==[pt]はじめに[/pt]==

 

はじめに

 富樫卿

 富樫氏の歴史・野々市の歴史と切りはなせない富樫卿は石川郡の古い郷名で恐らく野々市が本郷であり、富樫と呼ばれていたのではないかとみられている。富樫庄は郷内のさらに一部で前田藩政時代の文書によると富樫庄は

  富樫庄

 米泉・西泉・泉・泉野・泉野新・泉野出・泉野十一屋・長坂新・横川・久安・有松・円光寺・寺地・窪・法島・伏見新・山科・平栗・別所・蓮花・野田・大桑・三小牛・山川・馬替・高尾・大額・額新保・額谷・額乙丸・矢作・富樫新保・小原・野々市・三十苅・上新庄・下新庄・坂尻・曽谷・四十万・後谷・坪野・清瀬・倉ヶ岳・中戸・天池・樫見・大平沢・国見・堂・粟田新保・住吉の五十三カ村を含んでいる。

 

 本町の区画

 西町・七ツ屋・六日町・中町・一日市町・新町・荒町の町に分るるも字名は公称のものでない。

 

 田地の区画

 西表・西裏・狐薮・鬼箇窪・荒田町・富樫・背骨・外守・白毛田の九字の区画がある。

 

===[part]=== ==[pt]布市神社[/pt]==

 

○ 布市神社

 

 永延元年(九八七)人皇第六十六代一条天皇の勅に依り、加賀国司として下向し醇政を布いたので国民その化に親み正暦元年(九九〇)朝廷に奏して重任を乞い正暦四年(九九三)永住の勅諚を賜り、天皇は忠頼に住吉三柱の神像を賜ひ富樫氏の守護神とした。韓唐人の入り込み国内を騒さんとするおそれあり、此の明神の利益を以って奉祀した。

 当神社の神霊は上筒男命(うわづつみのみこと)・中筒男命(なかつつみのみこと)・底都海津見命(そこつわたつみのみこと)の三柱富樫忠頼(とがしただより)の神霊合祀して四柱は富樫郷住吉神社の祭神である。

 旧荒町(現本町一丁目)外守八幡神社の祭神は応仁天皇(おうじんてんのう)菅原道真(すがはらみちざね)公の二柱

 旧西町(現本町四丁目)照日八幡神社の祭神は天照大御神(あまてらすおおみかみ)、天児屋根命(あめのこやねのみこと)、応仁天皇の三社

 前記二社は大正三年(一、九一四)十一月二十日富樫郷住吉神社に合祀して布市神社と改名した。

  宝物

 一、富樫昌家の頃信長のご神刀(大乗寺の白山霊水で名刀を鍛えた)

 一、奉額住吉大明神 江戸時代佐々木志津摩の揮毫による木額

 一、源平八嶋海戦図絵馬狩野明信作 文化の人物

 一、赤穂義士討入図絵馬 元禄十五年(一、七〇二)

 一、聖徳太子一代記図絵馬 嘉永二年(一、八四九)

 一、石山合戦図絵馬 安政二年(一、八五五)

 一、神功皇后

 一、武内宿禰

 一、獅子頭・天満宮額

 一、和算額 安政五年(一、八五八)

 

○ 冨樫氏館跡先業碑

 安政元年(一、八五四)水毛生伊余門氏は富樫館跡地が荒廃の原野になっていた地を(現住吉町)私財を投じて十数年にわたり十数町歩を開墾した。この地を村民に与えて償を求めなかった。

 明治二十二年(一、八八九)富樫館跡を後世に伝えるため布市神社境内に碑を建立した。

 

○ 公孫樹

 この古木孫樹は何時頃植えたか諸説あり明らかでない。第四代忠頼ともいい、第七代家国ともいい、第十二代泰家ともいい、木村孝信ともいう。樹齢から察するに忠頼・家国は遠きに失し、木村孝信としては近いと思い、或は泰家と思われる。文治元年(一、一八七)社殿造営の時に植えたと記してある。木村九郎左衛門孝信が織田信長の臣となり野々市に在住し、不破河内守光治に属し、村の住吉社境内に植えしものなりという。

 

○ 聖護院道興准后

 道興准后は後知是院関白藤原房嗣の子にして聖護院の門跡たりき、文明十八年(一、四八六)六月上旬足利義政(あしかがよしまさ)に東山に袂別して若狭越前を通過し加賀に入り立花動橋小松本折白山吉岡剱を通過し矢作に宿り、今宵は矢作の里といへる所に宿りけるに暁の月をながめて 「こよひしも矢はぎの里にゐてぞ見る夏も末なる弓張の月。」 藤岡諏訪神社境内

 野々市を通過せられ、野々市の活気に満ちた村人を讃え廻国雑記に京の都に劣らぬ繁栄と活気あふれる多く人が行きかい仕事に励む街の姿を讃え 「風おくる一村雨に虹きえてのの市人はたちもをやまず。」 布市神社境内

 

○ 弁慶の力石

 この石は文治二年(一、一八六)三月三日源義経が北陸路を潜行した時、武蔵坊弁慶が富樫館を訪ねて勧進を乞い弁慶が延暦寺に伝わる延年の舞を披露し、弁慶が力持ちの曲技を演じ泰家の縦覧に供した。この石を投げた日照が続いたときこの石をかづき回ったところ雨が降り雨乞石と呼ぶようになった。照日八幡神社に移されたが大正三年(一、九一四)十一月同神社合祀のとき富樫郷住吉神社に移した。

 

 

○ 観音堂

 観音堂は一日市町ラ一五二(現本町二丁目九‐一四笠間氏宅)に鎮座されていたが明治維新に廃佛の余波を受けて廃止となり本堂を布市神社境内に移した。

 

○ 稲荷社

 稲荷社二社鎮座され向って右側は旧西町(現本町四丁目)照日八幡神社に鎮座されていた。

 左側は旧荒町(現本町一丁目)外守八幡神社に鎮座されていた。二社とも大正三年(一、九一四)十一月富樫郷住吉神社に合祀された。

 

○ 忠魂碑

 明治四十三年(一、九一〇)五月二十九日建立された。日清戦役(明治二十七年)日露戦役(明治三十八年)大東亜戦役に従軍され、戦死されました方々の英霊を祀られています。

 明治四十一年十一月八日總会を開き全員一致で可決決定されました。委員の木戸惣太郎氏伊藤孫太郎氏喜多直次氏等は石材購入に上京し、在京都木戸典三郎氏の周施により、京都内田石材店と契約大阪市西区今木町柏原市太郎石材店より小豆島産花崗岩を購入し大阪駅より松任まで六トン貨車で運び、松任駅より野々市まで運ぶ車がなく村民總出で北国街道沿いに木呂を置き、石を引きずり二日間かけてようやく富樫郷住吉神社まで運んだ。村民の方々の苦労が記録されています。

 明治四十二年一月二十三日起工式

 明治四十二年三月二十四日題字揮毫金沢聯隊区司令官總理大臣兼内務大臣 元帥公爵 山形有朋閣下

 題字彫刻金沢石工飯田庄三郎氏

 明治四十三年五月二十九日除幕式が行なわれた 関係者多数参加された

 野々市村立在郷軍人団理事長 瀬尾爾郎氏

 野々市村立在郷軍人団長 釜吉三郎氏

 野々市村立在郷軍人団員 稲坂清八氏

 忠魂碑建立について野々市村立在郷軍人の方村民の方々の協力と歩兵中尉釜吉三郎氏の功績を讃えたいと思います。

 忠魂碑の土は高尾城より購入

 

○ 外守(そでもり)八幡神社

 祭神は応仁天皇菅原道真公の二柱の神は旧荒町の鎮守外守八幡神社で文化の頃七宮の一つであった。

 天満宮の祭神菅原道真公と併合した社である。その後大正三年十一月(一、九一四)富樫郷住吉神社に合祀して布市神社に改められた。

 応仁天皇を祀れる八幡宮は何処に鎮座せられたか明らかでないが慶長の頃旧 ノ三〇番地(大乗寺旧址)

 

○ 照日(てるひ)八幡神社

 祭神は天照大御神 天児屋根命 応仁天皇の三柱

 同神社の創建は建久の頃(一、一九〇)第十三代富樫家春の観請によるものである。元は西表田圃に八幡田という田地に建立されていたが(現グンゼ)天正八年まで鎮座給う(一、五八〇)同年にへ一一四(現本町四丁目十六‐三)川上氏宅附近一帯に遷宮された。

 その後大正三年十一月(一、九一四)富樫郷住吉神社に合祀して布市神社に改められた。七宮の一つである。

 

○ 照日八幡神社石柱

 照日八幡神社の表参道は小西次郎家の向い道路が入口であり、社殿跡に石柱をこの地に残し後世に伝えんとした舘八平氏は私財を投して建立した。

 建久の頃から大正三年までおよそ七二四年旧西通り(現本町四丁目)に鎮座給う神徳高き神霊である。

 一、明治二十五年十月吉日一柱照日八幡神社 一、大正七年十月照日八幡神社跡

 

○ 宮(みや)の後(うしろ)

 宮ノ後は西裏田圃にあり昔野々市七宮の内の一社の跡なりと伝わる。近くに下り松が押野境にあり、周囲一丈余り高さ二十間の古木で、木から釣瓶が下がっていた。大正の末期まであったが、耕地整理の際倒伐した。

 

===[part]=== ==[pt]他の神社仏閣[/pt]==

○ 白山神社

 祭神は大己貴命(おおなむちのみこと)大山祗命(おおやまづみのみこと)菊理比咩命(きくりひめのみこと)の三柱の神霊である。永延元年(九八七)国司富樫忠頼が高安荘野々市の總鎮守として建立した。初め北横ノ宮社地に鎮座せしに同町との距ること遠く、文化文政の頃今の社地に遷した。

 北横ノ宮には天狗が住んで毎夜丑の刻には天狗の奏する音楽が聞こえるといわれた。

 夏になると宮の前に「ホタル」をおいて夜空に舞い近郊から大勢観衆が楽しんだ。

 

○ 光聖山 照台寺

 初め天台宗開基念和和尚親鸞聖人が越後に流罪せられた時、念和和尚が聖人を倉部川の辺りに迎え専修念佛の要義を開いてこれに帰依し、天台宗を真宗に改宗の開基を念和とする。

 改宗二世に至って寺号を賜る。その後寺運進展し、石川二大御坊に数えられ、波佐谷道場と共に有名な寺である。

 享禄四年(一、五三一)と天文四年(一、五三五)の二回兵火をうける。

 親鸞聖人真宗の開基元年(一、二二四)念和和尚嘉禄二年(一、二二六)歿す現二十六世

 寺の境内に親鸞聖人お手植の藤がある。

  宝物

 阿弥陀如来本尊(七五センチ)阿弥陀如来の全佛(富樫氏の甲本尊) 聖徳太子木像 親鸞聖人の自画の真影 親鸞聖人の真筆と伝えられる紺紙金泥十字の名号 虎猫の御書 郷土相撲力士の墓 茂岩三吉 小柳安太郎 柳島小三郎

 

○ 野市山 法林寺

 真宗大谷派に属する寺院で創建は押野山太子堂上宮寺に帰属する「野々市の道場」として元禄年間(一、六八八~一、七〇三)に建立されたと伝えられる。寛政二年(一、七九〇)三林喜四郎の末孫である。普照庵釋義聞(ぎもん)法師 文化四年六月五日示寂が下林の庵(現下林の定林寺)より入寺し住持となった。これより義聞(ぎもん)の道場といわれるようになった。

 明治に至り第五世明證院釋恵燈法師大正十年二月二十二日示寂が野々市説教所と改名した。明治十二年三月十二日

 昭和二十二年四月十一日寺号公称を受けた第八世誓聞院釋義聞法師昭和六十年十月十六日示寂第九世三林寛氏

 

○ 隆廓寺

 真宗大谷派に属し慶応二年(一、八六六)六月羽咋郡元女村本乗寺の弟野々市に来りて開基した寺院である。

 明治十二年六月寺号公称の許可を受け今日に至る第三世外代子氏

 

○ 明泉山 高安軒

 高安軒は曹洞宗に属し北朝正平五年(一、三五〇)大乗寺三世明峰和尚の塔頭として富樫高泰の開基にかかるものである。

 天正八年(一、五八〇)柴田勝家の加賀一揆を討伐するまで二三〇年野々市大乗寺塔頭にあったが勝家の兵焚にかかり、大乗寺と共に金沢市木ノ新保に移り二十二年を経たる慶長六年(一、六〇一)大乗寺坂側に転じ越えて元禄十年(一、六九七)大乗寺が野田山に移された。明治維新の変遷により野々市に移る。

