○ 馬市跡

 野々市の馬市は中世の頃富樫氏時代からあったものである。昭和六十二年から五百二十一年前の文正元年の頃野々市に馬市のあったことが見える。

 長享二年(一,四八八年)一向一揆が富樫政親を高尾城に攻めた時、その賊将笠間兵衛家次が数千の兵をつれて野々市の馬市に屯すと三州志に見えるからその当時からあったことは事実でありその規模の大きさもわかる。

 その後大正六年法律により有名な野々市の馬市も廃止せられたのである。

 この馬市に関する文書として押野村後藤家秘蔵の文書に嘉永七年安政三年に同家十世の次郎左衛門幸安氏が十村役を勤めた時藩公より

 「野々市住吉ノ宮に於ける馬市の施行の義に付きその主付十村を申付けられ同勤の者と出精す可し」とあり前田家秘蔵の文書中その当時の野々市の馬市の定書を見れば次のようであるが略す。

 馬市は遠き古えより野々市に開かれ加賀馬政の中心地たることが知られる。嘉永安政の時代には住吉ノ宮(現布市神社)境内に於いて開設し、藩の奉行を始め主付十村、御馬役御博労等出張の下に、盛大に施行せられたるものである。しかし住吉の馬市場は今の馬替村(現金沢市馬替町)で徳川時代は住吉ノ宮(現布市神社)の神域にあった。

 明治大正の頃には中町(現本町三丁目中程)瀬尾永敏氏と六日町(現本町三丁目九-十五)駒井次郎氏の両家で開かれたのである。

 富樫氏全盛時代に於ける野々市が一向一揆の戦乱により焼野原となり、その後元亀の頃の加賀一揆のため野々市の大乗寺その他が焼かれ、天正八年(一,五八〇年)柴田勝家と佐久間盛政が織田信長の命により野々市は戦場となり火攻めとなり慘々たる姿に落入った。

 住民はこのあとかたづけをしてお宮を中心に合ひ集り北国街道にそうて町並みが出来たのが慶長の初期(一,五九六年)でなかろうかと伝えられる。

 藩より北国街道筋(本町四丁目)木呂川橋爪から新町(現本町二丁目)前口千二百五十間奥行十五間の地を無税として与え、この地を宿駅となし駅馬七十三頭と役夫二百十人をおき着荷の際駅馬役夫を徴用して逓駅に服しせしめた。

 これから伝馬問屋が始まったのである。その問屋の位置は本町三丁目住吉川南側西詰であったが明治諸政の改廃と共に廃止せられた。問屋肝煎の累代氏名は明かでないが多分瀬尾家でなかろうか、しかし最末の肝煎は町屋仁左衛門であった。

 

 ○ 富樫舘跡

 富樫氏の舘址は野々市町本町二丁目東南方現在住吉町なること口碑により明瞭であるが確実に其の地点を明らかにしたものはないが住吉川上流茶毘所(墓地)より東方百間四方といい、或は高橋川東方富樫と称する地名現在扇が丘一帯なりといい、諸説いろいろあるが安政五戌午年九月(昭和六十二年より一二九年前、一八五八)森田柿園氏の実測にかかる図面によると馬替往来より東方北陸鉄道石川總線に至る間なること即ち該舘址の西南角が倉が嶽城跡岸頭午一度八分布市神社銀杏ノ木、子一度二分鬼が窪領境松、末六度四分と各自その見当を標示してある。現在の住吉町二二一番地に当るので、この地を基点として東方六十間五分北方七十間は疑いない所の舘址である。又御倉跡、御蔵薮と称する地は該舘の北方であるから前記二二一番地より北国街道に至るまでのようである。現在の地所の何処の辺に当るか測量図したもので、この範囲を以って国守富樫氏舘址の全域なりと云うことこれまで僅かに残れる土居の一部分を示したものである。この東方に一か所矢作町附近に富樫諏訪野にあり、この数倍は裕にあったものと思う。

 野々市と野々市新村(現金沢市三馬町)境に富樫分家の舘があったが大正年間の耕地整理と共に今は水田となった。

 

 ○ 大乗寺跡

 弘長元年(一,二六一年)第十四世富樫家尚が野々市村外守(現本町一丁目)にあった泰澄大師の作である。大日如来の大佛堂の境内に一寺を建立し、山号大日山大乗寺と号して真言宗密師澄海亜闇梨を招いて寺主とした。これ野々市に於ける大乗寺の創建である。

 正応二年(一,二八九年)従来の真言宗を曹洞宗に革めた。古刹東香山護国禅大乗寺の起源である。越前国永平寺の徹通を招いて第一世とした。

 元亀元年(一,五七〇年)五月賊軍富樫舘を囲みて火攻し泰俊防ぐこと出来ず弟の晴貞大乗寺に走り賊軍大乗寺を更に焼き晴貞は伝燈寺へ急送した。寺主雲窓祐補は承久寺を仮に大乗寺として法燈を続け十年を経たる天正八年(一,五八〇年)柴田勝家と佐久間盛政の加賀一揆により野々市は兵火にかかり、澄海以来三百有余年の歴史ある大乗寺は我が野々市の地を去り金沢市木ノ新保に移った。

