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第十四章  人物



 

水毛生伊余門

 氏は文化十二年本町に生れ、農を業とし、余暇には子弟を集めて書算を教え、安政元年富樫氏館跡、久しく荒蕪に委すると共に附近荒廃の原野あることを憂へ開墾を始めた。十数年間に亘りて十数町歩を墾拓した。その為私財を抛つこと尠なくなかったが、その地を村民に割与して償を求めなかった。又西隣の大平寺村にも荒原地多くを開墾して村民に譲り費を収めなかった。文久三年蠶を養い飼法を改め、藩命を受けて直海谷各村に伝えた。又栽桑の改良を志し桑苗を附近村落に頒ち、又村に、製絲会社を創立し、尋て北陸繭糸改良本部組長と為り管内を奔走して蠶業を奨め、又勤王の志ありて青木新三郎等と親交があった。仁孝天皇の崩御に当り私祭を営むこと五十日、又荒蕪開墾の際、蟲魚の失命を悲みて魚肉を食せず其冥福を祈る事三年、明治二十二年富樫氏居館の跡絶えるのを憂い布市神社境内に富樫氏先業碑を建て、その偉業を後世に伝えんとした。斯の如く仁侠に淳く公益に竭すこと夥しく同二十二年勅定の藍綬褒章を賜った。翌二十三年歿す。享年七十六

 

小西成章

 農科大学林学科に学び、農商務省山林局及び福岡、青森の各大林区署に歴任し、尋て台湾民政局技師に任しられ、挺身蕃界に入りて大料嵌附近の樟樹林を調査し、遂に樟脳専売制度の基を肇め、又明治四十三年海南嶋に渡りて鋭意植物の研究に務めた。是れ内地人の先駆である。氏は資性温厚清廉自ら持し職に勉め学に篤く、前後十三年台湾林業の経営に任し屡々蕃界に出入して能く兇蕃を懐柔し危険を冒して探検に努め、台湾杉、タイワニヤ、巒大杉等の発見を為して学界を驚かしめ、学名に小西を冠するもの六種成章を附するもの一種あり、明治四十二年台湾に歿す享年四十六、台湾台北市の名門、陳直卿、その偉徳を後世に伝えんと同市三枕橋に碑を建て氏の霊を祀る。此の墓碑文次のようである。

 

 

藤村理平

 本県師範学校卒業、明治二十一年県会議員当選同二十七年再選二十九年村長に就任し地方公益に竭した。金沢に始めて電気会社を創立し或は野々市に電動力に依る精米場を設置し電化の普及を企てた。明治二十三年海防事業に賛し金壱千円を献納して黄綬褒章を受る。大正九年歿した。享年六十昭和十乙亥年町民其の胎範を頌して国民学校々庭に氏の銅像を建てたが、大東亜戦争に之れを献納しその代りに碑を建てた。

 

藤村藤作

 明治三十一年村会議員に当選してから以来、郡会議員その他の公職に歴任して功があった。殊に明治三十六年六月村長に就任せし後二十余年間村治に当り、隔離病舎の建設、神社の合祀、道路の開鑿、商工会、信用組合の設立、電話の開通及び殖林、耕地整理、学校改築等に関する功績は大であった。明治三十七八年戦役に際し稿軍議会を設立し主事に努め、又動員事務精励のため勲七等に叙せられた。大正十二年歿す享年五十七歳

 

押田きく

 嘉永元年十月二十八日本町に生れ、貧童の中に在って父母に対する孝養厚く妹に対して愛情頗る濃かったので明治七年十月七日石川県より表彰せられた。大正十三年四月歿した享年七十七。

 

角永敬次

 氏は明治二十一年本町に生れ、姓聰明にして実直であった。明治四十年一年志願兵として歩兵第七聯隊に入営し、一意専心克く軍務に精励して千城の模範であった。明治四十四年五月少尉に大正八年五月中尉に任じられた。

 除隊後帝国在郷軍人会野々市分会長として、十有余年間一日の如く、傍ら軍事各方面に関係し要職を勤め、その功績実に大なるものがあった。

 大正八年石川郡聯合分会総会の砌、郡公会堂に於て東久邇宮殿下御前講演の栄誉を荷い、更に同十三年陸軍特別大演習の際再び、摂政宮殿下御前講演の光栄に浴し、昭和二年総裁宮殿下より有功章の下賜を見るに至った。

 是れより先き、氏は、明治四十五年二月野々市郵便局長の職に就き、爾来通信機関に参与し尽瘁する事又頗る大であった。尚ほ氏は当町に於ける公共事業に活躍し多大の効果を収めざるはなかった。昭和十二年四月正七位に叙せしられ翌十三年十月勲六等を下賜せらるる。

 昭和十五年六月歿す。享年五十三

 摂政宮殿下御前講演の内容左の如くである。

 