 富樫忠頼卿木像 富樫忠頼卿尊位 加賀国守富樫家累代精霊尊位安置されてあります。

 

○ 大乗寺跡

 弘長元年(一、二六一)第十四代富樫家尚が野々市の外守にあった泰澄大師の作である。大日如来の大佛堂の境内に一寺を建立し、大日山大乗寺と号して真言宗密師澄海阿闍梨を住持とした。これ野々市に於ける大乗寺の創建で現在金沢市野田山に法燈燦として煌く曹洞宗古刹香山護国禅大乗寺の起源である。

 

○ 白山水

 大乗寺白山水と八町四方の寺領について金沢古蹟誌に「野々市ノ天満宮ノ向ウニ白山水アリ、コレ古ヘ大乗寺コレ地ニアリシ時ニ白山水也」と言う、白山からの霊水で銘刀を鍛えたものである。現本町一丁目三四‐二〇である。喜多氏宅

 

○ 大乗寺和尚より霊骨発掘者野村松次郎氏に送りし賞状

  同氏は、大正五年(一九一六)、野々市耕地整理工事に従事中、外守旧八幡神社畔なる旧大東寺開山塔所の地下より石櫃を発掘せり、当寺二十七世卍山禅師が藩主前田氏に提供せし古書に記載せる三祖尊の霊骨を奉安するものなり、而して其尊責なる所以って聞知し舘八平氏の乞ひを容し無報砂にて分与し今日あるを至せしもの偏に同氏発掘の功と謂うべし泂に感嘉に堪へず依って茲に賞状を呈す

 昭和二年八月二日 高安軒本寺 大東六十五世 徳翁大龍

===[part]=== ==[pt]名所・旧跡(1)[/pt]==

 

名所・旧跡

○ 鍛冶屋川と一里塚

 江戸時代鍛冶屋職人が住み刀物を製作していたので鍛冶屋川と名がついた旧中町レ八八(現本町三丁目一五‐二七)一里塚の丘の下を流れる清らかな川であった。

 

○ 道路元標

 明治六年(一、八七三)の太政管達により全国主要街道の府県庁所在地の交通の要所に木柱を建てこの元標を起点として町内の町村に至る距離が測定され地図の作成等が行なわれた。現在は金沢市尾張町橋場交差点附近に石柱として設置されている。

 道路元標は大正八年道路法施行になり、大正九年この場所に設置する。

 

 

○ 富樫館跡

 富樫館跡記念碑は富樫歴代国守の遺徳を讃える子孫の感謝の象徴であるとともに、いよいよ明るい町づくりを誓うわれわれ町民への無言のはげましの金字塔となることであります。

 新兵衛川と九艘川の間は富樫館跡である。館跡は四〇〇メートル先の住吉地内であります。

 昭和四十二年六月一日除幕式には東京富樫晴貞の末裔冨樫一恵(主計)様参加されました。

 

 

○ 富樫館跡 和鏡出土

 住吉地内で加賀国守富樫氏の館を取り囲む堀跡を発見しました。平安時代から加賀を代表する有力な武士で南北朝時代守護に任命されるや、野々市に広大な舘を構え加賀の国を治めていました。

 この館は、これまで絵図や文献によって伝えられていましたが調査により富樫館の存在が明らかにされました。発見場所住吉町二三番二号調査面積は約三百平方メートル南北に走っており、上幅五メートル下幅一メートル深さ二,五メートル薬研堀と呼ばれています。富樫氏が有力武士であったことを物語る「和鏡」が出土しました。直径五,五センチ厚さ三ミリ遺物としては珍しく中心に「亀」その上に向き合うようにして二羽の「鳥」が描かれ、その周りは樹木の葉で飾られています。

 「物」を写す出す道具として祭祀で多く使われました。この鏡は堀の中から出土しており、化粧をするために使っていたものを捨てたのか、あるいは祭祀として意図的に投げ込んだのか、大変興味深いことですが今後の研究を待たねばなりません。

 そのほか珠洲焼 越前焼 瀬戸焼などの陶器をはじめ中国で焼かれた碗や皿などが多数出土し、各地との交流が盛んであったことがうかがわれます。今回の調査は面積は狭いものの富樫氏の実態をつかむうえで大変重要な発見となりました。

 

 

○ 延命子安地蔵菩薩

 昔行基菩薩が北陸路を巡錫の折、今の石浦神社(当地長谷寺滋光院)霊告により一刀三礼して刻まれたという石佛である第四十五代聖武天皇(七三四)の頃である。明治維新の廃佛の余波により藤村理平氏堀禄宣氏ら長谷寺滋光院に墾請してこの霊佛を受けて野々市中央曲り角に奉迎してお祀りした。明治八年(一、八七五)三体のうち一体は伏見寺一体は法隆寺へ

  十一面観音菩薩は奈良の法隆寺へ安置

  不動明王は金沢の寺町伏見寺へ安置

 

○ 参勤交代時の御小休所 明治天皇行幸御小休所跡

 藤村理平家跡一日市町ラ一五〇(現本町二丁目一七-二一)田村氏宅藤村家は徳川時代の末文化文政の頃より加賀藩主前田家の御用調達に寄与し帯刀を許された。加賀藩主参勤交代の往復の途は必ず御小休所となった。

 明治十一年十一月五日明治天皇北陸巡行の時御小休所となった。

 

○ 馬市跡

 馬市は年に四回産土神の春秋の祭礼と並ぶ年中行事の一つであり、その賑わいは古く野々市を物語っている。

 馬市の歴史は富樫時代の文正元年(一、四六六)頃には野々市に馬市があったことが見える。古くは富樫館近くの馬替神社で開かれたが前田藩の時代から住吉宮(現布市神社内)に移された。明治時代以降に村の中央の瀬尾・駒井両家の庭で行なわれるようになった。藩政当時は毎年三月四月五月九月二十日から数日間にわたり開かれた。

 馬市には藩から奉行・十村・馬役などが出張し、領内の各地から集った博労や百姓達の売り買ひの声が二才駒・三才駒のいななきと混じりあって住吉宮社頭を賑わし村の収入を潤していたが大正六年(一、九一七)法律により廃止された。

 

○ 力石公園

 源義経は北陸潜行の折武蔵坊弁慶を野々市の富樫館へ遺し勧進を乞いました。このとき武蔵坊弁慶は余興に大石を持ち曲技をして館より投げ捨てました。その石の落ちた所がこの地であると伝えられています。

 その後照日八幡神社に移されましたが大正三年十一月富樫郷住吉神社に合祀の際移されました。

 この西裏田圃に宮ノ後の地名が残り昔野々市七宮の内の一社の跡なりと伝わる。

 

○ 水毛生家

 

 水毛生家は当地でも名門の家柄である。

 この水毛生家は変った苗字である。これは祖先と縁のある「瀬尾」から生まれたという意味である。

 「瀬」の「シ」さんずいは水に通じ「尾」の一部を取り出す「尸」と「毛」となる。そして「生まれた」「生」を組み合わせて水毛生となったのである。この苗字は明治五年に付けられた。

 長享二年(一、四八八)六月政親は一向一揆に滅ぼされ高尾城で自刃した。悲劇の武将である彼は最後に臨んで重臣山川三河守の妻に三才になる実娘と十才の三河の二男を託してこの子らに子孫を残してほしいと遺言して城から落してやった。三河守の妻は二人の遺児を連れて山深い坪野の里にかくれ住んだ。

 そのうち世情が安定したので天正十五年(一、五八七)二人の遺児の子孫たちがかつての祖先が住んだ野々市に移り伊右衛門と改めたのが三毛生家の初代である。二代の伊右衛門は肝煎を命ぜられた。

 慶長十九年(一、六一四)前田藩は野々市の地前間二千五百五十間(約四町)奥行十五間ヲ賜ヒ宿場とした それより歴代この宿場の豪家として窮民を救った歴史がある。同家の屋敷地は間口十五間奥行二十二間あり裏道に通じている。

 寛永二年(一、六三五)に大飢饉があった時「米」を放出した。第二代伊右衛門

 第九代から第十二代まで「米」を放出した。代々当主は文化人として活躍された。

 浄土真宗の尼御講の頭をつとめられた。当家には本願寺十三代宣如上人消息が伝わる。

 安政の頃より寺小屋教育をし自ら教鞭をとって教えた。

 明治六年(一、八七三)七月学校令の施行と共に寺子屋教育を廃止し、三毛生伊余門氏宅を野々市村落野々市小学校の女子部として義務的教育を行った。

 文久三年(一、八六三)より蚕糸改良に盡力し桑畠一万餘株を分けた管内蚕業の奨励につとめた。

 太平寺村に於て北陸蚕糸会社を作り村民の救済に当たった。白山神社に恩徳碑がある(太平寺)藍綬褒章を賜わった。

 天正三年(一、五八五)佐々成政を討伐のため越中に向かう豊臣秀吉を迎えるため、加賀藩主前田利家が三毛生家に立ち寄り庭にあった大杉に馬をつないだという。

 元和二年(一、六一六)三月二十五日前田利常が遠出の際当家で休憩した。その時馬をつないだとされる「馬つなぎの杉」が残念ながら立枯れた。

 安政元年(一、八五四)三毛生伊余門は富樫館跡地が荒廃の原野になっていた地を(住吉町)私財を投じて十数年にわたり十数町歩を開墾した。その地を村民に与えて償を求めなかった。

 明治二十二年(一、八八九)冨樫館の跡を後世に伝えるため布市神社境内に富樫氏先業碑を建てその偉業を後世に伝えんとした。三毛生伊作氏は東京帝国大学校を大正十年三月(一、九二一)卒業された。

 宝物

 本願寺十三代宣如上人消息

 富樫氏甲本尊

 富樫晴貞の馬の絵

  太平寺 白山神社境内

 恩徳碑

 

○ 富樫家国銅像 彫刻家 米林勝二氏 本町五丁目文化会館

 

 富樫氏の始祖は鎮守府将軍藤原利仁であり、曽孫加賀介忠頼が永延元年(九八七)加賀の国司に任ぜられ、この町に住してその基礎を固め仁政を施し、その子孫は在庁官人として国務を執った。

 野々市の地に初めて居館を構えたのは平安後期の富樫介家国の時代という。

 以来富樫氏は伏見川流域周辺を基盤に勢力を拡げ、加賀の代表的武士団に発展した。南北朝室町期には富樫介高家らが守護職を歴任し、加賀の要衝であった野々市に政治支配の拠点である守護所が置かれた。歌舞伎「勧進帳」で有名な安宅関守、富樫左衛門尉は仁情ある武将としいて名高く、郷土の民謡「野々市じょんから」も富樫氏の善政を称えて今にうたいつがれている。

 長享二年(一、四八八)守護政親は一向一揆によって自害し、泰高が守護の地位についた。

 野々市は中世における加賀の政治・経済・文化の中心として大いに繁栄し、かつて当地に所在した大乗寺は、富樫一族の外護により曹洞宗の要地として発展した。

 ここに、加賀国の名門富樫氏の歴史と伝承を顕彰して、当地ゆかりの家国公の銅像を建立し、その歴史的遺産を永く後世に伝えんとするものである。昭和六十三年七月一日建立

 像高二、八九〇 巾一、〇八 厚さ七八〇

 台座一、〇〇〇 巾三、八〇〇 厚さ一、四〇〇

 

===[part]=== ==[pt]名所・旧跡(2)[/pt]==

○ 天満宮

  天満宮は旧中町社名不明の宮一社 照台寺南方表田圃御米供田にあったと伝える。

 ○ 河合口(川合口ともいう)

 石川郡河合村(現鳥越村河合)に河合藤左衛門宣久(のぶひさ)が河合村より林氏領と富樫氏領を通る重要な道路であった。世の人は河合口と呼ぶようになった。一向一揆の指導者となって戦った。

 

○ 六郎口

  富樫氏の同族で林六郎光明の領域で六郎光明は日ノ御子知気寺辺に館をかまえていたそうで野々市にある富樫氏林氏との重要な交通路の出入口であったので世の人は六郎口と称したのである。

 知気寺には六郎館址があり、日ノ御子に六郎畑というところあり、いづれも林六郎の遺跡である。林六郎光明は寿永二年(一、一八三)富樫泰家に従い越前三條野で平軍と戦い斉藤実盛のため陣歿した人である。(片山津首洗池あり)

 

○ 夏の水

  夏(げ)の水は旧荒町ノ四二(本町一丁目一六‐四)木津春雄方に「夏の水」という清水が沸き出た。同家は代々茶店を営み夏期になると野々市名物の白瓜・西瓜をこの夏ノ水に浸し客の観賞を得た。この水は手足を洗い置けば年中「ひび」や「あかきれ」にならなかった。明治時代末期に至り噴出を見ず名物の「夏の水」が出なくなった。

