廃せられた。問屋肝煎の累代氏名は詳でないが概ね瀬尾家であろう。然し最未の肝煎は町屋仁左衛門であった

 

  朱印

 御分国宿送人足伝馬之事 此御朱印を以可被仰遺旨就御諚見合可申ため御印を遺置候に付自今以後猥に申付族有之者為村中搦捕可差旨被仰出候条可成其意者也

  慶長二十年三月五日  横山山城守

             本多安房守

    布市肝煎惣百姓中

 

盆踊

 野々市の盆踊は、昔ジョンカラ踊と麻木返踊と二種あって、毎年八月(昔の七月)の盆に踊っている。昔はこの盆踊の外に御贄踊と云って、毎年八月十六日(今の九月)の祭礼にも踊ったそうである。この御贄踊が承応年間(昭和二十八年ヨリ凡三百年前)に至って盆踊に改められ、ジョンカラ踊と同一の踊になったようである。

 ジョンカラ踊は仏道より出でたる踊にて、彼の目連尊者の母が八万地獄より浮び上った時、歎喜の踊を踊ったと謂う縁起に基き始まったものらしく、大和国、壺坂寺の伝記に依れば、目連の母は女ばかりに蓮の葉の笠にて顔を隠くして踊ったとあれば、野々市の踊も、その伝統を引いてか昭和の始めまで編笠を冠って踊ったもので、古来伝わる盆踊であることが窺われる。

 次に御贄踊は一種の奉納舞で、これは神道より出でしもので、今(昭和二十八年)八百九十一年程前の康平六年の頃富樫次郎家国が館を野々市に尊めし時、其境内に社殿を造営し同年八月十六日、富樫忠頼以来の守護神であった住吉大明神を武松(石川郡出城村竹松カ)の里より此の新社殿に遷し、御遷宮の祭儀を挙げた。その時、武松の若人十人野々市の若人三十八人と神職舟木氏及び乙女等の贄人に依って御遷宮の神事を執行せられ、此の御祭儀は武松の里人地先の浦辺より獲たる魚四十八尾を三尾宛十六の籠に盛り神前に献供し、亦富樫介よりは白酒五升を供進し給う、軈て御遷宮の神事終るや武松の里より献供せし四十八尾の魚を酢膾に作りこれを枋葉に盛り、介殿より供進せられし白酒と共に四十八人の若入社頭に酒盛を張り、夕酉の半刻に至り巫女が先頭に立ちて鈴を振り鳴らすを相図に四十八人の若人舞ひ初め、続いて野々市一般衆その舞列に連り舞ひ廻った。之れが野々市に於ける御贄踊の濫觴にて之れが古例となって毎年この舞踊が行われたので最も盛に舞ひ廻わったのは応永年間(昭和二十八年ヨリ五百六十年前)で踊る若人も覧る老幼も翌暁まで舞ひ廻ったと云うことである。この応永年間は富樫氏の昌家、満成時代で富樫氏として幕府に於て最も緊張爛熟の頃であった。その後御贄踊は年々盛大に行われつつあったが、承応の頃(昭和二十八年ヨリ凡そ三百年前)に至りて他村盆踊と同一、日並に改められ毎年八月(昔の七月)ジョンカラ踊と共に踊るようになったそうである。しかし他村同様の盆踊に改めたりと雖、他村より異る点が多かった、とのことである。今のジョンカラ踊にせよ他村より異る点が多々ある即ち笛、太鼓、踊歌の節、音頭取と、笛吹の位置、服装、期日、場所等が違っている。是等の点より考察するに意味極めて深長で古き歴史を物語っているようである。

 

 護国住吉大明神社記

  康平六年(中略)同年八月十六日武松より総社へ御遷宮あり年々此御遷宮の日に相当し昔よりの古例を追い武松の里人地先の浦辺にて獲たる魚四十八尾を三尾宛十六籠に盛り献供罷越御贄の御祭儀を勤め申候

