野々市の歴史として最も古く見えるのは、菅原道真公が或る時神を祈って越洲社に向かう時、野々市を通過せられ、土地の風光を眺められ「疲驂嘶布水」と謂う詩を作られたと伝えられる一事である。
これが最も古い歴史かと思われる。
菅原道真公は、元慶七年(八八三)加賀権守に任ぜられ、仁和二年まで四年間勤められたが、加賀は赴任せられず介をして国務にあたらしめたのである。その任期中、神を祈って加賀へ下向せられ、野々市を通過せられたものと察せられる。
野々市町の区画及び名称の変更
地方自治法(昭和二十二年法律第六七号)第二六〇一号一項の規定に基づき、昭和三十九年五月一日から石川軍野々市町の区域及び名称を変更する。
野々市本町は、産物の市が一日と六日に開かれたので一日市町とし六日町と名付けられた。その中の町は中町となった。
六日町の西端に出来た町は西町とし、北方に七軒あったので七ツ屋と呼び、一日市の北に出来た町は新町となり、次に出来た町は荒町と名付けられた。
長亨・元亀・天正の戦に村が焼かれて、慶長の始めに出来た。四〇〇年の歴史が名称変更となった。
(新町名) (本町地区俗称)
本町一丁目 荒町
本町二丁目 新町・一日市町
本町三丁目 中町・六日町
本町四丁目 西町・七ツ屋
本町地区田地俗称九地区
西表・西裏・白毛田・狐籔・鬼箇窪・荒田町・背骨・富樫・外守 九地区と承天庵跡
本町五丁目 西表
白山町 西表
西表という田地は、西町の農家の方々の所有する土地であったが、宅地化が進み本町五丁目と白山町とに名づけら白山町
れた。倉ガ岳・白山の山が見える事から白山町と名付けられたと思われる。
本町六丁目 西裏(にしうら)
西裏という田地は、西町の農家の方々の所有する土地であったが、宅地化が進み本町六丁目と名付けられた。
若松町 西裏
この田地は西町・七ツ屋町の農家の方々の所有する土地であったが、宅地化が進み若松町と名付けられた。この地に下り松があり有名であった。神社跡・弁慶の力石跡・堂前など田地がある。
横宮町 白毛田(しらがた)
白毛田という田地は、六日町・中町の農家の所有する土地であったが、宅地化が進み横宮町と名付けられた。この地は北横ノ宮神社があり、新町氏子で鎮座されていた。毎年神社前に「ホタル」を大きな網を張って夏の夜空を楽しみ、金沢・地元から見物に賑わった。
菅原町 狐籔(きつねやぶ)
狐籔という田地は、中町・六日町の農家の所有する土地であったが、宅地化が進み菅原町と名付けられた。
元慶七年(八八三)菅原道真公が加賀下向され、野々市を通過せられた。この土地の風光を眺めて「疲驂嘶布水」という「詩」をつくられたと伝える。
菅公布水川(すがこうふすいかわ)と呼んだ。前田利常公が「薪(まき)」が不足していたため、白山中宮より木を「イカダ」にして、この川に流して野々市に土場をつくり乾燥させて金沢藩へ納入した。それから木呂川(ころがわ)と呼ぶようになった、と伝える。
布市神社の祭神九柱の内、菅原道真公を祀り学問の神様と参拝が多い。菅原町と矢作町境に諏訪の森があって富樫氏の分館があった。
住吉町 鬼箇窪(おにがくぼ)
鬼箇窪という田地は、一日市町の農家の方々の所有する田圃であったが、宅地化が進み住吉町と名付けられた。この地に住吉川が流れています。
加賀国司富樫氏の館跡があった所です。新兵衛川が流れていた。
扇が丘町 荒田町・背骨
高橋町 荒田町・背骨
荒田町・背骨という田地は、一日市町・新町・荒町の農家の方々の所有する田圃であったが、宅地化が進み、地理が扇のような町であり扇が丘町と名付けられた。
北方の地区は高橋町と名付けられた。荒川が高橋川と改められた。
生活物資を運ぶ九艘川が流れていて舟の駅に常時九艘の舟があった。
扇が丘町 富樫
富樫という田地は、一日市町の農家の方々の所有する田圃であったが、宅地化が進み扇が丘町と名付けられた。地理は扇のような町で扇が丘と名付けられた。
本町一丁目 外守
大乗寺の外守という田地は、荒町の農家の方々の所有する田圃であったが、宅地化が進み本町一丁目と名付けられた。
大乗寺の東光院・定光院・高安軒・外守八幡神社・辻の宮八幡神社跡がある。元亀元年(一五七〇)柴田勝家により寺院焼失せり。
本町一丁目 承天庵
承天庵の所有する寺院跡であったが、大乗寺が焼失により廃寺となる。本町一丁目と名付けられた。
独学・ふるさとの歴史研究