 

○ 常夜燈

 布市神社表参道に二重屋根の献燈一基あり、石積みの古いものであり、年代不詳富樫郷住吉神社創建当時のものと思われる調査を待つ。その近くに常夜燈二基あり、嘉永二年(一、八四九)五月建之と見える。

 石工大阪長堀江戸屋七兵衛とあり、大阪港から大野港を経て九艘川水駅まで運んだものと思われる。

 

○ 松金電車

 乗物交通機間として北国街道(本町通り)を馬車鉄道が明治三十七年(一、九〇四)に開通した。松任町八ツ矢より金沢市野町四丁目の区間であった。大正五年 廃止となった。

 大正五年(一、九一六)電気鉄道が松任町八ツ矢より金沢市野町四丁目開通した。電車道はサカサマ川に沿って通っていた。西野々市停留所は本町四丁目一‐三二 中野々市停留所は本町一丁目三九‐二西尾敏外氏前 野々市駅は石川總線と合流したところで左側が停留所であった。石川總線電車は鶴来町一の宮~野町間である。

 昭和三十年(一、九五五)十一月十五日廃止となり、バス交通に移る。

 

○九艘川

 九艘川は扇が丘附近を流れる野々市の水駅であった。九艘の舟を常備して石炭・塩の外生活物資を運ぶ重要な水駅であったことがわかる。鶴来方面への物資を運ぶ中継所ともいえる。

 上流の額乙丸に枝川が碇河という川があり古へ唐舟が碇を下ろしたので碇川と名が付いたといわれています。

 大野川から二万堂を舟で野々市の水駅に着き上流の鶴来方面へ生活物資の重要河川である。

 

○ 新屋敷

 江戸時代まで野々市は西通りの木呂川まで家が建っていた。明治四年(一、八七一)以降に徐々に分家の家が建つようになったので新屋敷と呼ぶようになった。

 木呂川誌に「荷売り屋」といって食事が出来て小休憩出来る店が賑わい村の端(ハナ)木呂川の横にあって「端(ハナ)の茶屋」と世の人はよんだ。魚住弥右衛門である。大正八年現在の本町三丁目一九‐二七に移る。先祖の商標を今に伝える。

 この地に嶋田士納が履物雑貨店として移る。

 これまで交通機関がない時代で京都方面へ旅する人は歩いて行く。家族が「端ノ茶屋」まで見送り達者でなあ・・・と無事を祈り別れた場所でもあった。明治三十一年四月北陸線の鉄道開通に伴い世は一変した。

 

○ 五智大乗院

 大森玄衆さんは「野々市町の発展は富樫氏を抜きにして語れない。」富樫一族の菩薩寺として供養してもいくのも私の使命と昭和六十三年に寺院を建立された。

 大森玄宗さんは縁あって医王山寺の井上貴?(キオウ)住職との出会いがあった。そして天台宗の住職の資格をとり富樫一族の菩薩を弔うため野々市町在住の故人押田三次郎さんと建立にこぎつけた。

 第二十四代富樫政親が文武両道にかけたとされることから四天王のうち広目天の佛像を奉っている。

 政親の命日の六月九日には「大明寺院運明大居士」の位はいを前に富樫郷奉賛会の方、近所のお世話する方々が集り、盛大に法要が営まれます。

 

○ 無縁塚と馬頭観音

 昭和三十五年に東和織物工場が本町一丁目からこの地に移り建設された。全国から若い女性が働きにきていた。その頃に交通事故があり、七人が「けが」をしたり、労災事故など相次いだ。

 この付近一帯は富樫氏の菩提寺跡とも一説には刑場跡ともいわれる伝承があった。鶴来街道拡張の折には地中から墓、人骨など出土があり、街道沿いに松を植えお墓、石などまとめて無縁塚として法要し供養した。

 大森玄衆さんは無縁塚近くに馬頭観音を奉って弔うた。それ以来災害もなく、馬頭観音の五利益に感謝して手を合わせる人々が多い。

 

○ 野々市放送所

 昭和五年四月十五日金沢放送局野々市放送所開設された。

 初代町長舘惣次郎氏は金沢放送局野々市放送所開設に盡力された。始め放送出力三粁ワットであったが同二十二年八月第二放送が増設せられ、両放送十粁ワットとなる。放送所のある町は将来発展することを舘惣次郎町長は信じていた。加賀平野の大空に向かってアンテナが二基そびえ立つ野々市町の誇りである。

 

○ 農事社跡

 農事社は明治九年(一、八七六)旧加賀藩士杉江秀直が創立し、近郷の篤農家を集めて田地の区画整理、農具の改良など教導した所で当地に於ける洋式農業の発祥地である。

 明治三十年(一、八八七)この農事社を石川県模範農場と改名し渡辺譲三郎氏を議長とした。本県の耕地整理は全国最初であり、安原村高田久兵衛もこの農事社で学んだ。

 

○ 詮議場跡

 大正時代までヘ二番地(現在本町四丁目十二‐三)に舘三郎平衛という家があった(みりん醸造店経営)

 歴代新田裁許の職を勤めた家柄で、藩政時代には此附近の村落に犯罪のある時は、金沢より改方出張して詮議取調をなしたるものである。

 

○ 小武僧橋

 野々市と押野丸木との境を流れる境川にある橋で昔旅人の小武僧が何人かに殺害せられた所である。

 

 ○ 木呂川

 野々市の歴史として最も古く見えるのは菅原道真公が或時神を祈って越洲社に向う時加賀野々市を通過され、その時土地の風光を眺めて疲驂嘶二布水一という詩をつくられたと伝えられます。(布水イナナク)三州志故墟考記文

 元慶七年(八八三)菅原道真公は加賀権守に任じられ仁和二年まで四年間勤められた。

 それから菅公布水川と世の人は呼ぶようになった。その後加賀藩政時代に前田藩が松樹の伐採を厳禁したため町の燃料が不足して困ったので藩がこれを補給策として白山々麓の山野木材を倒筏し、旧暦の十月から十二月にかけて冬降雪期を利用して中宮村より「イカダ」にして手取川より富樫用水の木呂川に流したものである。

 

○ 貯木場

 貯木場又は木呂場揚げともいう。「イカダ」の木材を木呂川に流したものを現本町四丁目十二‐二嶋田良三氏の上流に高堤を築き約五、〇〇〇坪の貯木池を構成して土場揚げに集積し、木呂を積み上げた。この木呂を一メートル(三尺)程に切り乾燥させ北国街道を通り加賀藩へ納入した。この頃から菅公布水川の名が木呂川と世の人は呼ぶようになり重要な河川であった。

○ 水車のはじまり

 木呂川の水を利用して水車をつくり種油・製粉など製造する作業場とした。野々市の水車のはじまりである。

 その後精米場として酒造米の製米を舘八平氏・喜多直次氏・舘三郎兵衛氏らの作業場であった。

 この清らかな川水を酒造り、生活用水として活用した。酒屋の作業人夫が朱塗りの桶を天ピン棒を担ぎ列をつくって川水を運んだものである。

 水車の作業歌

  はなのあらまち・ちよいとしんまち・かが一日市・なかまち・六日町

  七ツ屋が・なんとかか・あとの一町は・木呂が出る 繁昌・・・繁昌

 

○ 鎮火祈願の祠

 明治二十四年(一、八九一)二月二十二日深夜旧西町へ一四番地(現本町四丁目一四‐七)附近から火災が発生し折柄の暴風のため延焼し一帯火の海となり旧六日町(現本町三丁目)と二町合せて一五〇戸焼失した。早速この地に祠を安置して鎮火祭を行ひ布市神社に於て鎮火祭執行する。毎年二月二十日鎮火祭執行して「火の要心」のお礼を消防組が全戸に配布していた。

 昭和三十年四月町村合併後に廃止となった。それ以降も所有者が変っても今日まで毎日祠にお水をお供している。山田氏

 

○ 野々市消防組

 明治二十四年(一、八九一)四月私立丸藤組(藤村氏)を組織せり、その後野々市消防組が結成され、手押しポンプを購入本町一丁目(旧荒町)源野一弥氏前 本町三丁目(旧中町旧役場前)現児童館 本町四丁目(旧西町)庄田憲司宅前三ヵ所に常備とした。その後消防自動車購入して県下消防自動車第一号ナンバとなる。

 

○ 野々市町郷土資料館

 野々市町郷土資料館は現松任市村井町に安政年間(一、八五四~一、八五九)に建造された農村の商家で表構えは町屋間取りと構造は農家という複合建築物です。

 現在は「旧魚住家住宅」として町指定文化財となり、今もそのただずまいを残しています。

 私達が日常生活に使用していた器具や道具は昔と比べて変化しています。そのため民具の名称や使用方法が忘れられようとしています。

 当時の人々の暮らしの様子を伝えるために資料館ではこのような農具や民具を楽しみながら知っていただけるよう展示しています。

 

○ 喜多家住宅(重要文化財)

 喜多家はもと高崎姓を名乗った福井藩の武士で一、六八六年貞享(じょうきゅう)三年に縁を離れ、野々市に居住することになりました。

 代々油屋治兵衛として、その名が知られ、幕末から酒造りを営みました。明治二十四年(一、八九一)野々市の大火で建物の一部焼失したので、現在の主屋は金澤市材木町の醤油屋の建物を買い求めて移築したものです。

 住宅は間口七間半、奥行き七間二階建ての大きな町屋です。正面の細い縦格子となる木むしこ、と「さがり」といわれる小庇(ひさし)の板壁、二階の両脇にみられる袖壁、そして内部の土間の吹き抜けに縦横に架けられた梁組(はりくみ)など典型的な加賀の町屋形式を示しています。

 

○ 御倉敷

  御倉敷は、富樫氏所有の御倉の跡で天正八年(一五八〇)柴田勝家の火攻の後、其の敷地に青竹を生え茂りて一大竹薮と化した。士人これを御屋敷と云い、爾後相伝えて今に及んだ。

 

○ 山川氏

  荒田町新町(本町二丁目)東田圃の山川は、富樫氏累代の家宰山川氏の出第の迹で、文明年中三河守が連歌の宗匠飯尾宗紙を招いて連歌を相唱和した所である。

  この山川氏は、富樫繁家の後胤で其の本第を今の内川村字山川に置いた。富樫氏に仕えた。

===[part]=== ==[pt]藤村理平氏[/pt]==

○藤村理平氏の頌徳(しょうとく)碑 六郎公園内

  藤村家は源平時代・平家の落武者か、或は源氏の残党か定まらず藤原氏の裔

 とも思われるふしもある。只吉野朝時代に於て勤王の軍に従って皇室に忠勤を励んだことは藤村家の家憲に無言の伝統として残り血より血に流れていることから疑いない。

 足利時代となって加賀国司富樫氏野々市館に仕えてその家老職たりしが政親と本願寺派一揆に敗亡するや土民となって帰農し、以降富樫郷の名称屋を務めた。

 徳川時代の末、文化文政のころより加賀の城主前田家の御用調達に寄与し帯刀を許された。

 領主参勤交代の往復の途は必ず御小休所となり、その都度厚遇したため下賜せられる物品多く家宝として多く蔵した。

 これまで小藤屋(ことや)理兵衛と称えたが明治維新後藤村の姓を理平と改めた。

 明治十一年(一、八七八)十月五日明治天皇御巡幸の時は御宿舎を仰せ付けられた。今は当時の門だけが史蹟となって残っている。

 理平氏は野々市尋常小学校を卆業すると創立間もない石川県師範学校に入学当時の師範学校は県下の秀才が集まるエリート校であり最高学科学府の卆業者で智職階級に属していた。

 野々市尋常小学校の校長を勤めた、後退いた理平氏は早くから関心をよせていた府県会規則が公布され、最初の県会議員選挙が行なわれたのは明治十二年四月理平氏は十九才の春であった。

 県民自身によって県政を決するというわが県政史上空前の改革は青年理平氏の感動と興奮に沸きかえさずにおらなかった。そして明治二十一年七月県会議員の半数改選が行なわれると彼は自由党に入って石川郡から出馬し、初めて宿望を果したのである(当時二十九才)この時の県会は自由党と高村高俊県会および与党改進党との激しい対立から十二月に解散、翌二十二年十一月改選があった。理平は再び当選し、その後も同二十二年八月と二十八年三月と当選を重ね、県政のよき推進役として活躍された。

 明治二十三年(一、八九〇)頃海防事業に賛し金壱千円也を献納して黄綬褒章を受けられた。

 明治二十九年(一、八九六)九月から野々市村長三毛生伊余門氏の後を受けて第三代村長に推され明治三十一年(一、八九八)十一月まで村勢の発展につくされた。

 