  此祭儀は遠く武松御勧請の頃に始まり長享より元亀年間の騒乱中に全く相絶え御儀式も相不伝候得共長享二年の御贄祭留書に依れば竹松衆拾人野々市衆三十八人毎年交替にて罷出昼末の刻塩魚供進の神事に取掛り終って塩魚を酢膾に作り枋葉に分ち盛り介殿より給わる白酒と共に両村衆に与え社頭にて酒盛を張り夕酉半刻より巫女先頭に立ち鈴を振るを相図に野々市村衆一同舞ひ回る其神楽歌

  八尋の鰐は神楽に驚き尾鰭を立てて沖の荒波遙かに飛去る 難有やな目出度やな

  武庫津の宮居神楽が響く沖の御船に御旗が見ゆる勝閧楊る 難有やな目出度やな

  等十数種御座候由今多くは伝り不申候

  (中略)

  応永年間より神楽舞拝見の所方群衆も翌暁迄舞回り候事例と相成年々盛大に赴き候由是御贄踊の濫觴に御座候

  承応年間より他村盆踊と同一日並に改め申侯乍去今も踊歌の節文句他村と大に相違い居る義に御座候

  又毎年必ず踊場にて清祓を行い然る後舞踊を催し候も全く右の次第に依る義に御座候

 

 藤原則宗物語中に見える記文

  御贄踊ハ承応年間迄ハ男ノミニテ同年間他村同様盆ノ踊ト相成女入交リ候由

 

 次に麻木返踊は、往古野々市を布市と云いしと伝る如く、昔布を産出したそうである。よって毎年麻を作り盛夏ともなれば盛に麻木を干し返しした、その業実に妙にして一種の花踊のようであった、それが練磨されて一種の踊と化したのであると口碑に伝っている。故に麻木返踊は野々市独特の踊にて他村には余りに見えない踊である。

 

 かように野々市の盆踊は古くから伝って来たもので、何れも、古代民謡として雅趣を失わず、特異のもので他に類を見ない踊で、富樫氏累代の諸郷は、この盆踊を奨励して民心を和け稼檣の道を励ましたもので、民心偕和のため大きな役割を果した盆踊であった。この盆踊が明治中期に至りて、風紀紊濫の名の下に官憲の圧迫を受け、一時中止の状態であったが、本町の故実家木村次作氏等大いにこれを遺憾とし、官辺の諒解を求め遂にこれを復活せしめた。それから踊は益々盛になって、大正年間には知事、師団長、其他地方名士の観覧を受け、昭和に入りて、各放送局より数回に亘りて放送した。また第九師管招魂祭には金沢市兼六園に於て実演し、数万の観衆を陶酔せしめたこともある。其の価値は漸次高く認識せれるるに至り、この保存維持も起り遂に昭和二十七年三月三十日文化財保護法に依り、無形文化財に指定せられ、今日では名実共に地方の代表的盆踊となった。

 盛に踊った頃は八月十四、十五、十六、十七日の四日間踊って十八日踊休と云うて一日の休養が肝煎から与えられたものである。

 

 歌は種々あるがジョンカラ節の富樫略史を記する

 

    未熟ながらも拍子をとりて    唄ひまするほ富樫の略史

    声はもとより文句もまづい    まづい所を御用捨ありて

    踊りませうぞ夜明けるまでも   今を去ると丁と千年以前

    時の帝の一条天皇        雪に埋れて開けぬ越路

    加賀の司に富樫を行けよ     勅諚かしこみ都を後に

    下り来りて野々市町へ      地理を選びて館を築き

    神社仏閣造営いたし       民を愛して仁政布けば

    名僧智識は四方より集ひ    是等智識に道をは聞けば

    下を和き稼穡を励み       上を敬ひ富樫を慕ひ

    代々司に奏上いたし       勅許ありたる長官なれば

    一の谷から鴨越と        屋嶋海戦大功を立てて

    兄の名誉の将軍職に      援け上けたる義経公が

    落ちて来りて安宅の関所     家来弁慶読み上けまする

    音に名高き勧進帳に       同情いたして涙を落す

    げにもすくれし名将智主と    後の世までも歌舞音曲に

    のこる徳こそ白峰と高く      麓流るる手取の水と

    共に幾千代名は芳しく      唄ひまするほ富樫の略史

 

