1.はじめに

  〇富樫郷

 富樫氏の歴史と野々市の歴史とは切り離せない。富樫郷は石川郡の古い郷名で、恐らく野々市が本郷であり富樫と呼ばれていたのではないかとみられている。

 前田藩政時代の文書によると、富樫庄は郷内のさらに一部で次の通りに区分されていた。

  〇富樫庄

 米泉・西泉・泉・泉野・泉野新・泉野出・泉野十一屋・長坂新・横川・久安・有松・円光寺・窪・寺地・法島・伏見新・山科・平栗・別所・蓮華・野田・大桑・三小牛・山川・馬替・高尾・大額・額新保・額谷・額乙丸・矢作・富樫新保・小原・三十苅・上新庄・下新庄・坂尻・曽谷・四十万・後谷・坪野・清瀬・倉ヶ嶽・中戸・天池・樫見・大平沢・國見・堂・粟田新保・住吉・野々市・下平沢の五十三ヶ村を含んでいる。

 金沢の城下に入った有松・泉・野町・与力町・沼田町・林町・地黄煎町・泉寺町・十一屋町・野田寺町等はみなもと富樫庄の一部であった。

 

 

2.ふるさとの地名のおこり

 

 

(1)越の国

  福井県・石川県・富山県・新潟県は、昔は高志国(こしのくに)(越の国)といった。七世紀の天武天皇(てんむてんのう)のころ高志国(越の国)を三越に定めるとある。都(京都)の近くより、越前(えちぜん)・越中(えっちゅう)・越後(えちご)の三国に分け、加賀(かが)は越前国(えちぜんのくに)となった。(福井県・石川県)

 八世紀の嵯峨天皇(さがてんのう)のころ、弘仁(こうにん)十四年(八二三)越前国から加賀国に分国となる(石川県)

 

 

 

(2)石川県(いしかわけん)

  石川県という名は、明治のはじめ、県庁が石川郡美川におかれたからこの名がついたのです。

 県庁は、はじめ金沢にあったので金沢県と名づけられましたが、明治五年(一、八七二)に美川へうつされましたが、石川郡の名をとり石川県という名に改められました。

  翌年の明治六年(一、八七三)にまた金沢にかえりましたが、県名は前と同じ石川県といい今日まで、その名が残っているのです。

 

 

 

(3)加賀(かが)と能登(のと)

 石川県は、加賀(かが)と能登(のと)という二つの国からなっています。加賀は加宜、加我ともいい、又髙志根加宜(こしねかが)、越根賀我(こしねかが)ともいいます。

 加賀という地名は「ひかり、かがやく」という意味から起ったといわれています。その土地がひかりかがやくような、よい土地であり、天皇の命をうけて、この土地にこられた皇子(おうじ)を喜んで迎えたところから、この名がついたとも伝えられています。

  また、出雲(いづも)(島根県)に加賀郷という所がありますが、そこから多くの人が、この地にうつり住んだので加賀という地名がついたともいわれています。

 能登という地名は、はじめ今の七尾のあたりの湾が深く入りこんで、ちょうど「のど」のようであるから、その地を能登郡(のとぐん)と名づけ、後に半島の全部を能登というようになったといいます。

 また、能登というのは地先(ちさき)、すなわち半島のところをいうのだともいわれています。

 

 

 

(4)石川郡(いしかわぐん)

  石川郡が一郡として、はじめておかれたのは、八世紀の弘仁十四年(八二三)六月ということですから、平成九年から数えて一、一七四年ということになります。

 日本紀略(にっぽんきらく)という本に「加賀郡管郷(かんごう)十六、駅四のうち、八郷一駅をさいて石川郡をおく、地広く人多きゆえなり」とかかれてありますように、石川郡は加賀郡(後の河北郡)から別れておかれた郡です。

 石川郡がおかれたときの八郷一駅というのは、古い書物によりますと、富樫(とがし)、中村(なかむら)、椋部(くらべ)、三馬(みんま)、拝師(はやし)、井手(えて)、味知(みち)、笠間(かさま)の八郷と比楽(ひらか)の一駅であったろうといわれています。