○ 電気の導入

 明治二十三年(一、八九〇)頃金沢の森下森八氏は東京から帰途静岡県浜松市で電気会社の開業式に出席したことから金沢でもこの事業を起そうと決意した。親類・知人に相談したが耳をかす者はなかったが独力でも事業を始めようと徳永文雄氏という技術者に犀川について発電の可能性を実測させて金沢電灯会社を組織した。

 ところが明治二十五年(一、八九二)森下家は火事で類焼した。翌年森八森下氏は病気で入院した。長谷川准也が市営に譲渡してほしいと申し入れたので森八森下氏も了承した。

 市議会に市営電気事業をめぐって技術上の問題で典折があったが九月これを可決した。ところが日清戦爭がぼっ発したため政府は起債を許可しなかった。

 その後許可がおりたのは戦爭が終った、明治二十九年(一、八九六)七月その間避病院疑獄事件があったので金沢の状況は一変していた。市議会はついに明治三十年(一、八九七)五月民営に移管することを可決して森八森下氏に変遷された。理平氏はかねてから森下氏と共に水力発電所計画をねっていたので発電の可能性を実測させ、東京三井商事の技師潮田伝五郎氏に見せたところ充分採算がもてると太鼓判を押されたので理平氏は計画の一切を委嘱し、明治三十年十二月資本金二十五万円也の会社を設立し、鹿島郡中川長吉氏 羽咋郡岡野是保氏 近岡九郎氏 金沢河瀬貫一郎氏等の協力で水力発電の認可を得て直に辰巳発電所の建設に(二四〇kW)に乗り出した。

 会社名は金沢電気株式会社として活躍された。そして明治三十三年(一、九〇〇)六月末に北陸の金沢に伝統が輝いた。

 伝統の数は二、二六七灯に過ぎなかった。

 しかし今まで行灯やランプの光の下に生きて来た人々には電灯は「ぜいたく」品として敬遠され、このため経営は苦しかった。

 理平氏はこの事業の将来性を信じていた。何をおいても我が野々市に電気の導入をせなければならないと翌明治三十四年に私財を投げうって電柱を立て電線を引いて金沢についで野々市村に「文化の灯」が輝いた。

 当時の電球は五ショクの明るさで透明なものであった。電灯は夜だけであった。

 

○ 精米場

 電力による精米場は理平氏の手によって建設された。

 これまで木呂川の水車を利用して精米場が出来県下に普及したが種々のエピソードもあった。近在の油を生産する者、油を一手に販売していた店主らの圧力があった。当然電灯の普及で油を生産する者油を販売する者の大痛手を受けた。そのため自宅に電灯を引こうとせず多数いた出入りする人にも油を売りつけるため電灯は引かせなかった。

 

○ 野々市郵便局開局

 明治三十六年(一、九〇三)十二月野々市村に郵便局を開局した。郵便為替貯金業務を開始する。

 理平氏は初代野々市郵便局長に就任し活躍された。明治十一年(一、九〇八)三月集配特定郵便局に昇格された。

○ 金沢電気ガス株式会社設立

 明治四十一年十一月から「ガス事業」と兼ね金沢電気ガス株式会社と改称し、金沢市古道町にガス工場を設置し営業を始めた。

 大正十一年(一、九二一)市営に移管され、電気の方は辰巳のほか、福岡第一、第二、吉原、市原の四発電所を増設した。

 

○ 金沢常設活動写真館開店

 大正二年(一、九一三)十月末日には金沢香林坊下の花屋敷入り口に金沢常設活動写真館菊水倶楽部の経営に乗り出した。新築オープンには第四高等学校生徒や勤め帰りのサラリーマンで開場前から列が出来る上々のすべり出しで沸き返った。藤村理平氏は教育、政治、公共事業等に尽力をつくされ、その功績を徳望とを敬慕し、野々市小学校々庭に昭和十年(一、九三五)十一月藤村理平氏の銅像を建立した。その後大東亜戦の時銅像が応召された。

 

===[part]=== ==[pt]富樫氏滅亡後の野々市[/pt]==

 

○ 富樫氏滅亡後の野々市

 長享二年(一、四八八)六月の一向一揆後の予震が長引き八十二年目の元亀元年(一、五七〇)五月織田信長により野々市舘・大乗寺など焼かれた。その後十年経たる天正八年(一、五八〇)三月再び織田信長の命により柴田勝家は野々市を攻め野々市は全面火の海と化した。三回に亘り戦火にあい古来の建物・宝物・古記録など焼かれ、武家・諸坊は他国へ逃げた。僅かに土着の百姓のみが残った有様である。

 そして野々市は一向宗徒の治下にあった。

 天正十一年(一、五八三)前田加賀藩治となって以降の野々市はもはや政治・文化の中心を離れ、流石往昔の盛運を偲ばせて郡内第一の大高持であったが、北陸道の一宿駅に過ぎぬ存在となった。これまで政治・文化・宗教の中心として富樫氏領主の存在地として高い誇りと教養を持つ加賀国府であった。

 

○ 北国街道の宿駅

 村は慶長の初期より漸次北国街道を形成したので宿駅の観を留め、慶長十九年(一、六一四)に大筋西町通りの端(はな)の木呂川橋詰(嶋田良三宅)より一、千二百五十間前口と奥行き十五間を加賀藩から無税として与えられ、宿駅となった。

 駅馬七十三頭と駅夫二百十人を置き、着荷の際には駅馬役人を徹用として逓駅に服しせめた。

 これが伝馬問屋が始まったのである。伝馬問屋の場所は布市神社前の南側西詰であった。

 藩政期の住居は広い家をつくることを禁じられていた。家屋の横に土蔵を建てたのは、藩政期末から明治期頃でなかろうか

 家屋に細い縦格子となる「木むしこ」と「さがり」いわれる小庇(ひさし)の板壁があり、城下町のただずまいを今に残してあります。

 北国街道の町並みは他村には見られない、大切に保存しなければならないと思います。

 

===[part]=== ==[pt]冨樫氏と大乗寺[/pt]==

 

冨樫氏と大乗寺

 弘長元年(一、二六一)第十四代冨樫家尚が野々市の外守にあった泰澄大師の作である大日如来の大佛堂の境内に一寺を建立し、大日山大乗寺と号して真言宗密師澄海阿闍梨を聘して住持とした。是れ野々市に於ける大乗寺の創建で現在金沢市城南野田山に法燈として曹洞宗古刹東香山御國禅大乗寺の起源である。

 

 長享二年(一、四八八)一向一揆が冨樫政親を亡くしてより、不幸野々市は戦乱相つぎ、遂に戦禍大乗寺に及んだ。元亀元年(一、五七〇)冨樫晴貞を追撃した時、大乗寺は全く焼焚され、住持雲窓祐輔は、その余燼を収捨して承天寺を仮りに大乗寺として、法燈を挑けしも、十年を経たる大正八年(一、五八〇)柴田勝家が一揆を掃討した時、承天なる大乗寺も燔燼の厄に遭い、澄海以来三百年の大乗寺もここに潰滅に歸した。その時の住持は虎室春策第十四世であった。

 元亀・天正と丘焚にあい土冦に蹂躙され、亦三百年の外護の冨樫氏を失い気息奄々たる大乗寺を痛歎した金沢の藩士加藤重廉氏は木ノ新保にある邸を提供し、私財を損して大乗寺とした。ここに大乗寺は開剏以来三百二十年曹洞興隆名匠育成の歴史ある野々市の地を去ったのである。

 加藤重廉は、加賀藩の重臣で始め六千俵を賜ったが後五百石を加えられた藩主である。此の加藤氏の援護に依る大乗寺再興の年月は天正の末期(一、五九一)か文禄の初期(一、五九五)でなかろうかとのことである。

 この大乗寺が野々市の何れの辺にあったかと謂うに、今その全域を詳にすることは出来ないが、開山塔所が野々市町ノ三十番地即ち旧荒町(現本町一丁目)の八幡神社址であることは明瞭で野々市町ム四十八番地に現存する白山水は同寺境内にあったことは明瞭であるから これを基点として、考察すれば、この附近八町四方は大乗寺遺址であったようである。

 これ等の史実を綜合し大乗寺境内西北隅にある徹通和尚の塔司は旧荒町八幡宮の境内なること最早疑うの余地はない。同社が大正三年(一、九一四)布市神社に合祀したる後大正五年(一、九一六)其の社地を耕地整理開拓した時野々市の住人野村松太郎氏が地下約六尺のところから石櫃一個を発掘した。これを当時野々市に在りし考古家舘八平氏請うて識者に鑑したるところ上文記載の如く所謂三祖の霊骨であるとのことであった徹通が入寂してから六百余年を経て発見したことは甚だ奇蹟と云うべきである。

 この霊骨を昭和二年(一、九二七)舘残翁(八平)氏は木村次作氏と図り高安軒再建して安置した。

 

 大乗寺和尚より霊骨発掘者野村松太郎氏に贈りし賞状

 同氏ハ大正五年野々市耕地整理工事ニ従事中字外守旧八幡神社畔ナル旧大乗寺開山塔所ノ下ヨリ石櫃ヲ発掘セリ之レ当寺二十七世卍山禅師ガ藩主前田氏ニ提供セシ古書ニ記載セル三祖尊ノ霊骨ヲ奉安スルモノナリ而シテ其ノ尊貴ナル所以ヲ関知シ舘八平氏ノ乞ヒヲ容し無報砂ニテ分与シ今日アルヲ致セシモノ●ニ同氏発掘ノ功ト謂フベシ洵ニ感嘉ニ堪ヘズ依テ茲ニ賞状ヲ呈ス

 昭和二年八月二日

 高安軒本寺

 大乗六十五世 徳翁大龍

 

 以上の史実等に依り大乗寺址が当町ノ三十番地旧荒町鎮守宮跡及び当町ム四十八番地、白山水を中心に 八町四方同寺領であったことが窺はれる。大乗寺野々市より木ノ新保に移り加藤重廉氏下邸に寺運を紹じに至ったが、慶長四年金沢城外濠修築の為め藩主より石浦郷に地を賜り本多氏邸上屋敷に移った。その後幾何もなく此地高山南坊(高山長房ノ事也)に賜ったので、更に石浦郷本多下屋敷に移った。(現在県立工業高校)これは慶長六年で十五世謙室和尚(慶長六年十月入寂)の時である。

 其後大乗寺は十数世を経た卍山和尚の時、即ち元禄八年(一、六九五)(卍山和尚第二十七世也)今の野田山に(当時寺地)移転し、佛堂伽藍建てその完成は元禄十年(一、六九七)八月十三日であった。この時藩主より拝領した寺地は五千百四十三坪である。爾来数十世を経て第六十七世清水浩龍和尚に至った。

 冨樫家尚が大乗寺を建立し法護を宇内に流布したことは、普通の國主大名が単に祖先の宴福を祈る為めのそれと趣きを異にし、実に國家社会の為め開剏したもので、徹通傘下に在った螢山は、後醍醐天皇の勅問に答へ曹洞の要義を明かにし、後も常済大師の称号を拝し、明峰素哲は護良親王の勅を奉して越中にて其の主事に努め大智は西陣の一角に孤立尊皇を絶唱した菊池武光一門の純忠至烈を陶冶し、通幻は彼の大楠公の季子 傑堂能勝に法義を薫陶し何れも建武の大業を擁護した。その他の名僧も四方に行脚して佛道普及に努め社会に貢献する所多かった。野々市町小史より  野々市町本町四丁目十二‐二 嶋田良三

 

 

野々市町位川町

池上白山神社境内御手水池

 

 大乗寺第三世明峰素哲の葬儀を行うにあたり白山権現の影向あり、白山権現が手を清められた池として村人は大切に守っている。 正平五年(一、三五〇)

 

 

 

本町一丁目 高安軒

 

太平寺

===[part]=== ==[pt]あとがき[/pt]==

 

あとがき

 野々市は中世には加賀の中心部の市場集落地であった。南北朝時代から戰国時代にかけて守護富樫氏がこの地に国庁を置き加賀国の政治の支配の拠点として繁栄した。当地の豊な歴史が息づいていることを忘れることが出来ません。資料の収集には先人が残された大切な遺産を本町の調査研究を行ひ郷土を愛する野々市町に住むみなさまに多くの歴史を語り後世に伝えることが出来ますよう努力いたしました。

 執筆にあたり石川県史・野々市町小史を参考にいたしました。

 

 野々市町本町四丁目十二‐二 嶋田良三

 

 