  麻木返音頭

    やありなんだい(噺)

    竹のきり口ちゃ、すぼたん、ぼたんで、なみなりたん

    ぶり、たまりし水は、すまず、にぐらず、出るひまず、

    やありなんだい(噺)

    いつの盆より、今年の盆は、踊るう子供にゃ、

    ぴっぴいやがらがら二毛の万頭や

    鈴買ふて持たせ、踊る子供にや、晴衣着せ。

 

夏ノ水

 荒町ノ四十二番地木津春雄方に、夏ノ水と言う清水があった。同家は代々茶店を営み、夏期になると野々市名物の白瓜、玉瓜、西瓜などの野物を此の夏ノ水に浸し客の歓賞を得た。此の水奇なる哉、毎年四月七日を期し噴出し一夏を経て止むこと源平島の夏ノ水と同じいことであった。此の水で手足を洗い置けば年中ひびあかぎれに罹る憂へか無い とて、遠近より集る人が多かった。此麗水明治末期に至り噴出を見ず、遂に名高き夏ノ水も頽廃するに至った。

 

 亀の尾の記

 野々市の下より上の口まで七八丁の間上半ばは水能からず下の入口白山水は言うに及ばず山川やしき松手やしきの辺皆麗水なり然れ共爰に夏ノ水と言いありて茶店に取込み夏は満水して此に瓜果を浸して粥鬻く

 

名産

 煎餅

 延宝六年 自昭和十七年二六四年前 の名産書上帳に

 「野々市煎餅野々市村」

 とあり又元祿七年 自昭和十七年二四九年前 の加越能産物書上帳に

 「野々市百姓の内五人煎餅仕候」

 とあり此等に依れば其頃野々市に名産として煎餅のあったことが判る。此煎餅屋の跡何れなるや知り難い

 

 草履

 延宝六年の名産書上に

 「野々市草履野々市村」

 と見ゆ又加能郷土辭藁に

 「野々市ノ草履が有名デアッタト見ユ」

 とある。此草履は今猶ほ作っているが名産と云う程度でない。

 

旧蹟

 一里塚

 一里塚は今の中町レ八十八番地にあった。即ち鍛冶屋川橋南側西誥附近に小丘があって、上に一本の欅の大木あり、是れを一里塚と称したのである。この丘の下に山下、山佐、山口、木戸等の屋号がある。

 

 馬指

 馬指はル百十六番地則ち住吉川橋南側西誥にあって駅馬時代の伝馬門屋の跡である。

 

 力石(ちからいし)

 力石は西裏田甫の一角を云う。文治二年三月三日源義経が北陸路を潜行した時、武蔵坊弁慶が富樫館を訪ねて勧進を乞い、力持の曲を演じ、その石を同館より、此処へ投げたと謂う所である。この石について詳しいことは、第五章泰家の条と、第十章布市神社の条に述べてある。

 

 無縁塚(鶴来往来矢作堺)

 昭和九年鶴来往来取拡工事の際地中より石の塔片を多数発掘した。この塔片の故人を知る由も無く無縁塚として保存したるものである。しかし富樫氏時代にこの附近○○寺があったと伝わっているから或はその寺の墓でないかと言はれてる。

 

 下(さが)り松

 下り松は西裏田甫押野堺にあった。周囲一丈余り高さ二十間程の古木で大正の末期迄あったが、耕地整理の際倒伐した。昔この木から釣瓶が下がったから、下り松と云うと伝えられているが、又一説には西表田甫堺堤の地点と、この松の樹頭と水平であるから下り松と云うとある。

 

 六郎(ろくら)口

 六郎口は西表田甫三納堺にあって約七千五百歩程あり、此処は富奥、林、舘畑、蔵山の諸村を林ノ郷と云いし頃富樫氏の同族林六郎光明の領域で光明は、日ノ御子、知気寺辺に館を構えていたそうで野々市に在る富樫氏と同氏との交通路の出入口にて此処を世人六郎口と称したそうである。知気寺には六郎舘址あり、日ノ御子には六郎畑と云う所あり、何れも林六郎の遺跡である。光明は寿永二年富樫泰家に従い越前三条野で平軍と戦い、齊藤実盛の為め陣歿した人である。(富樫氏系譜参照)