  石川郡の範囲は、元は上の方は手取川をもって能美郡と境し、下の方は犀川(さいがわ)でもって河北郡と境いにしていたようですが、後になって広い郡となったわけです。

  石川郡の名の起りについては、印志川(いしかわ)とかかれた記録もあったりして、いろいろの説があって、はっきりしておりません。「金沢古蹟志」という本では急流のため石が多く石川とも読んだので、その名をとって郡名にしたと書いてあります。別の説には比楽川(ひらかわ)(手取川)の上流が郡の境いであることから、この石の多いのにちなんでつけたといわれています。

 

 

3.地名・町名の由来・云われ

 

(1)石川郡(いしかわぐん)の南部(なんぶ)

  石川郡の白山下の村々の中に、中宮(ちゅうぐう)(吉野谷村)・別宮(べつく)(鳥越村)・佐良(さら)(吉野谷村)・白山・三ノ宮(鶴来)といったところにあります。これらの村や町は昔から白山七社(中宮、別宮、佐良、岩本、金剱、下白山、三ノ宮)といわれたお宮のあったところで、これらのお宮の名がそれぞれ地名となったものです。

 その中でも中宮、別宮、佐良は中宮三社といわれました。中宮という名は白山の領上の宮と下白山本宮との中程にあるお宮であるところからつけられた名まえです。

 

 〇白山(はくさん)

  石川県でもっとも高い山は白山です。三山合わせて白山と呼び、御前(ごぜん)が峯(みね)の高さは二、七〇二メートルもあります。大汝岳(おおなんじだけ)は(二、六八四)であり、別山(べつさん)は(二、三九九)であります。

 高い山で早くから雪が降り白く見えるので「しらやま」または「はくさん」と呼ばれ、人々から尊い山として、敬われ、立山・富士山と並んで日本の三名山といわれてきました。

 

 

(2)手取川扇状地(てどりかわせんじょうち)

  石川県で一番大きな川は手取川です。この川は手取村付近を流れる時は手取川といい、その下流の比楽(ひら)付近では比楽河(ひらかわ)といわれ、川口には比楽港があるので今港川(いまみなとがわ)と呼ばれてきましたが、後には全部を手取川というようになりました。

 昔源平(げんぺい)の戦いの時、木曽義仲(きそよしなか)が平家の郡を追って南へ進んで行きましたが、手取川があふれてなかなか渡ることができません。それで武士たちが、たがいに手を取りあって渡ったので手取川という名がついたと伝えがあります。

 古い時代には、この川は今の川筋と違ったところを通っていたといわれています。鶴来のあたりから野々市の付近を通り金沢に至る道路のがけ下に沿うて流れを作り、今の古保川べりをへて河北潟(かほくかた)に入り、大野港に流れこんでいたとも伝えられています。

 このことを証拠づけるかのように思われるのは、今もそのころ流れていたと思われる川筋の山手の方の地名に島のつく地がいくつかあります。

 

 〇手取川(てどりかわ)

 石川郡というとすぐに頭に浮かぶのは大きな川手取川ですが、早場米の産地として穀倉地帯(こくそうちたい)の平野は、この手取川の扇状地としてできた平野であります。したがって石川郡は、この手取川を離れては考えられないほど深い関係にあるところです。

 手取川はその源を白山山系の大汝岳(おおなんじだけ)から発し、全体の長さは七十七キロメートルにもなります。石川県下第一の大きな川であります。この川は市の瀬に至っては牛首川(うしくびかわ)と呼ばれることになりますが、やがて大道谷川・尾添川(おおぞかわ)などの川をつぎつぎとすいこんで、はじめて手取川という名になって、流れ下っていきます。

 そして更には大日川、直海谷川(のうみたにかわ)といった大きな川をのみこんで、鶴来町付近にきて急に広い川巾となって石川・能美の両群の境を流れて下ります。能美郡粟生(あお)付近では川巾が一キロメートルという広いものとなり、湊(みなと)・美川(みかわ)の間を通って日本海に流れこんでいます。

 

 

(3)寺のつく町

  太平寺(たへいじ)・蓮花寺(れんげじ)・道法寺(どうほうじ)・安養寺(あんようじ)・普正寺(ふくしょうじ)・専福寺(せんぷくじ)・円光寺(えんこうじ)・不動寺(ふどうじ)・無量寺(むりょうじ)・蓮代寺(れんだいじ)・遊泉寺(ゆうせんじ)・専光寺(せんこうじ)・大聖寺(だいしょうじ)などの町名は昔そこに大きな寺があったからついたものである。