 富樫史蹟に就いて

 謹んで富樫史蹟の大略 特に長享の役に就て申上げます。富樫は鎮守将軍藤原利仁の俊裔でありまして、一条天皇の永延元年従五位下加賀介となって下国しましたのは、其の四世の孫富樫次郎忠頼で御座います。第七代家国の代になりまして、舘を野々市に築き自ら富樫介と称えました。是から世々富樫介と称し、子孫相継いで野々市に住居いたしました。十二代泰家の時から左衛門尉に補せられ加賀国の守護に任ぜられました。二十三代成春は其の叔父泰高と守護職を争い結局両人が各加賀半ヶ国づつ分領することになりまして、成春は野々市に、泰高は能美郡御幸塚に居住致しました。之より富樫氏は全く分立の形勢となり、成春の子政親の代になりまして遂に長享の役によって忠頼から五百有余年間伝わりました富樫氏も、茲に事実上の滅亡を遂げましたので御座います。

 此の長享の役は宗門本末の争と、富樫氏本未間の権力争い及び郷侍の跋扈とが結合しまして行われたもので御座います。即ち当時一向宗は本願寺と専修寺派との二派に分れ、互に其の本末を争っていたのであります。富樫政親は姻戚の関係上、少数派でありました専修寺派を授けましたので、本願寺派は政親を仏敵と称し宗門盛衰の分る大事件として、彼を滅そうとしたのであります。政親は之を聞き敵に先んじて其の根拠地なる吉崎の道場を焼き払い其の他の重なる寺院を攻め、本願寺を圧迫致しました。之に業して本願寺派なる木越の光徳寺、磯部の勝願寺、鳥越の弘願寺、若松の道場、山田の光教寺の讃山大坊主等は、野々市の大乗寺に相会して成春以来野々市の富樫の本家と快しなかった。御幸塚の富樫泰高を推して軍の総司令官たらしむることに議決しました。奉高は之を諾しまして野々市に移り、大乗寺を以て本陣と致しました。本願寺側の此の計画は正しく同族の血を以て血を洗わしむる皮肉なる遣り方であったのであります。此形勢を見まして専修寺派側の富樫政親は、時の将軍足利義尚に願いまして隣国の応援を乞いました。義尚は之に同情しまして隣国々主に政親応援の教書を下しました。

 長享二年春、政親は高尾城を修築し四月押野の富樫家信久安の富樫家元、山代の富樫奉行等一族及世臣恩顧の士と共に、此の城に籠りました。之に対し本願寺側は軍を二分して、一軍は高尾城に対し、一軍は国境の険岨に依って隣国応援軍に当る事に致しました。

 即ち洲崎泉入道慶覚坊、同十郎左衛門正季、河合藤左衛門宣久、石黒孫右衛門を河北郡の宗徒に将として、久安の新塁を以て高尾城に対せしめ、野々市の馬市には笠間兵衛家次、野々市の諏訪野の林中には字津呂備前約五千の兵を率いて陣し、山本入道円正は其の配下を提げて山科に乗り高橋新左衛門の一党を誘ひ相率いて押野に雲集致しました。又安吉源左衛門家長は河原隣の宗徒を率い 額谷に陣を張り、河北郡の宗徒は河北郡大衆免に聚り、石川郡海岸地方の宗徒は広岡山王の林中に集合しまして本願寺側にては軍の陣容全く整いましたので、只管野々市大乗寺の本陣からの命令を待ちました。

 斯くの如くして所謂長享の役は起りましたので御座います。

 当時各地方共同様でありますが、殊に加賀に於きましては、郷侍にして堡砦を有しているような大きいもののみでも、五十六人居ったと申します。此れ等の郷侍は足利幕府当時一般の風潮の如く、下剋上即ち下として、上のものを凌ぐ思想を持て居まして、数代恩顧の富樫氏に対しても、漸く之を侮り、動もすれば之に服従せざるものが多く御座いましたが、長享の役が起るに及び多くは勢を見て富樫氏の本宗に叛きまして、本願寺派に荷担して武力を振う事になりました。

 さて高尾城に対する本殿寺方の第一回の総攻撃は長享二年五月十日を以て開始せられました。此の日、本陣の命令が一下、致しまするや本願寺側の軍は一齊に高尾城に肉迫して猛烈な攻撃を開始しました。

 是に対し城兵亦良く戦いましたが、富樫政親は応援軍が未だ来りませんのは、敵軍が途中で援路を遮断しているのに依るものと考えまして、松坂八郎信遠に援路を拓くことを命じました。信遠は十三日払暁手兵二千を率いて、高尾城を出発し、江沼の郷侍今江久太郎に敗られて手取川迄退却しまして、石川郡鳥屋の宗徒に囲まれ遂に戦死致しました。

 次で家老山川参河守亦城兵千五百を率い宮腰大野附近に出でましたが、此の時河北郡高松に聚って居りました郷侍、浦上九兵衛、馬飼喜八郎を将とした五千の宗徒に包囲せられ遂に敗れて僅かに百余騎となり、山路を高尾城に退却しました。