 

 頼次 ヨリツギ(西表田甫)

 頼次は一向宗従の巨魁、頼次新左衛門の住んでいたと、云う所である。今頼次と称する所を、基点として西南大平寺村迄領域であったそうである。古書に

 

  頼次宅祉ハ野々市村西表大平寺地界ニアリ字頼次ト称シ一小丘ヲ存ス

 

 とあり亦一書に

 

  頼次宅址ハ大平寺村ニ在り今僅ニ小丘ヲ存ス頼次ハ一向宗徒ノ巨魁ト云フ

 

 これ等の史料を以て按ずるに、相当広範な領域を持ったものだろう。頼次は何人なるや判明せず只官智諭にはこれを高橋新左衛門と作る。

 

  長享二年本願寺賊徒ノ巨魁高橋新左衛門軍卒五千余ヲ引見シ押野山王林ニ陣スル

 

 と見ゆ。

 

 八幡田 ハチマンダ(西表)

 八幡田は旧照日八幡神社、建久の頃より慶長の頃まで、凡そ四百年の間此処に立たせ給へる所なりと口碑に云う。古書に依れば八幡座とも見える詳事第四章第十章布市神社の条にある。

 

 木呂揚場 木呂場(西表)

 木呂揚場を俗に土場と云い、木呂を流せし川を木呂川(一作菅公布水川)と称する。藩政時代に松樹の伐採を厳禁されたので、都市の焼材饒がならず、困って藩は之れが補給策として、白山々麓の山毛欅の密林を倒伐し、三尺木呂として、手取川より木呂川に流下せしめ、この土場に揚げ金沢に補給したものであると、その方法は夏季に数十人の杣登山して、密林を倒伐し手取川の水源を各所に堰止し、貯水池を築き、此処に木呂を集めて、十月下旬より十二月降雪期に至る間に亘り、最下流より順次各貯水池の堰を一時に決潰して、集材を流下し、鶴来より手取川の初支流木呂川に流し込み、蔵山、林、富奥の流域を経て、野々市に流し、木呂川を堰止し此の土場に流し込み、流材終了と共に排水し斧割をして、高さ六尺の柵造に積上げ数十条に址列し以後二年或三年に渉って金沢に搬出した。流材の最盛期には昼夜の別なく、各自が鳶口を以て作業に従事し、是れより得たる賃金は、村民の懐を賑わした。流材は古来十年毎に行われたのであるが、明治二十二年大林区署の経営に依り、施行せられたのを最終として廃止せられた。土場は四方に高堤を築き大貯水池を構成し木呂の堆積に備えた。その位置は西町国道南側約五千歩程の箇所で今との地を土場と称している。

 盛に木呂の出た時代に唄われた歌は、第四章にも戴せたが、その他に次のような歌がある。

   はなの、あらまち、ちょいと、しんまち、かか一日市

   なかまあち、六日町七つ屋が、なんとかか

   あとの一町は、ころが出る 繁昌繁昌

 

 訪諏野

 訪諏野は、長享二年一向宗徒の巨魁、字津呂備前、賊衆七千を率へ、富樫政親に対陣した所であり、又、富樫訪諏神社のあった所でもある。詳事は第七章第十章に述べてある。

 字津呂備前は、能美郡波佐谷の堡主にして其祖先は同郡御幸塚の藤原実定の子を、養子としたもののようで三州志来因概覧に

 

 寛和二年萃山帝譲位法皇トナラセ玉ヒ日本三十三所ノ観音寺ヲ微行マシマシ(中略)加賀江沼郡那谷寺ニ王跡ヲ留メサセ玉イヌ入学禅定アリ而シテ此地ニ崩シ玉フ(中略)法皇微行ノ時供奉の近臣七人アリ(中略)此近臣ノ内ノ藤原実定ノ子を波佐谷ノ字津呂丹波の先祖某ノ養子トス之レヲ淡路守定光ト云フ数世ノ後宇津呂備前ト云者釈賊ニ与シ一隊ノ賊将タリ其子ヲ丹波ト云フ(中略)今の小松多太八幡大宮司古曾部某ハ此胤ト云