 

 

(4)人名に由来する町

 能登にある時国(ときくに)、国兼(くにかね)、延武(のぶたけ)、兼政(かねまさ)などや、金沢の本多町(ほんだまち)、横山町(よこやまちょう)などは、そこに住んでいた人の名をつけたものである。

 

 

(5)市が開かれた町

  野々市町には一日市町・六日町・二日市町・三日市町があり、松任には四日市町・布市町(ぬのいちまち)がある。金沢市には八日市町など市場が開かれた町に町名が残っています。

 

 

(6)島の字がつく地名

  手取川を上流から見てみますと、白峰村(しらみねむら)には桑島(くわじま)、尾口村(おくちむら)には五味島(ごみじま)、鶴来町には森島(もりしま)・明島(あからじま)・中島など、水の流れのうつりかわりによって取り残れて島となったため、島の名のつく地名ができたのでないかと思われ、大変おもしろいことだと考えられます。

 その後、この川は大水によって水の流れが南の方にうつりかわりました。元暦(がんれき)元年(一、一八四)ころ、宮丸(みやまる)・柏野(かしわの)の間を通って松本の港にそそぐようになったといわれています。更に南の方に流れをかえて、能美郡寺井の三道山のふもとをすぎて今のような流れを形づくり、湊・美川の間から日本海に流れこむようになりました。

  このようにして沢山の島の名のつく地名が生まれました。大水のたびに島の名をつくったことになります。

 島のつく地名をあげますと、松任では水島(みじしま)・源兵衛島(げんぺいじま)・北島(きたじま)・長島(ながしま)・出合島(であいじま)・漆島(うるしじま)・矢頃島(やごろしま)・向島(むかいしま)があります。美川では鹿島(かしま)があります。

 また、二つの川が出会った所にできた町は、河合(かわい)、二俣(ふたまた)、二又(ふたまた)とよばれ、川の南にできた町は、河南(かわみなみ)、川の北は川北(かわきた)、河北(かわきた)とよばれています。

 

 

4.野々市周辺の町

 

(1)鶴来町(つるぎまち)

  鶴来町は昔剱(つるぎ)がこの地に飛んできたので、そのいい伝えから剱と呼んだといいます。「三州誌」の村名由来には、この町に寛永年間(一、六二四~四四)ころ七度の火災があったので、不吉を理由に地名の剱という字が火にかかわりがあるからだ、文字をかえようということになりました。

 元禄(げんろく)十五年(一、七〇二)、藩主前田綱紀(まへだつなのり)のいいつけにより「白鶴(しろつる)がとんできた」という縁起のよい言葉から、今に鶴来とかくようになりました。

 

 

(2)松任市(まっとうし)

  松任はもと石川郡山島郷(やまじまごう)に属していた所です。町名の起こりについてはいろいろ説があってはっきりしませんが、「松任由来記(ゆらいき)」という本では、昔の地に石同・四郎丸・三丁町という三か村あったが、承平五年(九三五)国司松木氏(こくしまつきうじ)の時、三か村を一か所にし、市町を立てたので「松木氏の任を奉じた」所ということから、その二字を取り松任と名付けたとかいてあります。

 また別の本には、寛治(かんじ)五年(一、〇九一)、加賀国司松井氏が石同・白丸・三ツ屋の三か村を合せて市町を作り、松任ととなえ、市の日(市場を開く日)をきめたともかいてあります。旧松任町には四日市・八日市・布市町など、市の日のつく町名が残っています。加賀平野の中心でもあり、北国街道沿いの町として古くから栄えてきました。

  永享(えいきょう)元年(一、四二九)、富樫家からの出で林加賀介貞光(はやしかがすけさだみつ)の二子、松任十郎範光(まっとうじゅうろうのりみつ)がこの地に城を築き、子孫代々この地を治めていましたが、天文(てんぶん)四年(一、五四〇)鏑木永政(かぶらきえいせい)の子頼信が代ってこの地を治めるようになりました。