 

 ○ 高安軒跡

 高安軒は曹洞宗に属し観応元年(一,三五〇年)大乗寺第三世明峰和尚の塔司として富樫氏第一九世昌家の弟量家(高泰とも称す)の開基にかかるものである。

 これより天正八年(一,五八〇年)三月柴田勝家の加賀一揆により兵火にかかり大乗寺と共に金沢市木ノ新保に移り二十二年を経て慶長六年(一,六〇一年)大乗寺坂側に転じ越えて元禄十年(一,六九七年)大乗寺が野田山に移された時、その門外左側の地に百五十五坪を藩主より拝領して堂を建立したが明治初年まであった明治維新の廃沸の余波を受けるに至った。観応元年(一,三五〇年)以来五百二十有餘年幾多の文献史料も文明以来の戦禍のため焼失散乱した。

 ○ 御倉籔跡

 御倉籔は富樫舘附近で富樫氏所有の御倉の跡である。天正八年(一,五八〇年)柴田勝家の兵火にあい、其の後敷地に青竹生え茂りて一大竹籔となった。住民これを御倉籔と呼ぶようになった。

 

 ○ 東光院跡

 嘉歴元年(一,三二六年)大乗寺第二世瑩山の塔司として同寺第三世明峰が建てたが大乗寺と共に移転した。野々市村ノ三十番地附近(現本町一丁目旧外守)

 

 ○ 承天庵跡

 承天庵は荒町テの部全域、丸一紡績、東和織物(現本町一丁目ニ全域)両会社移転して住宅となった。大乗寺第四世珠岩が大乗寺附近に建てたと思われる。

 

 ○ 白山水跡

 白山水は荒町ム四十八番地(現本町一丁目十九)喜多、金丸両家の境附近に白山水が湧き出ていたところである。大乗寺が野々市にあった頃同寺境内にあった有名な霊泉である。

 これは白山妙理大権現が同寺第三世明峰素哲禅師に御供水として明峰に授与せられた神授の淨水である。沸説によると白山嶺上より糖を流授せば奇なる哉、この池に淨ぶといい、妙理が寄進の水の源地は白山の無水八町の難嶮で同地の水御寄進以前は豊富であったがこのことあってから無水となったものでそれからこの地を無水八町と云う。

 銘刀の安信は文治二年(一,三五三年)生れ、越後国より野々市に住み富樫氏に仕え大乗寺の霊水白山水で、この銘刀を鍛え第十九世昌家第二十世満家の御用を勤めた。

 

 ○ 辻ノ宮八幡宮跡

 辻ノ宮は荒町田甫(現本町一丁目)にあった(社名天満宮祭神菅原道真公)

 八幡宮は何処に鎮座せられたか明らかでないが慶長の頃荒町ノ三十番地(現本町一丁目二十三)大乗寺址に遷座せられし神である。祭神は応神天皇であり神徳極めて高き旧社であった。辻ノ宮と八幡神社は併合々祀され外守八幡神社となる。

 今この地に社跡を一基残してある。

 

 ○ 外守八幡神社跡

 外守八幡神社は荒町旧外守(現本町一丁目)にあった。祭神は応神天皇菅原道真公の二柱を祀られる社である。大正三年(一,九一四年)布市神社に合祀せられた。

 

 ○ 観音堂跡

 観音堂は一日市町ラ一五二番地(現本町二丁目九-十四笠間友秋方)附近と云う。

 この一角は明治初年まで観音堂のあった地である。観音蔵の立ち給いし頃は毎年一面盛大なる祭礼を営みましたが明治維新の廃沸の余波により遂に廃止せられ、今その堂は布市神社境内に遷した。

 

 ○ 夏(げ)の水跡

 野々市町ノ四十二番地(現本町一丁目十六)木津春雄方に夏ノ水と云う清水があった。

 同家は代々茶店を営み夏期になると野々市名物の白瓜玉瓜西瓜などの野物を、この夏ノ水に浸し客の歓賞を得た。この水奇なるや毎年四月七日を期し噴出し一夏をえて止むこと源平島の夏ノ水と同じことであった。この水で手足を洗い置けば年中ひびやあかぎれにかかることないと云う。遠近より集る人が多かった。

 この霊水は明治末期に至り噴出を見ず遂に名高き夏ノ水も姿を消した。

 

 ○ 馬指跡

 馬指は一日市町ル百十六番地(現本町三丁目十二-十七内村清治方)附近にあった。住吉川布市神社向い橋南側西詰にあって駅馬時代の伝馬問屋の跡であった。

 