 

 とある。亦加賀式内等旧社記に依れば、諏訪野に富樫諏訪神社があった。今この神は何れの宮に鎮りしや、加能郷土辞彙に、今の布市神社ならんかとするも確かならず、現在の野々市の、編成や馬替村に古来毎年八月二十八日に諏訪祭を行う点から見れば或は、今の馬替神社ならんかとも思はれる。詳事第十章神社の項にある。諏訪野は弘化以前迄大樹林鬱蒼として茂っていたが伐採せられて安政元年水毛生伊余門氏開墾して水田とした。

 

 御倉藪(富樫館址之図参照)

 御倉藪は富樫氏所有の御倉の跡で天正八年柴田勝家の火攻の後其の敷地は青竹生え茂りて一大竹藪と化した。土人之れを御倉藪と云い、爾後相伝えて今に及んだ。故墟考野々市之条に

 

  富樫氏中古所拠ノ遺所ニアリテ土人其一ヲ呼御館蹟今既耘シテ陸田トナレリ其一ヲ呼御倉跡今ハ竹藪也

 

 銃卒稽古場

 是れは通常訓練場と云って、鉄砲の稽古場であった。その跡は一日市町東方元観音堂の在った処で、四百八十四歩の土地を費し北隅に九間に四間半の建物を設け、慶応二年から明治二年迄は約三年間あったと石川郡誌に見える。

 

 山川 新町東田甫(ヤマゴ)

 山川は富樫氏累代の家宰山川氏の出第の迹で文明年中三河守が連歌の宗匠飯尾宗祇を招きて連歌を相唱和した所である。この山川氏は富樫繋家の後胤で其の本第を今の内川村字山川に置き、出第を野々市に奐め富樫氏に仕えたものである。

 

 三洲志

 石川郡山川村ニ住ス又野々市ニ山川ノ遺跡アリ今ハ大乗寺開祖徹通ノ墓地タリ按スルニ山川村ニアルハ三河守本第ノ迹ナルべシ野々市ナル者ハ政親野々市ニ館アルユヘ其家臣ナレバ護衛ノ為カ便利ノ為ニ居セシ出第ノ迹云々

 

 古跡考

  山川三河守同又次郎等ノ居館ノ旧跡ハ今町(石川郡野々市)後ニアリ云々

 

 三洲志野々市中

  政親ノ家宰山川参河守其子又次郎ノ第迹ハ大乗寺開祖徹通墓辺ノ由

 

 山川氏に関する記事第四、五、六、七、八章に、亦宗祇法師に関する記事第十二章にあるから参照を乞う。

 

 外守(ソデモリ) 荒町北端

 今外守と称する箇所は、荒町西北瑞田甫の一角を指す。往古此字は現在の荒町及び其附近全域を称したもので、弘長元年富樫家尚がこの地に、大乗寺を創建する迄、泰澄大師の作であった大日如来の大仏堂の在った所である。天正八年大乗寺が金沢に移るや一時荒地となっていたが、現在の荒町の町民聚り来りて一町を建設したから、その剰域を今外守と云うのである。

 

 東香山大乗護国禅寺誌

  富樫家尚加賀押野荘野々市字外守於泰澄大師ノ作ナル大日如来ノ大仏堂アリ其境内ニ一寺ヲ建立シテ大日山大乗寺ト称ス(下略)

 

 加賀石川宿町紀 野々市宿

  大乗寺跡 本村ノ東北字外守ニ在リ云々

 

 外守に付き史に見えるは以上であるが、外守字体より考えるに何にかの選神仏場か或大器の精舎の外廻りの護衛所ならんかと推測せらるるも文献は見えない。

 

 観音堂(第四章参照)

 観音堂は一日ラ百五十二番地附近を云う。此一角は明治元年迄観音堂の有った地である。観音蔵の立ち給いし頃は、毎年一回盛なる祭礼を営みしも遂に廃止せられ今其堂は布市神社境内にある。

 

 白山水(荒町ム四十八番地喜多弥吉方地内)