 松任駅近くに松任城跡がありますが、人々はこの城跡を蕪城址といっています。今は埋立られてその跡方はありませんが、大正の終わりごろまでは巾の広いところでは二十七メートルにもなり、堀がめぐらされて、城址といった感じがする所であった。この鏑木頼信は豪男の武士で丹波(たんば)の賊を越前の蕪木城(かぶらぎじょう)に討ち、功をたて姓を鏑木と改め加賀の松任にうつった人だといわれています。

 

 

(3)美川町(みかわまち)

  美川町は手取川の川口にある港町です。明応(めいおう)八年(一、四九九)、それまで藤塚羽佐場(ふじづかはさば)という、二か村に分れていた所を合せて一か村にしました。そしてこの地にあった白山末寺(まつじ)の元吉寺(がんきちじ)という寺の名をとり、村名を元吉ととなえました。

 ところが「元吉(もとよし)」という字は、古いときは吉(きち)(よいこと)だが今は凶(きょう)(わさわいごと)のある意味の字でよくないというので、承王(しょうおう)三年(一、六五四)、元の字の代わりに本という字をあて本吉とかくようになりました。

 藩政のころは、ここに町奉行もおかれ、安宅(あたか)・宮腰(みやこし)(金石)の港などと共に、加賀におけるよい港として大変繁盛しました。明治二年(一、八六九)、能美郡の湊村(みなとむら)を合わせて町をつくったため、石川郡と能美郡の郡名の一字あてをとって美川町と新しく呼ぶようになりました。

  明治五年(一、八七二)から同六年まで約一年間、ここに県庁がおかれ金沢県を改めて石川県というようになりました。

 

 

(4)金沢市

 金沢という名は芋掘藤五郎(いもほりとうごろう)が、山から掘り出してきた芋を洗った時、金が池の底にたまったので「金を洗った沢(浅い池)」ということから金沢という名がつけられたといいつたえられてきましたが、最近の説明によると、もともと金のような光るものが池の底に見えたので金沢という地名がつき、後に芋掘藤五郎の伝説ができたといわれてもいます。

 

 

(5)小松市

 小松(こまつ)という町は、はじめ小松原(こまつはら)といって、小さい松が多くはえていましたので、そのような名がつきましたが、後に小松とみじかくいうようになりました。

 

 

 

(6)富樫氏とつながる地名

  ①馬替(まがい)

  野々市の近くにある馬替は、古くは馬飼(まがい)いともかき、馬を飼っている人が多かったし、また馬を売買する馬市も今のお宮、馬替神社のあたりにできたといいます。

 源平の時代には、野々市町に富樫(とがし)の館があって、戦がよくありました。それで馬が入用で、ときどき馬の取りかえもあったそうです。つまり馬を飼う土地であった上に、馬の替えっこをした所であったわけです。こんなことで「馬替」といいます。

 

 ②久保(くぼ)(窪)村と久保市(くぼいち)

  昔一向一揆(いっこういっき)で富樫政親(とがしまさちか)が滅びてから、その分家の泰高(やすたか)が、久保の人たちに尾山(おやま)(金沢)の御堂(みどう)のまわりに、魚・鳥・野菜などをはこばせて商ひをさせました。人々はその土地を久保市(凹市(くぼいち))ともかいたといいました。

 金沢の新町(しんちょ)に今もある久保市のお宮は(久保市乙剣宮)、この頃市が開かれた場所にできた神社のようです。

 今は金沢市尾張町(おわりちょう)二丁目にあります。

 

 ③二万堂(にまんどう)

  三馬小学校の近くに二万堂というバス停があります。この二万堂は三馬堂(みまんどう)とも御馬堂(みまどう)ともかきます。「ミマンドウ」とよみました。それが「ニマンドウ」となりました。この付近にある橋を伏見川(ふしみがわ)の「ミマンドウ」橋といいました。

 寿永(じゅうえい)二年(一、一八二)、木曽義仲(きそよしなか)が越中から加賀の国へ攻め入ったとき、このあたりにあった社堂を源氏(げんじ)の二万の兵が取り囲んだということから、二万堂の名がついたともいわれています。

 

 ④山川村(やまごうむら)