はじめに

 富樫卿

 富樫氏の歴史・野々市の歴史と切りはなせない富樫卿は石川郡の古い郷名で恐

らく野々市が本郷であり、富樫と呼ばれていたのではないかとみられている。富

樫庄は郷内のさらに一部で前田藩政時代の文書によると富樫庄は

  富樫庄

 米泉・西泉・泉・泉野・泉野新・泉野出・泉野十一屋・長坂新・横川・久安・

有松・円光寺・寺地・窪・法島・伏見新・山科・平栗・別所・蓮花・野田・大桑

・三小牛・山川・馬替・高尾・大額・額新保・額谷・額乙丸・矢作・富樫新保・

小原・野々市・三十苅・上新庄・下新庄・坂尻・曽谷・四十万・後谷・坪野・清

瀬・倉ヶ岳・中戸・天池・樫見・大平沢・国見・堂・粟田新保・住吉の五十三カ

村を含んでいる。

 

 本町の区画

 西町・七ツ屋・六日町・中町・一日市町・新町・荒町の町に分るるも字名は公

称のものでない。

 

 田地の区画

1

 西表・西裏・狐薮・鬼箇窪・荒田町・富樫・背骨・外守・白毛田の九字の区画

がある。

 

 

○ 布市神社

 

 永延元年(九八七)人皇第六十六代一条天皇の勅に依り、加賀国司として下向し

醇政を布いたので国民その化に親み正暦元年(九九〇)朝廷に奏して重任を乞い正

暦四年(九九三)永住の勅諚を賜り、天皇は忠頼に住吉三柱の神像を賜ひ富樫氏の

守護神とした。韓唐人の入り込み国内を騒さんとするおそれあり、此の明神の利

益を以って奉祀した。

 当神社の神霊は上筒男命(うわづつみのみこと)・中筒男命(なかつつみのみこ

と)・底都海津見命(そこつわたつみのみこと)の三柱富樫忠頼(とがしただより)

2

の神霊合祀して四柱は富樫郷住吉神社の祭神である。

 旧荒町(現本町一丁目)外守八幡神社の祭神は応仁天皇(おうじんてんのう)菅原

道真(すがはらみちざね)公の二柱

 旧西町(現本町四丁目)照日八幡神社の祭神は天照大御神(あまてらすおおみか

み)、天児屋根命(あめのこやねのみこと)、応仁天皇の三社

 前記二社は大正三年(一、九一四)十一月二十日富樫郷住吉神社に合祀して布市

神社と改名した。

  宝物

 一、富樫昌家の頃信長のご神刀(大乗寺の白山霊水で名刀を鍛えた)

 一、奉額住吉大明神 江戸時代佐々木志津摩の揮毫による木額

 一、源平八嶋海戦図絵馬狩野明信作 文化の人物

 一、赤穂義士討入図絵馬 元禄十五年(一、七〇二)

 一、聖徳太子一代記図絵馬 嘉永二年(一、八四九)

 一、石山合戦図絵馬 安政二年(一、八五五)

 一、神功皇后

 一、武内宿禰

 一、獅子頭・天満宮額

 一、和算額 安政五年(一、八五八)

 

○ 冨樫氏館跡先業碑

3

 安政元年(一、八五四)水毛生伊余門氏は富樫館跡地が荒廃の原野になっていた

地を(現住吉町)私財を投じて十数年にわたり十数町歩を開墾した。この地を村民

に与えて償を求めなかった。

 明治二十二年(一、八八九)富樫館跡を後世に伝えるため布市神社境内に碑を建

立した。

 

○ 公孫樹

 この古木孫樹は何時頃植えたか諸説あり明らかでない。第四代忠頼ともいい、

第七代家国ともいい、第十二代泰家ともいい、木村孝信ともいう。樹齢から察す

るに忠頼・家国は遠きに失し、木村孝信としては近いと思い、或は泰家と思われ

る。文治元年(一、一八七)社殿造営の時に植えたと記してある。木村九郎左衛門

孝信が織田信長の臣となり野々市に在住し、不破河内守光治に属し、村の住吉社

境内に植えしものなりという。

 

○ 聖護院道興准后

 道興准后は後知是院関白藤原房嗣の子にして聖護院の門跡たりき、文明十八年

(一、四八六)六月上旬足利義政(あしかがよしまさ)に東山に袂別して若狭越前を

通過し加賀に入り立花動橋小松本折白山吉岡剱を通過し矢作に宿り、今宵は矢作

の里といへる所に宿りけるに暁の月をながめて 「こよひしも矢はぎの里にゐて

ぞ見る夏も末なる弓張の月。」 藤岡諏訪神社境内

4

 野々市を通過せられ、野々市の活気に満ちた村人を讃え廻国雑記に京の都に劣

らぬ繁栄と活気あふれる多く人が行きかい仕事に励む街の姿を讃え 「風おくる

一村雨に虹きえてのの市人はたちもをやまず。」 布市神社境内

 

○ 弁慶の力石

 この石は文治二年(一、一八六)三月三日源義経が北陸路を潜行した時、武蔵坊

弁慶が富樫館を訪ねて勧進を乞い弁慶が延暦寺に伝わる延年の舞を披露し、弁慶

が力持ちの曲技を演じ泰家の縦覧に供した。この石を投げた日照が続いたときこ

の石をかづき回ったところ雨が降り雨乞石と呼ぶようになった。照日八幡神社に

移されたが大正三年(一、九一四)十一月同神社合祀のとき富樫郷住吉神社に移し

た。

 

 

○ 観音堂

5

 観音堂は一日市町ラ一五二(現本町二丁目九‐一四笠間氏宅)に鎮座されていた

が明治維新に廃佛の余波を受けて廃止となり本堂を布市神社境内に移した。

 

○ 稲荷社

 稲荷社二社鎮座され向って右側は旧西町(現本町四丁目)照日八幡神社に鎮座さ

れていた。

 左側は旧荒町(現本町一丁目)外守八幡神社に鎮座されていた。二社とも大正三

年(一、九一四)十一月富樫郷住吉神社に合祀された。

 

○ 忠魂碑

 明治四十三年(一、九一〇)五月二十九日建立された。日清戦役(明治二十七年)

日露戦役(明治三十八年)大東亜戦役に従軍され、戦死されました方々の英霊を祀

られています。

 明治四十一年十一月八日總会を開き全員一致で可決決定されました。委員の木

戸惣太郎氏伊藤孫太郎氏喜多直次氏等は石材購入に上京し、在京都木戸典三郎氏

の周施により、京都内田石材店と契約大阪市西区今木町柏原市太郎石材店より小

豆島産花崗岩を購入し大阪駅より松任まで六トン貨車で運び、松任駅より野々市

まで運ぶ車がなく村民總出で北国街道沿いに木呂を置き、石を引きずり二日間か

けてようやく富樫郷住吉神社まで運んだ。村民の方々の苦労が記録されています。

 明治四十二年一月二十三日起工式

6

 明治四十二年三月二十四日題字揮毫金沢聯隊区司令官總理大臣兼内務大臣 元

帥公爵 山形有朋閣下

 題字彫刻金沢石工飯田庄三郎氏

 明治四十三年五月二十九日除幕式が行なわれた 関係者多数参加された

 野々市村立在郷軍人団理事長 瀬尾爾郎氏

 野々市村立在郷軍人団長 釜吉三郎氏

 野々市村立在郷軍人団員 稲坂清八氏

 忠魂碑建立について野々市村立在郷軍人の方村民の方々の協力と歩兵中尉釜吉

三郎氏の功績を讃えたいと思います。

 忠魂碑の土は高尾城より購入

 

○ 外守(そでもり)八幡神社

 祭神は応仁天皇菅原道真公の二柱の神は旧荒町の鎮守外守八幡神社で文化の頃

七宮の一つであった。

 天満宮の祭神菅原道真公と併合した社である。その後大正三年十一月(一、九

一四)富樫郷住吉神社に合祀して布市神社に改められた。

 応仁天皇を祀れる八幡宮は何処に鎮座せられたか明らかでないが慶長の頃旧 

ノ三〇番地(大乗寺旧址)

 

○ 照日(てるひ)八幡神社

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 祭神は天照大御神 天児屋根命 応仁天皇の三柱

 同神社の創建は建久の頃(一、一九〇)第十三代富樫家春の観請によるものであ

る。元は西表田圃に八幡田という田地に建立されていたが(現グンゼ)天正八年ま

で鎮座給う(一、五八〇)同年にへ一一四(現本町四丁目十六‐三)川上氏宅附近一

帯に遷宮された。

 その後大正三年十一月(一、九一四)富樫郷住吉神社に合祀して布市神社に改め

られた。七宮の一つである。

 

○ 照日八幡神社石柱

 照日八幡神社の表参道は小西次郎家の向い道路が入口であり、社殿跡に石柱を

この地に残し後世に伝えんとした舘八平氏は私財を投して建立した。

 建久の頃から大正三年までおよそ七二四年旧西通り(現本町四丁目)に鎮座給う

神徳高き神霊である。

 一、明治二十五年十月吉日一柱照日八幡神社 一、大正七年十月照日八幡神社


 

○ 宮(みや)の後(うしろ)

 宮ノ後は西裏田圃にあり昔野々市七宮の内の一社の跡なりと伝わる。近くに下

り松が押野境にあり、周囲一丈余り高さ二十間の古木で、木から釣瓶が下がって

いた。大正の末期まであったが、耕地整理の際倒伐した。

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○ 白山神社

 祭神は大己貴命(おおなむちのみこと)大山祗命(おおやまづみのみこと)菊理比

咩命(きくりひめのみこと)の三柱の神霊である。永延元年(九八七)国司富樫忠頼

が高安荘野々市の總鎮守として建立した。初め北横ノ宮社地に鎮座せしに同町と

の距ること遠く、文化文政の頃今の社地に遷した。

 北横ノ宮には天狗が住んで毎夜丑の刻には天狗の奏する音楽が聞こえるといわ

れた。

 夏になると宮の前に「ホタル」をおいて夜空に舞い近郊から大勢観衆が楽しん

だ。

 

○ 光聖山 照台寺

 初め天台宗開基念和和尚親鸞聖人が越後に流罪せられた時、念和和尚が聖人を

倉部川の辺りに迎え専修念佛の要義を開いてこれに帰依し、天台宗を真宗に改宗

の開基を念和とする。

 改宗二世に至って寺号を賜る。その後寺運進展し、石川二大御坊に数えられ、

波佐谷道場と共に有名な寺である。

 享禄四年(一、五三一)と天文四年(一、五三五)の二回兵火をうける。

 親鸞聖人真宗の開基元年(一、二二四)念和和尚嘉禄二年(一、二二六)歿す現二

十六世

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 寺の境内に親鸞聖人お手植の藤がある。

  宝物

 阿弥陀如来本尊(七五センチ)阿弥陀如来の全佛(富樫氏の甲本尊) 聖徳太子木

像 親鸞聖人の自画の真影 親鸞聖人の真筆と伝えられる紺紙金泥十字の名号 

虎猫の御書 郷土相撲力士の墓 茂岩三吉 小柳安太郎 柳島小三郎

 

○ 野市山 法林寺

 真宗大谷派に属する寺院で創建は押野山太子堂上宮寺に帰属する「野々市の道

場」として元禄年間(一、六八八~一、七〇三)に建立されたと伝えられる。寛政

二年(一、七九〇)三林喜四郎の末孫である。普照庵釋義聞(ぎもん)法師 文化四

年六月五日示寂が下林の庵(現下林の定林寺)より入寺し住持となった。これより

義聞(ぎもん)の道場といわれるようになった。

 明治に至り第五世明證院釋恵燈法師大正十年二月二十二日示寂が野々市説教所

と改名した。明治十二年三月十二日

 昭和二十二年四月十一日寺号公称を受けた第八世誓聞院釋義聞法師昭和六十年

十月十六日示寂第九世三林寛氏

 

○ 隆廓寺

 真宗大谷派に属し慶応二年(一、八六六)六月羽咋郡元女村本乗寺の弟野々市に

来りて開基した寺院である。

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 明治十二年六月寺号公称の許可を受け今日に至る第三世外代子氏

 

○ 明泉山 高安軒

 高安軒は曹洞宗に属し北朝正平五年(一、三五〇)大乗寺三世明峰和尚の塔頭と

して富樫高泰の開基にかかるものである。

 天正八年(一、五八〇)柴田勝家の加賀一揆を討伐するまで二三〇年野々市大乗

寺塔頭にあったが勝家の兵焚にかかり、大乗寺と共に金沢市木ノ新保に移り二十

二年を経たる慶長六年(一、六〇一)大乗寺坂側に転じ越えて元禄十年(一、六九

七)大乗寺が野田山に移された。明治維新の変遷により野々市に移る。

 富樫忠頼卿木像 富樫忠頼卿尊位 加賀国守富樫家累代精霊尊位安置されてあ

ります。

 