 白山水は第十章大乗寺の条に述べた如く、大乗寺野々市に在った頃同寺境内にあった有名な霊泉である。是れは白山妙理大権現が、同寺第三世明峰素哲禅師に、御供水として明峰に授与せられた神授の浄水である。伝説に依ると白山嶺上より糖を流投せば奇なる哉。此の池に浮ぶと謂い、亦妙理が寄進の水の源地は白山の無水八町の難嶮で、同地の水御寄進以前は、豊富であったがこのことあってから、無水となったものでそれからこの地を水無八町と云う。

 

 金沢古蹟志

 大乗寺旧地内ニ清水浄出是古へ此地ニ寺アリシ頃ノ白山水ナリト云ヘリ亀ノ尾ノ記ニ云フ野々市天満宮ノ向フニ白山水アリ是、大乗寺古へ此地ニアリシ時ノ白山水ナリ刀鍛冶安信ガ銘ニ「以白山水鍛之」トアルヲ見タリ是モ野々市ニテ白山水ヲ以テ鍛ヘタル刀劔ナル可シ(下略)

 

 亀の尾の記

  此天満宮ノ向フニ大乗寺白山水アリ六七十年以前ニハ制札アリシニ今ハ無クナリタリ此水ノアル事スラ知ラズナリタリ(中略)又其制札ノ文ヲ記臆ノ儘ニ語リシヲココニ記ス

  禁制                              大乗寺

  一、当寺三世明峰禅師白山権現ヘ献ジ給フ神水ノ旧蹟ナリ(字不明)輩忽ニスべカラザル者也

   年月日 (下略)

 

 貞享二年大乗寺卍山申状

  一、当寺三代明峰和尚ノ時白山権現御帰依血脈御受ケ水御寄進之由ニテ今ニ当寺用水ヲ白山水与申シ白山ノ無水八町ヲ水御寄進ノ跡ト申候此儀之伝記ハ無之候得共古来ヨリ霊地ノ印卜申候

 

 亀ノ尾ノ記

 近年まで今の村口に木戸の門杭ありしと口碑す。この天満宮の向うに大乗寺白山水あり。六七十年以前には制札ありしに今はなくなり此水のある事すら知らずなるぬと此土の太郎衛門翁物語せし、又其制札の文を記臆のままに語りしを爰に記す(中略)右農民のいわく此制札甚だ古きものと思われず往々修覆し来れずなるべし。然るにいつしか大乗寺より貧しざる故此制札も廃りしなり、此文も覚えなし、されど 朝夕仏に供する水に手訓し事故あらあら覚のまま申なり(下略)

 この霊水を受けたる明峰禅師の事蹟を概説して見よう。諱を素哲と号し富樫氏の出である。建治三年加賀に生れ八歳で天台宗の寺に得度し、永仁元年十七歳の時、寂山に上り専ら教観の学を究め、又台密の観法に努め、大乗具戒を受けるに至ったが、未だ意に満たない所があったので、嘉元元年野々市大乗寺に来て二世螢山禅師に謁した。螢山は一見して之を器なりとして側近に於て指導公業の勝躅(ショチョク)を垂れた。明峰はこの室に研鑽すること八年で慶長二年螢山が大乗寺を去るに当って、其譲り受け、大乗寺の第三世と成った。然るに明峰は之に苟安せずして寺務を泰翁運良禅師に托し瓢然山雲流水の身となって、天下周遊の途に就いた。此巡錫中暫く京都の建仁寺の塔主となって大いに人才を教養した。後ち普く洞済和唐の名匠大徳を歴訪して、百科の薀奥を極むることが十三年であった。元享三年能登国酒井保永光寺に在る本師瑩山を訪ねて其会下に帰り寄って、正中二年その譲りを受けて、永光寺第二代と成り、寺を薫したところ徳化無辺玄風天下に浴く名声大に携った。その時北条氏の暴政共極に達し、皇上蒙塵の難あって二品親王(大塔宮護良親王)明峰に令して、兵焚を攘い皇図の達成を祈らしめた。其令旨に曰く

   能登国永光寺

  右寺可致御祈祷精誠令御願成就者当国若部保可有寄進当寺之由可経奏聞者依二品親王令旨如件

    元弘三年四月一日  左少将

 