 ○ 一里塚跡

 藩政時代に一里塚があった、この場所は野々市中町ル八十八番地(現本町三丁目十五村田元吉方)附近にあった。鍛冶屋川橋南側西詰附近に小高い丘があって上に一本の欅の大木があり、一里塚の目しるしとしてこれを一里塚と称した。この小高い丘の廻りにあった家は山下、山佐、山口、木戸等の姓が付いたものと伝えられている。

 

 ○ 山川舘跡

 山川第址は新町東田甫(現高橋町)にあたり山川氏は富樫氏累代の家臣で文明年中(一,四七〇年)三河守が連歌の宗匠飯尾宗祇を招いて連歌を相唱和した所である。山川氏は富樫繁家の後裔で本第址は内川村山川に置き出第址を野々市に舘を構えて富樫氏に仕えたものである。

 

 ○ 外守跡

 外守と称する所は荒町西北端田甫(現本町一丁目)の一角を云う住古この地を称したもので弘長元

 年(一,二六一年)富樫家尚がこの地に大乗寺を創建するまで泰澄大師の作であった大日如来の大沸堂のあった所であり、天正八年(一,五八〇年)大乗寺が柴田勝家に焼かれ、金沢市木ノ新保に移るや一時荒地となっていたが旧外守八幡神社を遷し、その附近に一町をなした。この地を外の守りと云う。

 

 ○ 銃卒稽古(けいこ)場跡

 これは通常訓練場と云って銃砲の稽古場であった。この跡は一日市町東方(現本町二丁目)元観音堂のあった所で四八四歩の土地を費し北隅に九間に四間半の建物を設け慶応二年(一,八六六年)から明治二年(一,八六九年)まで三か年間あったと石川郡誌に見える。

 

 ○ 御鷹橋跡

 旧藩時代に藩公鷹狩りを野々市に招いて鷹狩をせられた。その橋は一日市町(現本町二町目野々市町役場附近)その時の橋より鷹を放したと云う旧野々市村立尋常小学校運動場であり今その橋はない。

 

 ○ 木村孝信の第址跡

 木村孝信の第址は一日市町(現本町二丁目野々市町役場附近)と伝えられている。孝信は信長の臣木村重成の伯父で天正の頃居住した人である。

 

 ○ 火止川、火除橋

 天明の頃に野々市に大火があったと云う。その時この川を以って火勢を止めたので、それから火止川と称した。又この川西方より山に向って流れるので住古は加賀のサカサマ川と呼んだ、世に有名な川であった。この川の橋は大除橋と名付けられた。(荒屋の大火)

 

 ○ 天満宮跡

 天満宮は中町南東(現本町三丁目)照台寺後南東にあった所である。

 

 ○ 七宮、七墓地

 元東野々市には七宮七墓地ありと称し七つの宮と七つの墓があった所である。

 七つの墓は今も現存しているが、七つの宮は

 辻の宮、八幡社 荒町(現本町一丁目)

 白山社     新町(現本町二丁目)

 住吉の宮  一日市町(現本町二丁目)

 天満宮     中町(現本町三丁目)

 照日八幡神社  西町(現本町四丁目)

 社名不明の宮 西町(現若松町)宮ノ後と云う地名がある所西裏田甫でなかろうかと伝えられている。

 現在合祀されている布市神社と白山神社の二社となった。

 

 ○ 宮ノ後跡

 宮ノ後は西裏田甫にあり(現若松町)昔野々市に七宮の内一宮の址なりと伝わる。社名は不詳である。

 

 ○ 八幡田跡

 西表田甫の八幡田は旧照日八幡神社が建久の頃(一,一九〇年)より天正の頃(一,五八〇年)までおよそ三百九十年の間ここに立たせ給える所なると伝える。

 建久の頃第十三世富樫家春始めて西表田甫八幡田に社殿を造営して祭神天照大御神、応神天皇、天児屋根命の三神を祀りて勧請したようである。今も八幡田の地名が残れり。

 

 ○ 照日八幡神社

 照日八幡神社は西通りヘ一一四番地(現本町四丁目十六-三川上方)の地え天正八年遷した。これより大正三年布市神社併合まで三百三十四年程鎮座ませし神徳高き霊神である。今この地に社跡二基残してある。舘八平氏私財投じて照日八幡神社跡の碑を建てたものである。

 

 ○ お墓跡

 お墓は一日市町(現扇が丘一-一)大日製作所附近にある。この地は元照台寺跡と思われる。お墓には光聖山墳墓とあり横には第十六世勝友とある。

 今このお墓は照台寺境内に安置されている。

 

 ○ 弁慶の石

 この石は文治二年二月二十九日(一,一八六年)富樫泰家が彼の安宅ノ関に於て弁慶の勧進帳にことよせ義経一行の潜行を通したとき義経はその答礼のため同年三月三日桃の節句野々市の富樫舘へ弁慶が勧進を乞い、弁慶が力持の曲技を演じ泰家の従覧に供した。終ってその石をかづき西裏田甫に投げたと伝えられている(力石出名録)その後何時の頃か旧照日八幡神社境内に移し大正三年神社合祀のとき富樫郷住吉神社に遷した。この石大盤若石で弁慶でなければ扱うことが出来ない石であった。