  富樫政親の家臣山川三河守(やまごうみかわのかみ)の館が、この村にありました。三河守は文武の道にすぐれていましたが、高尾城落城(たかおじょうらくじょう)の時、一向一揆(いっこういっき)の軍とよく戦ったが、あわれにもやぶれて吉野谷の祇陀寺(ぎだじ)でうち死しました。

 

 ⑤満願寺(まんがんじ)

  金沢の南効窪町(なんごうくぼまち)旧富樫村・窪村・満願寺山は、髙さ一五六メートルの天台宗(てんだいしゅ)満願時があって、表参道(おもてさんどう)から三六八段を上ると山頂より見下すと石川・河北の二郡から能登の入口まで見渡せます。

 この山は昔、一向一揆にやぶれて富樫の大将が入道(僧になること)して満願時というお寺を創建したと伝えております。参道上り口に富樫大明神の碑が建ち昔を物語っています。

 政親の位牌が祀られています。

 

 ⑥鞍が岳(倉が嶽)

  鞍が岳は遠くから馬の鞍を置いてあるように見えたところからこの名がついたといいます。

 また富樫政親が高尾城で一向一揆にやぶれて鞍が岳のいただきの城にうつりましたが、敵の水巻新介(みずまきしんすけ)は政親に馬上から組みつき、馬もろとも城の大池に落ちこみ死んだという伝説があります。

 山の髙さは五六六メートルあり野々市から見えます。今も晴れの日の八月十五日には池の底に二つの馬の鞍がみえるということから鞍が岳という名がついたともいいます。

 

 

 ⑦高尾城跡(たかおじょうあと)

  富樫氏につながる高尾村は昔石川郡富樫庄に属していた。康平(こうへい)六年(一、〇六三)、第七世富樫家国(とがしいえくに)が能美郡国府村(こくふむら)古府(こぶ)から(今の小松)野々市の地に国庁を移した。

 この地は地味(じみ)豊かな野や山と川に恵まれた利便なところで加賀の都として、京の都になぞらえて髙尾、伏見(ふしみ)、山科(やましな)、住吉(すみよし)とそれぞれの地名を付けたと伝えられています。

 標高二八三メートルの高尾山には富樫氏の高尾城があり、山頂への通路は高尾と額谷(ぬかたに)とあり、山路は坪野(つぼの)へ通ずる。東北から西南まで百間約二〇〇メートルあり、その下に平地があり、その背は断崖である。長享二年(一、四八八)六月九日、第二十四世富樫政親は一向一揆の戦いに破れ、遂にここで滅びました。

 

 ⑧額谷(ぬかだに)

  額谷村入口から鞍が岳(倉が岳)へ上がる道を行くと七瀬川という川が流れており、橋を渡り山を登りますと額谷山の平らになっているところに、御廟谷(ごびうたち)というところがあります。五輪の石塔三基があり、富樫累世(とがしるいせい)の墓があります。昭和十四年(一、九三九)八月二十九日、石川県史蹟指定(しせきしてい)となる。

 

 ⑨鳴和町(なるわまち)

  金沢の北部の方にある広い町です。この町の山手の方にある鹿島神社(かしまじんじゃ)という宮の境内に鳴和滝(なるわたき)という小さい滝があります。昔、源義経(みなもとよしつね)の一行が安宅(あたか)の関を通り、野々市の館にて酒宴(しゅえん)し、この地にきた時、富樫の使いのものが追いつき、一行の前途をお祝いして酒・肴などをおくりました。

 一同は大いに喜び、そこで酒盛りを催しました。弁慶(べんけい)は立って「鳴るは滝の水日は照るともたえずとうたり、たえずとうたり」と歌いながら延年(えんねん)の舞をしたといいます。この滝を鳴和の滝といい、付近を鳴和町というようになりました。

 

 ⑩伝燈寺町(でんとうじまち)

  第九十六代後醍醐天皇(ごだいごてんのう)の時(一、三一八~三九)、名僧恭応運良(めいそうきょうおううんりょう)が金腐川(かなくさりがわ)を遡ってこの地にきて、地蔵堂(ぢぞうどう)の中にとまりました。夜中におそろしい賊が堂に入りこんで、一刀のもとに僧を切り殺して立ち去りました。