 明峰はこの聖旨を奉して、誠衷を傾倒して、祈願したところ、勤王の士諸国に起りて皇図を扶翼したので、足利高氏俄に帰順し京都を回復した。ここに車駕皇居に遷御せられ、西陲陣平定して天日復び煌き、天皇親政の皇国始めて成った。これが建武中興である。天皇深く明峰の祈願を嘉せられ、元弘三年八月十三日能登若部保の高七十五村に亘る知行領掌と其地頭職の国宣を賜ったのである。

 

 是れは全く明峰の道望が九天に達し同禅師が皇室の厄難を済い、克く聖旨を奉して皇運扶翼の功を奏したところである。明峰は嘉暦元年越中氷見荘に光禅寺を開創した。天下急を要する秋であったので、越中方面結束の叡旨を奉した。

 また興国元年後醍醐天皇の第八皇子宗良親王は越中氷見に又第十六皇子恒性親王は元弘年中に八才にして越中宇波に難を避けたことなどを見ても、如何に明峰が建武の大業を擁護したことが判る。延元三年再び大乗寺に帰り数多の龍象を打出した。この時地頭富樫家善(押野ニ住ム)之を尊敬して貞和二年四月十六日大乗寺へ四至の敷地を寄進した是れ所謂八町西方の寺境である。

 その後明峰は数年にして、法嗣たる珠岩道珍禅師に大乗寺を譲り復び越中光禅寺に退き、永光大乗の事を見た後洞谷登山の瑩たる伝燈院の下に、一茅を束ねて之に待した。正平五年(観応元年)三月、大乗、光禅、永光の三処に於て、同時に説法して示滅した。仍て其徒等互に使を馳せて之れを知り、三寺各闍維したところ、大乗永光は空尽にして一物も無く唯光禅寺のみ霊骨があった。其塔を紹燈と称する。寿七十四臘四十八であった。而して大乗寺に於ける茶毘の儀は本堂に於て読経ありて後現在の大平寺迄葬送して荼毘に附したもので其茶毘の地は同寺開山徹通の茶毘所(大平寺村ホ七十九番地俟称ダビッカ番)の隣地俗称西松原(ニノ三十二番地ロノ三十三番地)と云う所である。此闍維の典に白山妙理権現影向せし事第四章位川の条に載した。

 斯の如く明峰禅師は忠に惇く徳に高く曹洞稀有の傑憎でこの白山霊水も鄭重に保存せねばならない。白山水を享けた年月は不詳なれども明峰が大乗第三世となった慶長二年と仮定せば今より(昭和十七年)六百三十二年前のことである。

 

 火止川 一名 逆(サカサマ)川

 天明の頃野々市に大火あった。其時此川を以て火勢を止めたので、それから火止川と称した。亦此川西より山に向って流れるので往古加賀のサカサマ川と謂って世に有名であった。

 

 詮議場跡(先代館憲十郎(幼名))

 大正時代迄今のヘ弐番地に館三郎兵衛と云う家があった。歴代新田裁許(シンデンザイキョ)の職を勤めた家柄で、藩政時代には此附近の村落に犯罪のある時は、金沢より改方出張して詮議取調を為したるものである。

 

 小武僧橋

 野々市と押野丸木との境を流るる境川にある橋で昔旅人の小武僧が何人かに殺害せられた所である。

 

 木村孝信の第址

 木村孝信の第址は、今の小学校運動場辺であると伝へられている。孝信は織田信長の臣木村重成の伯父で天正の頃野々市に在居した人である。

 

 首切場

 首切場は鶴来往来北国漁網会社附近にあった。富樫氏時代に極刑者の死刑執行場であったと伝へられる。

 

 宮ノ後(宮のうしろ)

 宮ノ後は西裏田甫にあり昔野々市七社の内の一社の址なりと伝わる。

 

 御鷹橋

 旧藩時代に藩公屡々野々市に来り鷹狩をせられた。其の時此の橋より鷹を放したと云う。今は小学校運動場と化して其の橋はない。

 