○ 大乗寺跡

 弘長元年(一、二六一)第十四代富樫家尚が野々市の外守にあった泰澄大師の作

である。大日如来の大佛堂の境内に一寺を建立し、大日山大乗寺と号して真言宗

密師澄海阿闍梨を住持とした。これ野々市に於ける大乗寺の創建で現在金沢市野

田山に法燈燦として煌く曹洞宗古刹香山護国禅大乗寺の起源である。

 

○ 白山水

 大乗寺白山水と八町四方の寺領について金沢古蹟誌に「野々市ノ天満宮ノ向ウ

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ニ白山水アリ、コレ古ヘ大乗寺コレ地ニアリシ時ニ白山水也」と言う、白山から

の霊水で銘刀を鍛えたものである。現本町一丁目三四‐二〇である。喜多氏宅

 

○ 大乗寺和尚より霊骨発掘者野村松次郎氏に送りし賞状

  同氏は、大正五年(一九一六)、野々市耕地整理工事に従事中、外守旧八幡

神社畔なる旧大東寺開山塔所の地下より石櫃を発掘せり、当寺二十七世卍山禅師

が藩主前田氏に提供せし古書に記載せる三祖尊の霊骨を奉安するものなり、而し

て其尊責なる所以って聞知し舘八平氏の乞ひを容し無報砂にて分与し今日あるを

至せしもの偏に同氏発掘の功と謂うべし泂に感嘉に堪へず依って茲に賞状を呈す

 昭和二年八月二日 高安軒本寺 大東六十五世 徳翁大龍

 

名所・旧跡

○ 鍛冶屋川と一里塚

 江戸時代鍛冶屋職人が住み刀物を製作していたので鍛冶屋川と名がついた旧中

町レ八八(現本町三丁目一五‐二七)一里塚の丘の下を流れる清らかな川であった。

 

○ 道路元標

 明治六年(一、八七三)の太政管達により全国主要街道の府県庁所在地の交通の

要所に木柱を建てこの元標を起点として町内の町村に至る距離が測定され地図の

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作成等が行なわれた。現在は金沢市尾張町橋場交差点附近に石柱として設置され

ている。

 道路元標は大正八年道路法施行になり、大正九年この場所に設置する。

 

 

○ 富樫館跡

 富樫館跡記念碑は富樫歴代国守の遺徳を讃える子孫の感謝の象徴であるととも

に、いよいよ明るい町づくりを誓うわれわれ町民への無言のはげましの金字塔と

なることであります。

 新兵衛川と九艘川の間は富樫館跡である。館跡は四〇〇メートル先の住吉地内

であります。

 昭和四十二年六月一日除幕式には東京富樫晴貞の末裔冨樫一恵(主計)様参加さ

れました。

 

 

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○ 富樫館跡 和鏡出土

 住吉地内で加賀国守富樫氏の館を取り囲む堀跡を発見しました。平安時代から

加賀を代表する有力な武士で南北朝時代守護に任命されるや、野々市に広大な舘

を構え加賀の国を治めていました。

 この館は、これまで絵図や文献によって伝えられていましたが調査により富樫

館の存在が明らかにされました。発見場所住吉町二三番二号調査面積は約三百平

方メートル南北に走っており、上幅五メートル下幅一メートル深さ二,五メート

ル薬研堀と呼ばれています。富樫氏が有力武士であったことを物語る「和鏡」が

出土しました。直径五,五センチ厚さ三ミリ遺物としては珍しく中心に「亀」そ

の上に向き合うようにして二羽の「鳥」が描かれ、その周りは樹木の葉で飾られ

ています。

 「物」を写す出す道具として祭祀で多く使われました。この鏡は堀の中から出

土しており、化粧をするために使っていたものを捨てたのか、あるいは祭祀とし

て意図的に投げ込んだのか、大変興味深いことですが今後の研究を待たねばなり

ません。

 そのほか珠洲焼 越前焼 瀬戸焼などの陶器をはじめ中国で焼かれた碗や皿な

どが多数出土し、各地との交流が盛んであったことがうかがわれます。今回の調

査は面積は狭いものの富樫氏の実態をつかむうえで大変重要な発見となりました。

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○ 延命子安地蔵菩薩

 昔行基菩薩が北陸路を巡錫の折、今の石浦神社(当地長谷寺滋光院)霊告により

一刀三礼して刻まれたという石佛である第四十五代聖武天皇(七三四)の頃である。

明治維新の廃佛の余波により藤村理平氏堀禄宣氏ら長谷寺滋光院に墾請してこの

霊佛を受けて野々市中央曲り角に奉迎してお祀りした。明治八年(一、八七五)三

体のうち一体は伏見寺一体は法隆寺へ

  十一面観音菩薩は奈良の法隆寺へ安置

  不動明王は金沢の寺町伏見寺へ安置

 

○ 参勤交代時の御小休所 明治天皇行幸御小休所跡

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 藤村理平家跡一日市町ラ一五〇(現本町二丁目一七-二一)田村氏宅藤村家は徳

川時代の末文化文政の頃より加賀藩主前田家の御用調達に寄与し帯刀を許された。

加賀藩主参勤交代の往復の途は必ず御小休所となった。

 明治十一年十一月五日明治天皇北陸巡行の時御小休所となった。

 

○ 馬市跡

 馬市は年に四回産土神の春秋の祭礼と並ぶ年中行事の一つであり、その賑わい

は古く野々市を物語っている。

 馬市の歴史は富樫時代の文正元年(一、四六六)頃には野々市に馬市があったこ

とが見える。古くは富樫館近くの馬替神社で開かれたが前田藩の時代から住吉宮

(現布市神社内)に移された。明治時代以降に村の中央の瀬尾・駒井両家の庭で行

なわれるようになった。藩政当時は毎年三月四月五月九月二十日から数日間にわ

たり開かれた。

 馬市には藩から奉行・十村・馬役などが出張し、領内の各地から集った博労や

百姓達の売り買ひの声が二才駒・三才駒のいななきと混じりあって住吉宮社頭を

賑わし村の収入を潤していたが大正六年(一、九一七)法律により廃止された。

 

○ 力石公園

 源義経は北陸潜行の折武蔵坊弁慶を野々市の富樫館へ遺し勧進を乞いました。

このとき武蔵坊弁慶は余興に大石を持ち曲技をして館より投げ捨てました。その

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石の落ちた所がこの地であると伝えられています。

 その後照日八幡神社に移されましたが大正三年十一月富樫郷住吉神社に合祀の

際移されました。

 この西裏田圃に宮ノ後の地名が残り昔野々市七宮の内の一社の跡なりと伝わる。

 

○ 水毛生家

 

 水毛生家は当地でも名門の家柄である。

 この水毛生家は変った苗字である。これは祖先と縁のある「瀬尾」から生まれ

たという意味である。

 「瀬」の「シ」さんずいは水に通じ「尾」の一部を取り出す「尸」と「毛」と

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なる。そして「生まれた」「生」を組み合わせて水毛生となったのである。この

苗字は明治五年に付けられた。

 長享二年(一、四八八)六月政親は一向一揆に滅ぼされ高尾城で自刃した。悲

劇の武将である彼は最後に臨んで重臣山川三河守の妻に三才になる実娘と十才の

三河の二男を託してこの子らに子孫を残してほしいと遺言して城から落してやっ

た。三河守の妻は二人の遺児を連れて山深い坪野の里にかくれ住んだ。

 そのうち世情が安定したので天正十五年(一、五八七)二人の遺児の子孫たちが

かつての祖先が住んだ野々市に移り伊右衛門と改めたのが三毛生家の初代である。

二代の伊右衛門は肝煎を命ぜられた。

 慶長十九年(一、六一四)前田藩は野々市の地前間二千五百五十間(約四町)奥

行十五間ヲ賜ヒ宿場とした それより歴代この宿場の豪家として窮民を救った歴

史がある。同家の屋敷地は間口十五間奥行二十二間あり裏道に通じている。

 寛永二年(一、六三五)に大飢饉があった時「米」を放出した。第二代伊右衛門

 第九代から第十二代まで「米」を放出した。代々当主は文化人として活躍され

た。

 浄土真宗の尼御講の頭をつとめられた。当家には本願寺十三代宣如上人消息が

伝わる。

 安政の頃より寺小屋教育をし自ら教鞭をとって教えた。

 明治六年(一、八七三)七月学校令の施行と共に寺子屋教育を廃止し、三毛生伊

余門氏宅を野々市村落野々市小学校の女子部として義務的教育を行った。

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 文久三年(一、八六三)より蚕糸改良に盡力し桑畠一万餘株を分けた管内蚕業の

奨励につとめた。

 太平寺村に於て北陸蚕糸会社を作り村民の救済に当たった。白山神社に恩徳碑

がある(太平寺)藍綬褒章を賜わった。

 天正三年(一、五八五)佐々成政を討伐のため越中に向かう豊臣秀吉を迎えるた

め、加賀藩主前田利家が三毛生家に立ち寄り庭にあった大杉に馬をつないだとい

う。

 元和二年(一、六一六)三月二十五日前田利常が遠出の際当家で休憩した。その

時馬をつないだとされる「馬つなぎの杉」が残念ながら立枯れた。

 安政元年(一、八五四)三毛生伊余門は富樫館跡地が荒廃の原野になっていた地

を(住吉町)私財を投じて十数年にわたり十数町歩を開墾した。その地を村民に与

えて償を求めなかった。

 明治二十二年(一、八八九)冨樫館の跡を後世に伝えるため布市神社境内に富樫

氏先業碑を建てその偉業を後世に伝えんとした。三毛生伊作氏は東京帝国大学校

を大正十年三月(一、九二一)卒業された。

 宝物

 本願寺十三代宣如上人消息

 富樫氏甲本尊

 富樫晴貞の馬の絵

  太平寺 白山神社境内

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 恩徳碑

 

○ 富樫家国銅像 彫刻家 米林勝二氏 本町五丁目文化会館

 

 富樫氏の始祖は鎮守府将軍藤原利仁であり、曽孫加賀介忠頼が永延元年(九八

七)加賀の国司に任ぜられ、この町に住してその基礎を固め仁政を施し、その子

孫は在庁官人として国務を執った。

 野々市の地に初めて居館を構えたのは平安後期の富樫介家国の時代という。

 以来富樫氏は伏見川流域周辺を基盤に勢力を拡げ、加賀の代表的武士団に発展

した。南北朝室町期には富樫介高家らが守護職を歴任し、加賀の要衝であった野

々市に政治支配の拠点である守護所が置かれた。歌舞伎「勧進帳」で有名な安宅

関守、富樫左衛門尉は仁情ある武将としいて名高く、郷土の民謡「野々市じょん

から」も富樫氏の善政を称えて今にうたいつがれている。

 長享二年(一、四八八)守護政親は一向一揆によって自害し、泰高が守護の地位

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についた。

 野々市は中世における加賀の政治・経済・文化の中心として大いに繁栄し、か

つて当地に所在した大乗寺は、富樫一族の外護により曹洞宗の要地として発展し

た。

 ここに、加賀国の名門富樫氏の歴史と伝承を顕彰して、当地ゆかりの家国公の

銅像を建立し、その歴史的遺産を永く後世に伝えんとするものである。昭和六十

三年七月一日建立

 像高二、八九〇 巾一、〇八 厚さ七八〇

 台座一、〇〇〇 巾三、八〇〇 厚さ一、四〇〇

 

○ 天満宮

  天満宮は旧中町社名不明の宮一社 照台寺南方表田圃御米供田にあったと伝

える。

 ○ 河合口(川合口ともいう)

 石川郡河合村(現鳥越村河合)に河合藤左衛門宣久(のぶひさ)が河合村より林氏

領と富樫氏領を通る重要な道路であった。世の人は河合口と呼ぶようになった。

一向一揆の指導者となって戦った。

 

○ 六郎口

  富樫氏の同族で林六郎光明の領域で六郎光明は日ノ御子知気寺辺に館をかま

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えていたそうで野々市にある富樫氏林氏との重要な交通路の出入口であったので

世の人は六郎口と称したのである。

 知気寺には六郎館址があり、日ノ御子に六郎畑というところあり、いづれも林

六郎の遺跡である。林六郎光明は寿永二年(一、一八三)富樫泰家に従い越前三條

野で平軍と戦い斉藤実盛のため陣歿した人である。(片山津首洗池あり)

 

○ 夏の水

  夏(げ)の水は旧荒町ノ四二(本町一丁目一六‐四)木津春雄方に「夏の水」と

いう清水が沸き出た。同家は代々茶店を営み夏期になると野々市名物の白瓜・西

瓜をこの夏ノ水に浸し客の観賞を得た。この水は手足を洗い置けば年中「ひび」

や「あかきれ」にならなかった。明治時代末期に至り噴出を見ず名物の「夏の水」

が出なくなった。

 