 明治維新頃まで昇天の時は西町若連中總出して野々市村内をこの石をかづき廻ったところ必ず霊異あって茲雨たちまちにしてうるほしたからこの霊石と呼んだ又雨乞石とも称した。その後幾百年の間風火震水にあい今は著しく減少している。

 

 ○ 富樫諏訪神社跡

 富樫諏訪神社は矢作堺の諏訪にあったので詳しいことは判明しないが富樫惣社として大社であったそうである。加越郷土辞彙には富樫郷住吉神社の前身でなかろうかと思われる。白山禅頂由来記に

 「富樫惣社毎年六月十八日白山禅頂朝戸開之参詣井上道者入目之日記ヲ載セテ神楽銭富樫惣社同金剱宮二百文云々」

 

 ○ 粟田ノ松跡

 亀ノ尾ノ記に「粟田ノ松相伝フ熊野ノ神木ナリトテ幣カク松ト云フ古木ニシテ雅状ナリ。この辺諏訪野山王林ナドトテ皆大社モアリシ深林ナリシト云フ」

 

 ○ 下り松跡

 下り松は西裏田甫の地押野境にあった。(現若松町)周囲一丈余り高さ二十間程の古木で大正末期頃まであったが、耕地整理の際伐採した。

 昔この木から釣瓶が下がったから、下り松と云う伝があった。又一説には西裏田甫境の地点とこの松の樹頭と水平であるから下り松と云う。

 この附近に弁慶の石があったところである。

 

 ○ 詮議場跡

 詮議場は大正末期まで野々市西通りヘ二番地(現本町四丁目十二-三)大田、粟の地に舘三郎兵衛と云う家があった。歴代新田裁許の職を勤めた家柄で藩政時代にはこの附近の村落の犯罪のある時は金沢より改方出張して詮議取調べをしたものである。

 ○ 西表田甫、西裏田甫

 昔野々市村西通りに舘清蔵と云う家があった。代々村頭の役を勤めた御扶持十村の家柄であり、その全盛時代には西通りヘ五番地(現本町四丁目十三-二十一)辰野、荒木、田圃の地を中心に西通りの大部分その屋敷であった。南側に築山ありて舘の主人山に登りて我が田甫を展望し北国街道を境に西表田甫、西裏田甫と名付けていた。今もこの名称が伝えている。

 

 ○ 南瀬戸屋、北瀬戸屋

 この屋敷の南側は南瀬戸屋は家の後背戸であり、北瀬戸屋は前門であった。

 その後背戸には築山あった、その地はヘ三十六番地(現本町四町目十五-二十)竹内の地であり、泉水のあったところはヘ三十五番地(現本町四丁目十五-二十三)行野の地であった。何時の頃から後背戸屋と前門に家が建ったか明らかでないが南北両瀬戸屋の名称が付いたのである。

 前門の前に建った家は「前田」瀬戸屋敷に建った家は「瀬戸」西裏田甫に建った家は「田圃」とそれぞれ姓が付いたものと伝えられる。

 ヘ三十五番地ヘ三十六番地ヘ四十二番地(現本町四丁目)行野、竹内、嶋田の屋敷一帯竹林があり小高い丘となっていた。その後道を高道と呼んだ。

 

 ○ 木呂場揚跡

 木呂場揚げを土場と云い、木呂を流す川を木呂川と称する。西表田甫(現本町四丁目)昔は木呂川の前は菅公布水川と呼んだ。藩政時代に松樹の代採を厳禁されたので町の燃料が不足し困って藩はこれを補給策として白山々麓の山毛﨔の密林を倒伐し三尺木呂(一メートル)として手取川より木呂川に流し、この土場に揚げて金沢に補給した。その方法は夏期に数十人山に登り密林を倒伐し手取川の水源を利用し貯水池を築き、この木呂を集めて十月下旬より十二月降雪期に至る間順次下流に流し貯水池に集材し鶴来より流し込み蔵山、林、富奥を経て野々市の土場に流し込み高さ六尺(二メートル)の柵に積上げ二、三年後に金沢に搬出した。流材は古来十年毎に行なわれた。明治二十二年(一,八八九年)大林区署の経営により施行せられたのを最終として廃止となった。

 土場は四方に高堤を築き大貯水池を構成し木呂を積上げた。その位置は西通りヘ一番地(現本町四丁目十二-二)嶋田の南後であり約五千歩程の箇所でこの地を土場と称した。

 その後木呂川の流水を利用して水車を造り精米場とした。

 木呂の出た時代に唱われた作業歌がある。

 「はなの、あらまち、ちょいと、しんまち、かか一日市、なかまち、六日町、七つ屋が なんとかか、あとの一町は、ころが出る、繁昌繁昌」

 「宿じや 宿じやと 野々市や 宿じや 長い野手を木呂かづく」

 