 本町領野々市山中の旧跡

 小鳥構場

 旧藩時代に野々市山に侍の小鳥の構場があった。今古書に見ゆるが儘に嶺名と侍の氏名を載せば次のようである。

 野々市村領

  大 平   井上井之助

   同    坂野儀左衛門

   同    同人

   同    同人

  神主山   三田村ケン殿

  仏ノ足   今枝内記

  同 伏   同人

  神主山   臼井儀兵衛

  六 本   仙石宗女

  さんさく  中川平勝

  駒 山   齊藤吉兵衛

  鶴ノ前山入 木落一、宮源左衛門

  すげいけ      立川余之丞

 

 御墓

 一日市町東田甫大日製作所附近にある。これは照台寺のものであるが詳事は判明しない。

 

 どさんまい(三眛)

 新町東田甫に、「どさんまい」と云ふ所あり、昔癩患者死亡したる時は、ここに火葬したと云ふ。故にどさんまいと云ふたようである、大正の頃まで小丘残っていたが耕地整理の時、水田と化した。

 

 西裏表田甫と南北両瀬戸屋

 昔西町に館と云う家があった。代々村頭の役を勤め御扶持十村であったと云うことである。

 その全盛時代には今のヘ五番地を中心に西町大部分その屋敷であった。今の南瀬戸屋は同家の後背戸(ウシロヘド)で北瀬戸屋は前門廻(マエセド)であった。後背戸には築山泉水があって築山のあった所は、ヘ三十六番地で泉水のあった所はヘ三十五番地である。

 今でも築山の迹が小丘(倉ヶ嶽午十一度)となって遺っている。

 何時の頃かこの後背戸と前門廻に家が建って、南北両瀬戸屋の名称が付いたのである。

 前家(マイエ)、瀬戸(ゼト)、田甫(タンボ)等の屋号も館家を中心として、付けられたそうである。

 西裏西表の田甫の名称は館の主人が築山に登りて、己が領地を展望し国道を堺に表裏と渾名してから、今にその名称が伝っているのである。以上が西裏表田甫と南背戸屋と北門廻屋の名称の由来である。

 館家は新村(野々市新村)の瀬尾家と共に、十村株で其の頃野々市に姓を許された者は、この二家のみであった。

 館家は明治維新の余波を享け家運振はず明治十二年又次(幼名恒)を最後に廃絶した。

 又次の祖父に当る清蔵翁は金沢医学の先覚者黒川良安(金沢大学医学部玄関に銅像あり)氏と親交ありて共に肥前国(長崎県)長崎に遊学して蘭学を研め帰へりて、村内の青年を薫陶した。

 今日迄野々市に館の姓の多くあるは皆この族である。

 

 一日市町

 一日市町は昔野々市に一六の日を期し市を開きし時、一の日の市場であったそうで一日市町と称したのであると口碑相伝えている。又富樫氏史伝にもその通り戴してある。然れともこの一日市町のことを石川訪淤記には人市町と記してある。

 

 又亀の尾の記には次のように見える。

 上略「又、此の通りを人市と言ふ是れは人商人市をなすならんと或人の説あれどもしからず

 奸賊の所業何もこれを公に許さんや前にも言ふ如く惣て此の辺市多き所にて日をかへて市をせしものにして巳に三日市 八日市馬市 久保市などの類にして一市ならん

 礪波郡福光のあなたにも一日市あれば一日市にうたがふべからず是れより東へ入れば富樫城及び蔵屋敷、馬場、等余波わづかに存す。

 また日置謙氏は更に次のような一説を吐いている。

 野々市の隆盛であった頃奴婢となるべきものが道路に立って雇主を求めた揚所からの名でないかと言われている。

 

 古家の伝聞

 亀の尾の記に「此の村に古き家「五郎右衛門(宝暦年中に転退せり)に七福神のいろりの自在是れも富樫頃の物なりと言ふ」と載っている。

 

 野々市屋小路の跡

 加能郷土辭彙に次のようなことが見える。

 金沢の旧町名魚屋町から柿木畠御厩橋へ往く小路を(野々市屋小路と言った)旧家野々市屋の横通りであったので今は下柿木畠に属している。