○ 常夜燈

 布市神社表参道に二重屋根の献燈一基あり、石積みの古いものであり、年代不

詳富樫郷住吉神社創建当時のものと思われる調査を待つ。その近くに常夜燈二基

あり、嘉永二年(一、八四九)五月建之と見える。

 石工大阪長堀江戸屋七兵衛とあり、大阪港から大野港を経て九艘川水駅まで運

んだものと思われる。

 

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○ 松金電車

 乗物交通機間として北国街道(本町通り)を馬車鉄道が明治三十七年(一、九〇

四)に開通した。松任町八ツ矢より金沢市野町四丁目の区間であった。大正五年

 廃止となった。

 大正五年(一、九一六)電気鉄道が松任町八ツ矢より金沢市野町四丁目開通した。

電車道はサカサマ川に沿って通っていた。西野々市停留所は本町四丁目一‐三二

 中野々市停留所は本町一丁目三九‐二西尾敏外氏前 野々市駅は石川總線と合

流したところで左側が停留所であった。石川總線電車は鶴来町一の宮~野町間で

ある。

 昭和三十年(一、九五五)十一月十五日廃止となり、バス交通に移る。

 

○九艘川

 九艘川は扇が丘附近を流れる野々市の水駅であった。九艘の舟を常備して石炭

・塩の外生活物資を運ぶ重要な水駅であったことがわかる。鶴来方面への物資を

運ぶ中継所ともいえる。

 上流の額乙丸に枝川が碇河という川があり古へ唐舟が碇を下ろしたので碇川と

名が付いたといわれています。

 大野川から二万堂を舟で野々市の水駅に着き上流の鶴来方面へ生活物資の重要

河川である。

 

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○ 新屋敷

 江戸時代まで野々市は西通りの木呂川まで家が建っていた。明治四年(一、八

七一)以降に徐々に分家の家が建つようになったので新屋敷と呼ぶようになった。

 木呂川誌に「荷売り屋」といって食事が出来て小休憩出来る店が賑わい村の端

(ハナ)木呂川の横にあって「端(ハナ)の茶屋」と世の人はよんだ。魚住弥右衛門

である。大正八年現在の本町三丁目一九‐二七に移る。先祖の商標を今に伝える。

 この地に嶋田士納が履物雑貨店として移る。

 これまで交通機関がない時代で京都方面へ旅する人は歩いて行く。家族が「端

ノ茶屋」まで見送り達者でなあ・・・と無事を祈り別れた場所でもあった。明治

三十一年四月北陸線の鉄道開通に伴い世は一変した。

 

○ 五智大乗院

 大森玄衆さんは「野々市町の発展は富樫氏を抜きにして語れない。」富樫一族

の菩薩寺として供養してもいくのも私の使命と昭和六十三年に寺院を建立された。

 大森玄宗さんは縁あって医王山寺の井上貴?(キオウ)住職との出会いがあった。

そして天台宗の住職の資格をとり富樫一族の菩薩を弔うため野々市町在住の故人

押田三次郎さんと建立にこぎつけた。

 第二十四代富樫政親が文武両道にかけたとされることから四天王のうち広目天

の佛像を奉っている。

 政親の命日の六月九日には「大明寺院運明大居士」の位はいを前に富樫郷奉賛

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会の方、近所のお世話する方々が集り、盛大に法要が営まれます。

 

○ 無縁塚と馬頭観音

 昭和三十五年に東和織物工場が本町一丁目からこの地に移り建設された。全国

から若い女性が働きにきていた。その頃に交通事故があり、七人が「けが」をし

たり、労災事故など相次いだ。

 この付近一帯は富樫氏の菩提寺跡とも一説には刑場跡ともいわれる伝承があっ

た。鶴来街道拡張の折には地中から墓、人骨など出土があり、街道沿いに松を植

えお墓、石などまとめて無縁塚として法要し供養した。

 大森玄衆さんは無縁塚近くに馬頭観音を奉って弔うた。それ以来災害もなく、

馬頭観音の五利益に感謝して手を合わせる人々が多い。

 

○ 野々市放送所

 昭和五年四月十五日金沢放送局野々市放送所開設された。

 初代町長舘惣次郎氏は金沢放送局野々市放送所開設に盡力された。始め放送出

力三粁ワットであったが同二十二年八月第二放送が増設せられ、両放送十粁ワッ

トとなる。放送所のある町は将来発展することを舘惣次郎町長は信じていた。加

賀平野の大空に向かってアンテナが二基そびえ立つ野々市町の誇りである。

 

○ 農事社跡

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 農事社は明治九年(一、八七六)旧加賀藩士杉江秀直が創立し、近郷の篤農家を

集めて田地の区画整理、農具の改良など教導した所で当地に於ける洋式農業の発

祥地である。

 明治三十年(一、八八七)この農事社を石川県模範農場と改名し渡辺譲三郎氏を

議長とした。本県の耕地整理は全国最初であり、安原村高田久兵衛もこの農事社

で学んだ。

 

○ 詮議場跡

 大正時代までヘ二番地(現在本町四丁目十二‐三)に舘三郎平衛という家があっ

た(みりん醸造店経営)

 歴代新田裁許の職を勤めた家柄で、藩政時代には此附近の村落に犯罪のある時

は、金沢より改方出張して詮議取調をなしたるものである。

 

○ 小武僧橋

 野々市と押野丸木との境を流れる境川にある橋で昔旅人の小武僧が何人かに殺

害せられた所である。

 

 ○ 木呂川

 野々市の歴史として最も古く見えるのは菅原道真公が或時神を祈って越洲社に

向う時加賀野々市を通過され、その時土地の風光を眺めて疲驂嘶二布水一という

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詩をつくられたと伝えられます。(布水イナナク)三州志故墟考記文

 元慶七年(八八三)菅原道真公は加賀権守に任じられ仁和二年まで四年間勤めら

れた。

 それから菅公布水川と世の人は呼ぶようになった。その後加賀藩政時代に前田

藩が松樹の伐採を厳禁したため町の燃料が不足して困ったので藩がこれを補給策

として白山々麓の山野木材を倒筏し、旧暦の十月から十二月にかけて冬降雪期を

利用して中宮村より「イカダ」にして手取川より富樫用水の木呂川に流したもの

である。

 

○ 貯木場

 貯木場又は木呂場揚げともいう。「イカダ」の木材を木呂川に流したものを現

本町四丁目十二‐二嶋田良三氏の上流に高堤を築き約五、〇〇〇坪の貯木池を構

成して土場揚げに集積し、木呂を積み上げた。この木呂を一メートル(三尺)程に

切り乾燥させ北国街道を通り加賀藩へ納入した。この頃から菅公布水川の名が木

呂川と世の人は呼ぶようになり重要な河川であった。

○ 水車のはじまり

 木呂川の水を利用して水車をつくり種油・製粉など製造する作業場とした。野

々市の水車のはじまりである。

 その後精米場として酒造米の製米を舘八平氏・喜多直次氏・舘三郎兵衛氏らの

作業場であった。

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 この清らかな川水を酒造り、生活用水として活用した。酒屋の作業人夫が朱塗

りの桶を天ピン棒を担ぎ列をつくって川水を運んだものである。

 水車の作業歌

  はなのあらまち・ちよいとしんまち・かが一日市・なかまち・六日町

  七ツ屋が・なんとかか・あとの一町は・木呂が出る 繁昌・・・繁昌

 

○ 鎮火祈願の祠

 明治二十四年(一、八九一)二月二十二日深夜旧西町へ一四番地(現本町四丁目

一四‐七)附近から火災が発生し折柄の暴風のため延焼し一帯火の海となり旧六

日町(現本町三丁目)と二町合せて一五〇戸焼失した。早速この地に祠を安置して

鎮火祭を行ひ布市神社に於て鎮火祭執行する。毎年二月二十日鎮火祭執行して

「火の要心」のお礼を消防組が全戸に配布していた。

 昭和三十年四月町村合併後に廃止となった。それ以降も所有者が変っても今日

まで毎日祠にお水をお供している。山田氏

 

○ 野々市消防組

 明治二十四年(一、八九一)四月私立丸藤組(藤村氏)を組織せり、その後野々市

消防組が結成され、手押しポンプを購入本町一丁目(旧荒町)源野一弥氏前 本町

三丁目(旧中町旧役場前)現児童館 本町四丁目(旧西町)庄田憲司宅前三ヵ所に常

備とした。その後消防自動車購入して県下消防自動車第一号ナンバとなる。

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○ 野々市町郷土資料館

 野々市町郷土資料館は現松任市村井町に安政年間(一、八五四~一、八五九)に

建造された農村の商家で表構えは町屋間取りと構造は農家という複合建築物です。

 現在は「旧魚住家住宅」として町指定文化財となり、今もそのただずまいを残

しています。

 私達が日常生活に使用していた器具や道具は昔と比べて変化しています。その

ため民具の名称や使用方法が忘れられようとしています。

 当時の人々の暮らしの様子を伝えるために資料館ではこのような農具や民具を

楽しみながら知っていただけるよう展示しています。

 

○ 喜多家住宅(重要文化財)

 喜多家はもと高崎姓を名乗った福井藩の武士で一、六八六年貞享(じょうきゅ

う)三年に縁を離れ、野々市に居住することになりました。

 代々油屋治兵衛として、その名が知られ、幕末から酒造りを営みました。明治

二十四年(一、八九一)野々市の大火で建物の一部焼失したので、現在の主屋は金

澤市材木町の醤油屋の建物を買い求めて移築したものです。

 住宅は間口七間半、奥行き七間二階建ての大きな町屋です。正面の細い縦格子

となる木むしこ、と「さがり」といわれる小庇(ひさし)の板壁、二階の両脇にみ

られる袖壁、そして内部の土間の吹き抜けに縦横に架けられた梁組(はりくみ)な

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ど典型的な加賀の町屋形式を示しています。

 

○ 御倉敷

  御倉敷は、富樫氏所有の御倉の跡で天正八年(一五八〇)柴田勝家の火攻の

後、其の敷地に青竹を生え茂りて一大竹薮と化した。士人これを御屋敷と云い、

爾後相伝えて今に及んだ。

 

○ 山川氏

  荒田町新町(本町二丁目)東田圃の山川は、富樫氏累代の家宰山川氏の出第

の迹で、文明年中三河守が連歌の宗匠飯尾宗紙を招いて連歌を相唱和した所であ

る。

  この山川氏は、富樫繁家の後胤で其の本第を今の内川村字山川に置いた。富

樫氏に仕えた。

○藤村理平氏の頌徳(しょうとく)碑 六郎公園内

  藤村家は源平時代・平家の落武者か、或は源氏の残党か定まらず藤原氏の裔

 とも思われるふしもある。只吉野朝時代に於て勤王の軍に従って皇室に忠勤を

励んだことは藤村家の家憲に無言の伝統として残り血より血に流れていることか

ら疑いない。

 足利時代となって加賀国司富樫氏野々市館に仕えてその家老職たりしが政親と

本願寺派一揆に敗亡するや土民となって帰農し、以降富樫郷の名称屋を務めた。

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 徳川時代の末、文化文政のころより加賀の城主前田家の御用調達に寄与し帯刀

を許された。

 領主参勤交代の往復の途は必ず御小休所となり、その都度厚遇したため下賜せ

られる物品多く家宝として多く蔵した。

 これまで小藤屋(ことや)理兵衛と称えたが明治維新後藤村の姓を理平と改めた。

 明治十一年(一、八七八)十月五日明治天皇御巡幸の時は御宿舎を仰せ付けられ

た。今は当時の門だけが史蹟となって残っている。

 理平氏は野々市尋常小学校を卆業すると創立間もない石川県師範学校に入学当

時の師範学校は県下の秀才が集まるエリート校であり最高学科学府の卆業者で智

職階級に属していた。

 野々市尋常小学校の校長を勤めた、後退いた理平氏は早くから関心をよせてい

た府県会規則が公布され、最初の県会議員選挙が行なわれたのは明治十二年四月

理平氏は十九才の春であった。

 県民自身によって県政を決するというわが県政史上空前の改革は青年理平氏の

感動と興奮に沸きかえさずにおらなかった。そして明治二十一年七月県会議員の

半数改選が行なわれると彼は自由党に入って石川郡から出馬し、初めて宿望を果

したのである(当時二十九才)この時の県会は自由党と高村高俊県会および与党改

進党との激しい対立から十二月に解散、翌二十二年十一月改選があった。理平は

再び当選し、その後も同二十二年八月と二十八年三月と当選を重ね、県政のよき

推進役として活躍された。

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 明治二十三年(一、八九〇)頃海防事業に賛し金壱千円也を献納して黄綬褒章を