 ○ 九艘川

 九艘川は北陸鉄道石川總線馬替駅のすぐ近くを通る「くそう川」と云う名の川が野々市を通り流れています。この川は碇(いかり)川の枝川です。昔大野川から舟で二万堂野々市と石炭や塩、魚と生活物資を積んだ船が野々市に着き野々市から川上に送る(鶴来方面)物資を中継する港ととして常時九艘の舟を置いたもので九艘川の名が付いたといわれています。

 

 ○ 無縁塚跡

 国道一五七号鶴来線昭和九年(一,九三四年)に道路拡張工事の際地中より石の塔片を多数発掘した。この塔片の故人を知る由も無く無縁塚として保存したものである。しかし富樫時代にこの附近に○○寺があったと伝わっているから或いはその寺の墓でないかと言われている。

 

 ○ 小武僧橋

 野々市本町と押野丸木との境を流れる境川にある橋で昔旅人の小武僧が何人かに殺害せられた所である。

 

 ○ 首切場跡

 首切場は鶴来街道国道一五七号鶴来線まるより漁綱工場附近にあった。

 富樫時代に極刑者の死刑執行場であったと伝えられている。

 

 ○ 農事社跡

 農事社跡明治九年十二月(一,八七六年)旧加賀藩士杉江秀直が創立し、近郷の篤農家を集めて田地の区画整理、農具の改良など教導した所で、当地に於ける洋式農業の発祥地である。(現本町二丁目二十二)一帯旧一日市角永、野村、田多野の地

 明治二十年(一,八八七年)この農事社を石川模範農場と改名し、渡辺譲三郎を場長とした。

 本県の耕地整理は全国最初であり偉業を遺した高田久兵衛もこの農事社で学んだのである。

 

 ○ 馬つなぎの木(大杉)

 天正十三年(一,五八五年)佐々成政討伐のため越中に向かう豊臣秀吉を迎えるため、時の藩主前田利家が現本町三丁目十一-十四水毛生家に立ち寄り庭にある大杉に馬をつないだと云う。一説には秀吉の公の馬がつながれたともいわれる。

 

 ○ 定光院跡

 定光院は現本町一丁目大乗寺の塔頭で延慶二年(一,三〇九年)に大乗寺第二世の瑩山が大乗寺開山塔所として開山した。この寺は後でなくなったが大正元年(一,九一二年)明光尼が金沢の大野において開いたと云われている。

 

 ○ 六郎口

 六郎口は西表田甫(現本町五丁目白山町一帯)三納堺にあって七千五百歩程あり、ここは富奥、林、舘畑、蔵山の諸村を林郷と云い、富樫氏の同族林六郎光明の領域で光明は日ノ御子、知気寺辺に舘を構えていたそうで野々市にある富樫氏と同氏との交通路の出入口にて、ここを世人、六郎口と称したそうである。

 知気寺には六郎舘址あり、日ノ御子には六郎畑という所あり、何づれも林六郎の遺跡である。光明は寿永二年(一,一八三年)第十二世富樫泰家に従い、越前三条野で平軍と戦ひ斉藤実盛のため歿した人物である。

 

 ○ 頼次第址跡

 頼次第址は西表田甫南西(現本町五丁目一帯)太平寺境にあり頼次は一向宗徒の巨魁、頼次新左衛門の住んでいた所である。今頼次と称する所は野々市町文化会館、及び野々市小学校一帯を基点として西南太平寺までの領域であったそうである。

 古書に

 「頼次宅址ハ野々市村西表太平寺領地界ニアリ宇頼次ト称シ一小丘ヲ存ス」とあり

 又一書に「頼次宅址ハ太平寺村ニアリ今僅ニ小丘ヲ存ス頼次ハ一向宗徒ノ巨魁ト云フ」

 これ等の史料を以ってあんずるに、相当広範な領域を持ったものだろう。頼次は何んなるや判明せず、官知論にはこれを高橋新左衛門と作る。

 「長享二年(一,四八八年)本願寺賊徒ノ巨魁高橋新左衛門軍卒五千余ヲ引見シ押野山王林ニ陳スル」と見える。

 

 ○ 菩提寺跡

 菩提寺は西通りヘ一一四番地(現本町四丁目十六-三 川上作次方)附近に照日八幡神社があって、その南側附近一帯に菩提寺があったと伝えられているが詳細なことはわからない。

 

 ○ 徹通和尚茶毘のお墓

 曹洞宗太平寺の境内で大乗寺開山徹通義介和尚の灰塚であります。

 太平寺は富樫泰平の開基でもとは泰平寺と書いた。

 

 ○ 蓮花寺跡

 蓮花寺は鎌倉時代の頃真言宗蓮華寺と云う寺があった所から町名となったと思われる。

 その後浄土真宗が盛んになり大津のほうに移った。

 