 五月二十八日より六月五日に亘り、国境に於ても戦闘がありましたが、何れも先に将軍足利義尚の命により出動致しました隣国よりの応援軍の敗走となりました。

 六月五日宗徒は更に高尾城に迫り、七日暁天に鑼や太鼓を鳴らし矢石を飛し喊声を揚げて第二回の総攻撃を行いました。之に応じようとする城内の防備も亦厳重を極めました。

 城の正門は松山左近が防ぎ、後門は森宗三郎が之を守り、其の他斎藤八郎、安江弥太郎、小早川半弥、新倉将監、横井九八等兵を指揮して防戦に力めました。又本郷修理進春親父子及び山川参河守等、屡々逆襲に出ました。

 斯様に致しまして七日は激戦に暮れ、翌くる六月八日に至りまして既に隣国応援軍を潰走せしめた報を得て勝ち誇っている攻城軍は、勢いに乗じて最後の総攻撃を決行致しました。

 政親は奮然として自ら城兵を励まし城門を開いて討って出で、履々敵の心眼を寒からしめましたが、城兵は打続く戦闘に疲労しました。

 無援孤独の将士あります上に、敵は勝ち誇れる新手の精鋭で御座いますから、遂に許兵多く討たれ、或は傷つきましたので、政親は意を決して城を棄て、越中に走り、三十六歳を一期として自刃致し其子千代松丸始め一族譜代の臣等皆割腹して其の恩顧に酬いました。而して宗徒即ち本願寺方に味方致しました富樫泰高は、野々市の旧館に居りましたが、毎に宗徒の為に圧迫せられて、只寸土を有するのみにて勢力なく、鎮守府将軍藤原利仁より数百年の久しい間伝わりました名門も、茲に事実上の滅亡を来しましたので御座います。

 富樫氏は忠頼下国から十八代政親に至ります迄、凡そ五百余年間となります。此の間は丁度藤原時代、源平時代及び足利時代に亘るのであります。当時は都と云わず地方と云わず、戦乱がありまして、其の門成敗存亡の著しい時であったにも拘らず、独り富樫は永年無事に相継いて加賀の国を治めてゆきました事は、他に多く類を見ない所であります。是は全く上朝廷を尊び奉り、下衆民を愛撫致しました結果と考えます。

 野々市町民は此の治世五百有余年の恩顧を追慕致しまして、去る明治二十二年盛大なる祭典を行い、富樫の頌徳碑を布市神社の社頭に建設致しました。時の町民故水毛生伊余門は此の挙の中心となり、且富樫の舘跡並に諏訪野の林を開墾し、公益に尽たるの故を以て、同二十二年藍綬章を賜わりました。

 微臣敬次今回御前講演の恩命を蒙りましたるは無上の光栄と存じまして恐懼の至りに堪えぬ所でございます。謹んで宝祚の無窮を祈ると共に殿下の万歳を祝しこれにて講演を了えます。

 

館 余惣

 氏は明治十七年野々市町に生る。敏慧幼にして軍人に志を立て、陸軍幼年学校に入り進んで陸軍士官学校を卒え、少尉に任官歩兵第二十六聯隊付を命せられ、越えて大正十一年八月少佐に昇進歩兵第七聯隊大隊長として金沢に赴任し、昭和二年八月中佐に任じ、石川県立師範学校軍事教官を命せられ、将来青少年の教導の中心となるべき学徒に対し堅実なる思想を教養し、其後歩兵第六十九聯隊付、第九師団高級副官等を歴任して、同六年八月大佐に任じ山口聯隊区司令官、歩兵第十二聯隊長、中央大学軍事教官等を歴任して、同十二年八月少将に任じ歩兵第二十九旅団長を命せられ、同十二年中支に出征し、皇軍の武威を発揚し赫々たる武勲を収めて、同十四年帰還し京都留守師団長に補せられしが同年待命仰付けられ、翌十五年十月二十九日東京にて卒去す。享年五十七正四位勲二等功三級であった。

 氏はここに数十年の謹直一日の如く恒に部内の要職にありて主事に努め当時陸軍の活躍敏腕の武将であった。

 法名 影忠院清惣

 

趣味の芸能家

 明治大正に亘り趣味の芸能技術に堪能なる人として村民より屈指せられたる人々を記憶の儘に揚くれば次のようである。

 書道では瀬尾庄平、舘惣次郎、元女諦了、待田太三郎、画では稲坂寿啓、俳句では水毛生伊余門、舘八平、吉田与四郎、茶道及郷土史では舘八平、華道では瀬尾庄平、謡曲では高辻時長、瀬尾永次郎、舘八平、浄瑠璃では兵地栄太郎、徳野伊三郎、美声では株野与太郎、兵地孫四郎、岡田長松、剣道では絹川次吉、魚野長太郎、相撲では茂岩三吉、小柳安太郎、柳島小三郎、調刻では魚野権太郎等にて是等の人々は何れも卓出便秀なる技能を有していた。

 

追補

 公職者の追補

 町議会の議長

 氏  名     就任年月           辞任年月

 岩田 栄吉   昭和二十二年五月八日  昭和二十六年四月三十日

 北市 永作    同 二十六年五月八日  現在に至る

 

 

 藩政時代の古文書の追補