 翌日賊は僧の持物をうばいとろうと、その地蔵堂にきますと、僧はきちんとすわり、お経をあげていました。

 悪四郎(あくしろう)(その時の賊)は、大いに驚き昨夜何か変わったことがなかったかとたずねると、「たしか何かにうたれた感じがしたが、自分の身体には異状がない」といいます。 後で地蔵さんをみると顔のまん中が刀で切られたようにかけていました。悪四郎は自分のおかした罪のおそろしさ、佛(ほとけ)の徳の大きさに深く感じ、心をすっかり改めて僧となり、運良(うんりょう)の弟子(ていし)になりました。

  元徳(げんとく)二年(一、三三〇)、運良が朝廷にのぼり、このことを天皇に申し上げますと、天皇は大いに感ぜられました。暦応(れきおう)二年(一、三三九)、光明天皇(こうみょうてんのう)が一つの国に一つの勅願所(ちょくがんしょ)(天皇の命によって病気がはやらぬよう、世の中がよく治まるようお祈りするところ)を建ることにきめられました。

 そして運良を召され、宝亀山(ほうきやま)のふもとに大きな寺をたてることを命ぜられました。

 運良はふたたびこの地にきて村人を説き、多くの人夫(にんぷ)をつかって遂いに寺を完成しました。この寺に「宝亀端応山伝燈護國禅寺(ほうきずいおうざんでんどうごこくぜんじ)」という名がつけられ、勅願所となりました。

  これから沢山の人がおまいするようになり、寺は大いに栄え、寺の付近には人々が住みました。

 元亀(げんき)元年(一、五七〇)五月、柴田勝家(しばたかついえ)の攻撃により野々市の館を囲みて火攻し、泰俊(やすとし)は防ぐことができず、弟の晴貞(はるさだ)は大乗寺に走り、賊軍大乗寺を更に焼き、晴貞は伝燈寺へ急走したが、賊軍追撃して火攻する。晴貞は防戦したが、ついに自刃した。同寺近くに富樫晴貞の墓所があります。

 

 ○野々市新村(金沢市三馬町)

  天正八年三月九日、加賀一揆により野々市が焼野原になり焦土と化した。その後慶長の中頃に出来た野々市新村は野々市の出村であった。明治初年まで野々市に属していたが三馬村に属し昭和十一年四月金沢市に編入した。

 

 

5.野々市(ののいち)

 

(1)本町地区

 野々市とは広い野で市を開くという意味だとか、白山権現(はくさんごんげん)のあたりに白雲がたなびき布が一里も広がったように見え、布一里(ぬのいちり)と呼んだのが布市のおこりだとか、川一面にさらした布が水にゆれて動く様を見布(みぬの)の水といったとか、布市の名は菅原道眞(すがはらみちざね)が付けた、とも伝へられています。

 野々市の名についてはいろいろな説があります。

  富樫泰明(とがしやすあき)の父家尚(いえなほ)が、この野々市に大乗寺を建てました(今は金沢市長坂に大乗寺があります)。はじめは野市と書いたが、鎌倉時代に野々市と書くようになったといいます。

  延喜(えんき)五年(九一六)、鎮守府将軍(ちんじふしょうぐん)藤原利仁(ふじはらとしひと)をはじめとする。永延(ええん)元年(九八七)第四世忠頼(ただより)が、一条天皇(いちじょうてんのう)の命により加賀国司(かがこくし)に任ぜられ、能美郡国府村古府(のみぐんこくふむらこぶ)(現小松)の地に国衛を置く(今の県庁)。ここに加賀の国との縁がむすばれた。

  康平(こうへい)六年(一、〇六四)、第七世家国(いえくに)は、国府を能美郡国府村から野々市の地にうつし、加賀の守護職富樫氏が城をかまえて北国の都として、政治・経済・文化・宗教・産業の中心として六百五十五年栄えてきたところです。長享(ちょうきょう)二年(一、四八八)六月九日、一向一揆が起り第二十四世富樫政親(とがしまさちか)と本願寺門徒蓮如(ほんがんじもんとれんにょ)との戦いに野々市が攻められ、焼野原となり、高尾城にて政親が滅びました。

  元亀(げんき)元年(一、五七〇)五月、加賀一向一揆のため、野々市の大乗寺が焼かれ、傍系(ぼうけい)の富樫晴貞は伝燈寺に逃げましたが、火攻めにあい、ついに滅びました。