 ○ 経塚跡

 昔この地に天台宗の真願寺と云う大変大きなお寺がありました。この位置は御経塚本村の北方にあり小高い丘にお経を納めた所であり、そのお経を刻んだ石塚が出てきた所から何時となしに経塚と呼ぶようになった。この丘に一本杉がありましたが近年枯死してしまい松の木と地蔵堂がまつられている。

 

 ○ 御経塚遺跡

 御経塚遺跡は、白山を源とする手取川によって形成された扇径15km展開度約一五〇度の手取扇状地北端の湧水地帯に位置しており、縄文時代後~晩期(およそ三,五〇〇~二,二〇〇年前)にかけて営まれた環状の大集落跡であり、この遺跡は昭和二十九年春に旧押野中学校生徒らによって発見され、昭和三十一年以来、昭和五十五年までに十三回にわたり発掘調査が実施されています。

 

 ○ 御手水池跡

 位川にある池上白山神社境内鳥居左側に御手水池があり、昔明峰和尚(又は徹通)と云う人がなくなり太平寺に葬った時、白山から太平寺にかけて布幅一里程の白雲が橋のようにかかり、六月と云うのに雪が降り、白山権現が現われた云う。そして、この池で手を清められたことから御手水池と名がついたと伝えられている。

 一説には太平寺の御手洗池とも伝えられる。

 

 ○ 末松廃寺跡

 末松集落附近に寺垣内と称する無毛の地があり法福寺の遺跡であると伝えられた。その附近水田下に古来「唐戸石」(カラトイシ)と呼ばれる巨石が横たわり、瓦器類の出土を見ることはかなり以前から知られていた。昭和十一、二年(一,九三六年)に村の有志は学識者の指導を得て発掘調査を行ひ、金堂基壇の石敷と塔礎石の根石群を発見した。これ契機に末松廃寺跡保存会が結成され昭和十四年(一,九三九年)文部省の指定史跡となった。

 昭和三十六年(一,九六一年)高村誠孝氏が銀銭和同開珎を発見した。この調査により本寺院は白鳳時代(七世紀末頃)に建立され、いわゆる法起式の伽藍配置(東に塔、西に金堂)をとっていたことが確定した。堂塔、金堂の規模は予想外に大きく、塔は七重塔とも推測された。ただ堂塔以外の寺院建築が実在したという証明がえられず、地方寺院として制約によるものか、建立の推進者と目される郡司道君一族をめぐる政治事情によるものか明らかでない。手取川扇状地の多難な開発にとりくんだ豪族と多数の住民の荘大な記念碑とも言える。

 

 ○ 今城寺跡(いまきでら)跡

 中世鎌倉期に見える地名で今末寺の寺号を持つ古代寺院が存在していたことによる(源平盛衰記)に寿永二年四月(一,一八三年)越前国の燧谷(ひらうちたに)における平軍との戦ひに敗れた北国勢が越中に向かって敗走する途中加賀斉藤氏の林系である林六郎光明の嫡子(ちゃくし)の今城寺六郎光平が討死(うちじ)にしたと語られている。

 今城寺は林氏の開発領である拝師郷の御城に含まれる地名と見なしてよく中林の西隣りの末松地内の末松廃寺跡(奈良前期)は今城寺の地名のもとになった今末寺に結びつく可能性が強いと思われます。

 

 ○ 道路元標

 道路元標は野々市村ク二十七番地(現本町三丁目十-十二)本町児童館の地に明治六年(一,八七三年)の太政官達により全国主要街道の府県庁所在地の交通要所に木柱を建て、この元標を起点として県内の町村に至る距離が測定され地図の作成等が行われた。現在は金沢市尾張町(橋場町交差点附近)に石柱として設置されている。野々市村道路元標は大正八年(一,九一九年)旧道路法の施行により各市町村に一箇所置くように定められ、これに基づき大正九年にこの場所に設置された。昭和六十年七月復元された。

 

 ○ 富樫氏先業碑

 安政元年(一,八五四年)水毛生伊余門(現本町三丁目十一-十四)は富樫氏館跡荒廃の原野になっていた地を私財を投じて十数年にわたりて十数町歩を開墾した。その地村民に与へて償を求めなかった。明治二十二年(一,八八九年)富樫氏居館の跡を後世に伝えるため布市神社境内に富樫氏先業碑を建てその偉業を後世に伝えんとした。

 

 ○ 恩徳碑

 太平寺村にも荒原野の地多く開墾して村民に譲り費を求めなかった。文久三年(一,八六三年)蠶を養い飼法を改め藩命を受けて直海谷村に伝えた。又桑苗の栽培の改良をし桑苗を村民に与へ村に製絲会社を設立し、管内の蠶業の奨勵につとめた。白山神社境内に村民は水毛生氏に感謝し恩徳碑を建てた。

 