受けられた。

 明治二十九年(一、八九六)九月から野々市村長三毛生伊余門氏の後を受けて第

三代村長に推され明治三十一年(一、八九八)十一月まで村勢の発展につくされた。

 

○ 電気の導入

 明治二十三年(一、八九〇)頃金沢の森下森八氏は東京から帰途静岡県浜松市で

電気会社の開業式に出席したことから金沢でもこの事業を起そうと決意した。親

類・知人に相談したが耳をかす者はなかったが独力でも事業を始めようと徳永文

雄氏という技術者に犀川について発電の可能性を実測させて金沢電灯会社を組織

した。

 ところが明治二十五年(一、八九二)森下家は火事で類焼した。翌年森八森下氏

は病気で入院した。長谷川准也が市営に譲渡してほしいと申し入れたので森八森

下氏も了承した。

 市議会に市営電気事業をめぐって技術上の問題で典折があったが九月これを可

決した。ところが日清戦爭がぼっ発したため政府は起債を許可しなかった。

 その後許可がおりたのは戦爭が終った、明治二十九年(一、八九六)七月その間

避病院疑獄事件があったので金沢の状況は一変していた。市議会はついに明治三

十年(一、八九七)五月民営に移管することを可決して森八森下氏に変遷された。

理平氏はかねてから森下氏と共に水力発電所計画をねっていたので発電の可能性

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を実測させ、東京三井商事の技師潮田伝五郎氏に見せたところ充分採算がもてる

と太鼓判を押されたので理平氏は計画の一切を委嘱し、明治三十年十二月資本金

二十五万円也の会社を設立し、鹿島郡中川長吉氏 羽咋郡岡野是保氏 近岡九郎

氏 金沢河瀬貫一郎氏等の協力で水力発電の認可を得て直に辰巳発電所の建設に

(二四〇kW)に乗り出した。

 会社名は金沢電気株式会社として活躍された。そして明治三十三年(一、九〇

〇)六月末に北陸の金沢に伝統が輝いた。

 伝統の数は二、二六七灯に過ぎなかった。

 しかし今まで行灯やランプの光の下に生きて来た人々には電灯は「ぜいたく」

品として敬遠され、このため経営は苦しかった。

 理平氏はこの事業の将来性を信じていた。何をおいても我が野々市に電気の導

入をせなければならないと翌明治三十四年に私財を投げうって電柱を立て電線を

引いて金沢についで野々市村に「文化の灯」が輝いた。

 当時の電球は五ショクの明るさで透明なものであった。電灯は夜だけであった。

 

○ 精米場

 電力による精米場は理平氏の手によって建設された。

 これまで木呂川の水車を利用して精米場が出来県下に普及したが種々のエピソ

ードもあった。近在の油を生産する者、油を一手に販売していた店主らの圧力が

あった。当然電灯の普及で油を生産する者油を販売する者の大痛手を受けた。そ

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のため自宅に電灯を引こうとせず多数いた出入りする人にも油を売りつけるため

電灯は引かせなかった。

 

○ 野々市郵便局開局

 明治三十六年(一、九〇三)十二月野々市村に郵便局を開局した。郵便為替貯金

業務を開始する。

 理平氏は初代野々市郵便局長に就任し活躍された。明治十一年(一、九〇八)三

月集配特定郵便局に昇格された。

○ 金沢電気ガス株式会社設立

 明治四十一年十一月から「ガス事業」と兼ね金沢電気ガス株式会社と改称し、

金沢市古道町にガス工場を設置し営業を始めた。

 大正十一年(一、九二一)市営に移管され、電気の方は辰巳のほか、福岡第一、

第二、吉原、市原の四発電所を増設した。

 

○ 金沢常設活動写真館開店

 大正二年(一、九一三)十月末日には金沢香林坊下の花屋敷入り口に金沢常設活

動写真館菊水倶楽部の経営に乗り出した。新築オープンには第四高等学校生徒や

勤め帰りのサラリーマンで開場前から列が出来る上々のすべり出しで沸き返った。

藤村理平氏は教育、政治、公共事業等に尽力をつくされ、その功績を徳望とを敬

慕し、野々市小学校々庭に昭和十年(一、九三五)十一月藤村理平氏の銅像を建立

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した。その後大東亜戦の時銅像が応召された。

 

 

○ 富樫氏滅亡後の野々市

 長享二年(一、四八八)六月の一向一揆後の予震が長引き八十二年目の元亀元年

(一、五七〇)五月織田信長により野々市舘・大乗寺など焼かれた。その後十年経

たる天正八年(一、五八〇)三月再び織田信長の命により柴田勝家は野々市を攻め

野々市は全面火の海と化した。三回に亘り戦火にあい古来の建物・宝物・古記録

など焼かれ、武家・諸坊は他国へ逃げた。僅かに土着の百姓のみが残った有様で

ある。

 そして野々市は一向宗徒の治下にあった。

 天正十一年(一、五八三)前田加賀藩治となって以降の野々市はもはや政治・文

化の中心を離れ、流石往昔の盛運を偲ばせて郡内第一の大高持であったが、北陸

道の一宿駅に過ぎぬ存在となった。これまで政治・文化・宗教の中心として富樫

氏領主の存在地として高い誇りと教養を持つ加賀国府であった。

 

○ 北国街道の宿駅

 村は慶長の初期より漸次北国街道を形成したので宿駅の観を留め、慶長十九年

(一、六一四)に大筋西町通りの端(はな)の木呂川橋詰(嶋田良三宅)より一、千二

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百五十間前口と奥行き十五間を加賀藩から無税として与えられ、宿駅となった。

 駅馬七十三頭と駅夫二百十人を置き、着荷の際には駅馬役人を徹用として逓駅

に服しせめた。

 これが伝馬問屋が始まったのである。伝馬問屋の場所は布市神社前の南側西詰

であった。

 藩政期の住居は広い家をつくることを禁じられていた。家屋の横に土蔵を建て

たのは、藩政期末から明治期頃でなかろうか

 家屋に細い縦格子となる「木むしこ」と「さがり」いわれる小庇(ひさし)の板

壁があり、城下町のただずまいを今に残してあります。

 北国街道の町並みは他村には見られない、大切に保存しなければならないと思

います。

 

 

冨樫氏と大乗寺

 弘長元年(一、二六一)第十四代冨樫家尚が野々市の外守にあった泰澄大師の作

である大日如来の大佛堂の境内に一寺を建立し、大日山大乗寺と号して真言宗密

師澄海阿闍梨を聘して住持とした。是れ野々市に於ける大乗寺の創建で現在金沢

市城南野田山に法燈として曹洞宗古刹東香山御國禅大乗寺の起源である。

 

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 長享二年(一、四八八)一向一揆が冨樫政親を亡くしてより、不幸野々市は戦乱

相つぎ、遂に戦禍大乗寺に及んだ。元亀元年(一、五七〇)冨樫晴貞を追撃した時、

大乗寺は全く焼焚され、住持雲窓祐輔は、その余燼を収捨して承天寺を仮りに大

乗寺として、法燈を挑けしも、十年を経たる大正八年(一、五八〇)柴田勝家が一

揆を掃討した時、承天なる大乗寺も燔燼の厄に遭い、澄海以来三百年の大乗寺も

ここに潰滅に歸した。その時の住持は虎室春策第十四世であった。

 元亀・天正と丘焚にあい土冦に蹂躙され、亦三百年の外護の冨樫氏を失い気息

奄々たる大乗寺を痛歎した金沢の藩士加藤重廉氏は木ノ新保にある邸を提供し、

私財を損して大乗寺とした。ここに大乗寺は開剏以来三百二十年曹洞興隆名匠育

成の歴史ある野々市の地を去ったのである。

 加藤重廉は、加賀藩の重臣で始め六千俵を賜ったが後五百石を加えられた藩主

である。此の加藤氏の援護に依る大乗寺再興の年月は天正の末期(一、五九一)か

文禄の初期(一、五九五)でなかろうかとのことである。

 この大乗寺が野々市の何れの辺にあったかと謂うに、今その全域を詳にするこ

とは出来ないが、開山塔所が野々市町ノ三十番地即ち旧荒町(現本町一丁目)の八

幡神社址であることは明瞭で野々市町ム四十八番地に現存する白山水は同寺境内

にあったことは明瞭であるから これを基点として、考察すれば、この附近八町

四方は大乗寺遺址であったようである。

 これ等の史実を綜合し大乗寺境内西北隅にある徹通和尚の塔司は旧荒町八幡宮

の境内なること最早疑うの余地はない。同社が大正三年(一、九一四)布市神社に

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合祀したる後大正五年(一、九一六)其の社地を耕地整理開拓した時野々市の住人

野村松太郎氏が地下約六尺のところから石櫃一個を発掘した。これを当時野々市

に在りし考古家舘八平氏請うて識者に鑑したるところ上文記載の如く所謂三祖の

霊骨であるとのことであった徹通が入寂してから六百余年を経て発見したことは

甚だ奇蹟と云うべきである。

 この霊骨を昭和二年(一、九二七)舘残翁(八平)氏は木村次作氏と図り高安軒再

建して安置した。

 

 大乗寺和尚より霊骨発掘者野村松太郎氏に贈りし賞状

 同氏ハ大正五年野々市耕地整理工事ニ従事中字外守旧八幡神社畔ナル旧大乗寺

開山塔所ノ下ヨリ石櫃ヲ発掘セリ之レ当寺二十七世卍山禅師ガ藩主前田氏ニ提供

セシ古書ニ記載セル三祖尊ノ霊骨ヲ奉安スルモノナリ而シテ其ノ尊貴ナル所以ヲ

関知シ舘八平氏ノ乞ヒヲ容し無報砂ニテ分与シ今日アルヲ致セシモノ●ニ同氏発

掘ノ功ト謂フベシ洵ニ感嘉ニ堪ヘズ依テ茲ニ賞状ヲ呈ス

 昭和二年八月二日

 高安軒本寺

 大乗六十五世 徳翁大龍

 

 以上の史実等に依り大乗寺址が当町ノ三十番地旧荒町鎮守宮跡及び当町ム四十

八番地、白山水を中心に 八町四方同寺領であったことが窺はれる。大乗寺野々

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市より木ノ新保に移り加藤重廉氏下邸に寺運を紹じに至ったが、慶長四年金沢城

外濠修築の為め藩主より石浦郷に地を賜り本多氏邸上屋敷に移った。その後幾何

もなく此地高山南坊(高山長房ノ事也)に賜ったので、更に石浦郷本多下屋敷に移

った。(現在県立工業高校)これは慶長六年で十五世謙室和尚(慶長六年十月入寂)

の時である。

 其後大乗寺は十数世を経た卍山和尚の時、即ち元禄八年(一、六九五)(卍山和

尚第二十七世也)今の野田山に(当時寺地)移転し、佛堂伽藍建てその完成は元禄

十年(一、六九七)八月十三日であった。この時藩主より拝領した寺地は五千百四

十三坪である。爾来数十世を経て第六十七世清水浩龍和尚に至った。

 冨樫家尚が大乗寺を建立し法護を宇内に流布したことは、普通の國主大名が単

に祖先の宴福を祈る為めのそれと趣きを異にし、実に國家社会の為め開剏したも

ので、徹通傘下に在った螢山は、後醍醐天皇の勅問に答へ曹洞の要義を明かにし、

後も常済大師の称号を拝し、明峰素哲は護良親王の勅を奉して越中にて其の主事

に努め大智は西陣の一角に孤立尊皇を絶唱した菊池武光一門の純忠至烈を陶冶し、

通幻は彼の大楠公の季子 傑堂能勝に法義を薫陶し何れも建武の大業を擁護した。

その他の名僧も四方に行脚して佛道普及に努め社会に貢献する所多かった。野々

市町小史より  野々市町本町四丁目十二‐二 嶋田良三

 

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野々市町位川町

池上白山神社境内御手水池

 

 大乗寺第三世明峰素哲の葬儀を行うにあたり白山権現の影向あり、白山権現が

手を清められた池として村人は大切に守っている。 正平五年(一、三五〇)

 

 

 

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本町一丁目 高安軒

 

太平寺

 

あとがき

 野々市は中世には加賀の中心部の市場集落地であった。南北朝時代から戰国時

代にかけて守護富樫氏がこの地に国庁を置き加賀国の政治の支配の拠点として繁

栄した。当地の豊な歴史が息づいていることを忘れることが出来ません。資料の

収集には先人が残された大切な遺産を本町の調査研究を行ひ郷土を愛する野々市

町に住むみなさまに多くの歴史を語り後世に伝えることが出来ますよう努力いた

しました。

 執筆にあたり石川県史・野々市町小史を参考にいたしました。

 

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 野々市町本町四丁目十二‐二 嶋田良三

 

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独学・ふるさとの歴史研究