  天正(てんしょう)八年(一、五八一)三月、再び柴田勝家(しばたかついえ)と佐久間盛政(さくまもりまさ)が織田信長(おだのぶなが)の命により、加賀一揆により野々市は戰場となり、火攻められ、神社・佛閣・宝物等を失った。土着の百姓だけが残った。

 

 〇中央に散在する住吉の宮氏子住民(みやうじこじゅうみん)は、このあとかたづけをして同宮に平行して東西に細長く集まり村となった。これが一日市町(ひといちまち)・中町・六日町(現本町二、三丁目)の三町である。

 野や山でとれた、産物を出して市がたち、東端に「一」に相当する日は一日市町とし「六」に相当する日は、六日町とし、西端の市とした。これが町のはじまりである。

 

 ○焼野の西部に散在する照日八幡神社(てるひはちまんじんじゃ)の氏子住民は、六日町の西端に接続して集まり、照日八幡神社(表田圃)の田地八幡田の地名が残っているところに四百年鎮座)天正八年(一、五八一)に鶴来街道西側にうつし町をなした。(本町四丁目十六)これが西町(現本町四丁目)である。

  更に木呂川の西端に分家が建ち、西の新屋敷(しんやしき)とよんだ。北国街道を中心に北側は北せどや、南側は南せどやとよんだ。木呂川の前は菅公布水川(すがこうふすいかわ)とよんだ。

 

 ○六日町(現本町三丁目)を境に焼野の北部に散在する。北横の宮白山神社の氏子住民は一日市町(現本町二丁目)の東端の北にそうて集まり一町をなした。これが新町(本町二丁目)である。

 

 ○その後焼野の東北に散在する外守(そでもり)の地に八幡神社、辻の宮の氏子住民は新町の北端に接続して集まり社殿を野々市の大乗寺跡にうつして一町をなした。これが荒町(現本町一丁目)である。

 

 〇荒町(あらまち)の大乗寺址(だいじょうじあと)、八幡社址(はちまんしゃあと)は外守という。

 

 ○また西町(本町四丁目)の北部に七軒の家が建ち、七つ屋として一町をなした。

  こうして旧北国街道にそうて七町の形体の町ができたのは、慶長(けいちょう)のなかごろでないかと伝えられる。今も町の東端の南に富樫の舘跡があり、高尾山にも高尾城、鞍が岳の城跡が残っております。

  町内には、古い町名の一日市町、六日町があるように産物の市、布の市が開かれにぎわった。

 

 こうして町内には古い町名があるように、市がたち、馬市があるように加賀藩のころには馬七十三頭をもつ伝馬駅がおかれ、野々市はなかなか賑わっていた。

 

  回国雑記(かいこくざっき)という本の中に、聖護院道興准后大僧正(どうこうじゅんこうだいそうせい)が北陸巡行の時、加賀の国廳(こくちょう)の野々市のまちを通うられたとき、人々はわづかの雨の中を雨宿りもせず、忙しそうに立ち働いている。その繁盛ぶりをたたえ、「明くれば野の市といえるところを過行けるに村雨にあひ侍りて」

 「風おくる一村雨(ひとむらさめ)に虹きえて野の市人は立ちもをやまず」

 とかかれている。野の市は、古くは野市(のいち)とよんだといわれています。

 

 旧町名はこのごろにつけられ、今日まで守り伝えてきた由緒ある土地の歴史と文化を物語る貴重な共有財産であり、三百七十年続いた歴史が保存継承に努めてきたが昭和三十九年(一、九六四)五月一日住居表示により町名(字名)が消えてしまった。

 町民の多くは忘れ去られようとしている中で、町民の心の中で今も行き続けていることは確かのようである。

 旧町には「七町(ななまち)」・「七宮(ななみや)」・「七墓地(ななぼち)」があって「七」を基準にしてきたものと思われる。

 富樫の始祖鎮守府将軍藤原利仁は、北斗七星の明見菩薩(みょうげんぼさつ)の化身といわれてきた。富樫氏宗家(とがしうじそうけ)も北斗七星明見菩薩を信仰し継承してきた名残りの現らわれではなかろうかと思います。