 ○ 藤村理平の頌徳碑

 藤村家は一日市町ラ一五〇番地(現本町二丁目一七-二一田村方)にあった。

 徳川時代の末、文化文政の頃より加賀藩主前田家の御用調達に寄与し帯刀を許された。領主参勤交代の往復の途は必ず御小休所となった。

 明治天皇の御巡幸の時は御宿舎を仰せ付けられた。今は当時の門だけが史蹟となって残っている。

 理平氏は小学校秀才で石川師範学校を卒業し野々市尋常小学校の校長を勤めた。明治二十一年(一,八八八年)七月最初の県会議員に当選した。二十三年二十八年と当選を重ね県政のよき推進役として活躍された。

 明治二十三年海防事業に金壱千円也献納して黄緩章を受けた。

 明治二十九年九月水毛生伊余門のあとを受けて第三代村長に推され村勢の発展につくした。理平氏は電気の導入に力を入れ水力発電事業の計画を進めて森下森八氏等と共に水力発電の認可を得て辰巳発電所の建設(二四〇KW)に乗り出した。会社名は金沢電気株式会社の社長となり活躍された。

 そして明治三十三年(一,九〇〇年)六月北陸の金沢に始めて電灯が輝いた。

 しかし今まで行灯やランプの光の下に生れてきた人々は電灯はぜいたく品として敬遠され、電灯は二,二六七個にすぎなかった。このため経営は苦しかったが事業の将来性を信じていた。野々市でも同様抵抗があったが理平氏は私財を投げうって電柱を建て電線を引いた。

 明治三十四年(一,九〇一年)わが野々市村に「文化の灯」が輝いた。

 当時の電球は五ショックの明るさで透明なものであった。次に電力による精米場は理平氏の手によって建設された。(現本町一丁目三十八-一橋場方)

 その後県下に普及されたが油を生産する者、油を一手に販売する店主等の反対も多かった。

 明治四十一年十一月からガス事業を兼ね古道町に工場を設置して営業を始めた。

 大正二年十月(一,九一三年)金沢香林坊下花屋敷入り口に金沢で初の常設活動写真館「菊水倶楽部」の経営に乗し出し新築でオープンした。第四高等学校生徒サラリーマンで開場前は行列が続き町はわき返った。政治、教育等の公共事業に尽力つくし同氏の功績を徳望とを敬慕し昭和十年十一月旧野々市小学校々庭に銅像を建立した。戦争中銅像を応召され頌徳碑郷土資料館の地に移された。

 

 ○ 地蔵尊

 昔この辺一帯に、くるわのあった所で明治二十四年(一,八九一年)四月二十二日西町ヘ十四番地(現本町四丁目十四-七山田昭吾方)附近から出火し、強風のため西町六日町一帯火の海となり二町合せて一五〇戸殆ど焼失した。間もなくこの地に地蔵尊を安置して火鎮祭が行なわれ、その後毎年町民あげてこの行事が行なわれていたが戦後に於ては行事が行なわれていないが山田宅にはお花を供え今もお守りしている。

 同年に始めて野々市消防組が結成された。

 

 ○ 鉄道馬車

 鉄道馬車が明治三十七年(一,九〇四年)六月松任八ツ矢から野々市を経て旧北国街道を通り松並木のある丸木、二万堂 有松 泉まで(昔は野町を泉野と云う)現野町四丁目まで開通し十一月から営業が開始された。

 鉄道馬車と云うのは国道そいにレールを敷き軌道上を走った馬車である。

 松任の国道から松並木にそうて走り野々市西町(現本町四丁目)に入り左側を通り一日市町ラ一四九番地(現本町二丁目十七-十六 山本武彦方)附近曲り角を出町口と云う、そこから左に曲り右側を走る、荒町ム四十五番地(現本町一丁目三十四-十五 高橋庄男方)前が停車場であった。ここで馬を交代させて丸木、二万堂 有松と走る。

 この道路は前田藩の戦略上の往還(今の国道を云う)をわざわざ曲げて造った道で両側には大きな松並木を馬車が馬のヒヅメの音を立ててこれを縫うようにして走った。

 駅が近づくと少年馬丁が馬から飛び降りて馬車が来たことを知らせるためラッパを(豆腐屋さんのラッパとよく似ているもの)吹きながら馬車の先頭を走った。

 その頃は農家に金輪のある荷車は各戸には少なく貧しい時代であった。

 当時の車台数は十四台、馬が十九頭、午前六時より午後五時四十分まで毎四十分毎に出発する。松任から金沢間の運賃九銭野々市から金沢間の運賃五銭子供割引三銭であった。

 大正五年(一,九一六年)まで役十二年間続いたがついに廃止となった。

 その後松任から金沢香林坊まで電車に移る。松金チンチン電車軌道も一部変更した。

 大正四、五年の米価一石十円から十二円平均であった。野々市名物のわら草りは一足一銭であった。この様に鉄道馬車はぜいたくといって歩く人も少なくなかった。

 

 ○ 野々市の寺子屋教育跡

 寺子屋教育は安政の頃野々市村フ七十七番地(現本町三丁目七-九北陸信用金庫野々市支店)及び(木野孝次方)附近瀬尾庄造氏(屋号問屋)に始めて寺子屋を設け自ら教鞭をとって在村の青年を教育した。これが当村の団体教育の創始とも云える。

 その後明治六年七月に至って学校令の施行と共に寺子屋を廃して野々市村落野々市小学校として設置され、瀬尾庄造氏宅を男子部校舎に野々市村メ三十一番地(現本町三丁目十一-十四)水毛生伊余門宅(屋号桶屋)を女子部校舎にあて男女両部からなる義務的教育を行なった。

 翌七年四月一日校舎を住吉神社(現布市神社)境内に新築して住吉小学校と称した。同九年生徒の増加に伴って校舎の狭隘を感じたので、更に一棟をその隣りに増築してこれを女子部にあてた。

 住吉校として一旦合していた男女両部が再び分離して男子部の校名を野々市小学校と改称し、女子部を桃夭(とうよう)小学校と命名した。

 当時開校式に臨んだ桐山石川県権令の命名で

 「桃之夭夭、灼灼其華、之子干●宣其室家(トウノヨウヨウタル シャクシャクタルソノハナ コノコカンニトツグヨロシカランソノヒツイヘニ)」なる詩経中の一文を出典するものでするものである。

 其の後桃夭小学校を廃して野々市小学校と称して男女一棟の校舎に入る事となり、明治十八年には更に高等科が置かれた。(尚明治三十年四月一日天皇皇后両陛下の御真影を奉載、昭和二十一年一月二十八日これを奉遷した。六、三の新学制によって中学校が設けられ校舎を増築して昭和二十三年四月二十日開校した)

 

 ○ 通称野々市山

 平安前期の貴族の一人であった藤原利仁鎮守府將軍の後裔と称していた加賀斉藤氏は石川軍富樫郷を名字地とする富樫氏の領主のものであったと思われる。

 野々市山は元野々市ヘ一番地~ヘ五番地(現金沢市坪野町)と元野々市ト二番地ト五番地(現金沢市窪町)と元野々市ホ一番地(現金沢市清瀬町)の山林、保安林、畑等があった。

 当時は登記法がなく我が国の不動産の登記制度は明治初年以降における郡役所で行なってきた地券制度及び公証制度に代え、フロイセン等外国における登記制度を導入し、治安裁判所が登記事務を取り扱うこととし「登記法」(明治十九年八月十三日法律第一号同二十年二月一日施行)の制定に治まる。

 そして民法の制定に伴ひ、明治三十二年法律第二十四号をもって「不動産登記法」が制定され現在に至っている。(その後大正、昭和年間に主な不動産登記法の改正がなされている。)

 これに伴って野々市山は明治三十九年十二月六日野々市村大学野々市の共有地舘八平他三四七名の所有杦となる。

 その後共有地を野々市町の所有杦移転となったものと思われます。

 毎年村民總出て野々市山の保存に苗木を植えたり、下苅をしたり、山林を伐採をしたりしておりましたが昭和四十年十月二十二日町の財政事情により石川県に所有杦移転となった。

 野々市山町有林の面積参考までに記載する。

 

   (町反畝歩) (坪)     (㎡)

 現金沢市坪野町 元野々市町ヘ一番地~ヘ五番地

   九四,七二七 二八四,三七  九四〇一二

 現金沢市窪 町 元野々市町ト二番地~ト五番地

   九四,八〇七 二八四,四七  九四〇三六

 現金沢市清瀬町 元野々市町ホ一番地
     

  一四三,五一二 四三〇,六二 一四二三五〇

 

 計                   

   三三三,〇四六 九九九,四六 三三〇三九八

 

 

 

 

○ あとがき

 古い歴史と伝統ある野々市町の昔の面影を知る人達が少なくなりつつある今日、町民の多くの方に郷土の町の歴史を知ってほしいと云う願いから古跡集と題してまとめました。

 昔から語り伝えられ歴史事実と足跡を正確にふまえたつもりですが足りないところがあるかもしれません。町民のみなさんが次の世代に残す多くの歴史を語り伝えることが出来るよう努力したいと念じております。私は歴史学には全くの素人であり文中多くの誤りがあるかと存じますが大方の御叱りいただければ幸いと存じております。

 本書執筆に際して野々市町小史、石川県神社誌、日本地名大辞典、土に生きる歓び、と法務局の不動産登記制変遷史、米価年表等の史料を使わせて戴きました。

 なほ関係者各位の御協力に感謝いたし厚く御礼申し上げる次第であります。

  昭和六十二年十月吉日

        野々市町本町四丁目十二-二

        嶋 田  良 三

独学・ふるさとの歴史研究