 七宮の内二宮はありますが他の五宮は合祀しました。

 荒町の辻ノ宮・外守八幡神社は富樫郷住吉神社に合祀(大正三年(一、九一四)十二月)して布市神社と改められた。西町の照日八幡神社は富樫住吉神社に合祀(大正三年(一、九一四)十二月)して布市神社と改められた。西裏田圃に一社(不詳)があったがわからない。(七ツ屋町の宮でなかろうか弁慶の力石のあった宮である)

 中町の南にあった天満宮はいつの時代合祀したかわからない。

  七墓地は残っております。

 

 

(2)町名(字名)が変更になった七町

 ○本町の町名変更

  地方自治法(昭和二十二年(一、九四七)法律第六七号)第二六〇一条一項の規定に基づき昭和三十九年(一、九六四)五月一日から石川郡野々市町の町の区域および名称を変更する。

 

 ○荒町  本町一丁目 

  押野丸木境の小武僧橋(こむそうはし)より火止川(ひとめかわ)まで区間。辻の宮・東光院(とうこういん)・定光院(じょうこういん)・承天庵夏(しょうてんあんげ)の水・白山井戸等があった所。

 

 ○新町・一日市町  本町二丁目

  火止川から布市神社境の住吉川までの区間。観音堂(かんのんどう)があった所。

 

 ○中町・六日町  本町三丁目

  住吉川から鶴来街道(南)大野街道(北)までの区間・天満宮・北横宮があった所。

 

 ○西町・七ツ屋  本町四丁目

  鶴来街道(南)大野街道(北)から瀬木(せぎ)川までの区間・照日八幡神社・西裏田圃神社一社(不詳)

 

  *標柱(ひょうちゅう)

  旧町名に歴史の町しるべ、標柱を設置して名称と由来を記したものが町毎に建立されました。住民と町が一体となって生かしていく取組みを求めようとしています。

 

 ○外守町(そでもりまち)  本町一丁目

 外守という田圃に宅地化が進み、外守団地ができた。この地に外守八幡神社(そでもりはちまんじんじゃ)・大乗寺(だいじょうじ)・東光院(とうこういん)・定光院(じょうこういん)・承天庵(しょうてんあん)があった所。

 

 

(3)本町地区に新しく生まれた町

 ○本町五丁目と白山町

 西表田圃(にしおもてたんぼ)(南)に宅地化が進み本町五丁目となる。白山町は白山連峰の見える町。

 

 ○本町六丁目・若松町(わかまつまち)

 西裏田圃(北)に宅地化が進み本町六丁目となる。押越町に近く瀬木川が流れています。

 本町六丁目の東が若松町となる。昔大きな下り松のあった所。また弁慶の力石のあった所(今は布市神社にあります。)

 

 ○横宮町(よこみやまち)

 白毛田田圃(しらけだたんぼ)に宅地化が進み横宮町となる。新町の北横宮跡があります。

 

 ○菅原町

 狐藪田圃(きつねやぶたんぼ)に住宅化が進み菅原町となる。住古菅原道真公(すがはらみちざねこう)が加賀下向の折、野々市を通過せられ、この土地の風光を眺めて「布水イナナク」と詩をつくられたと伝える。近くに菅公布水川(今は木呂川)が流れています。矢作町境に諏訪(すわ)の森に富樫分館があった所。

 

 ○住吉町(すみよしまち)

 鬼箇窪(おにがくぼ)という田圃に宅地化が進み住吉町となった。この地に住吉川が流れています。この一帯は加賀国司富樫氏の館があった所。

 

 ○高橋町(たかはしまち)

 背骨(せほね)という田圃に宅地化が進み高橋町となる。この地に高橋川が流れています。久安近くに富樫分館あり。

 

 ○扇(おぎ)が丘町

 荒田町(あらだまち)・富樫という田圃に宅地化が進み、扇が丘となる。扇形の町。この地に御所があった九艘川が流れています。

 

 

(4)富奥地区

 ○矢作(やはぎ)

  古くは石川郡富樫庄に属した集落であった。古い言い伝えによると、天正(てんしょう)年中(一、五七五)ころ、富樫家の子孫が、この村の庄右衛門(しょうえいもん)方に住み、矢をはぐ仕事をしていたといいます。

 また「石川訪古遊記(いしかわほうこゆうき)」によると、昔は、この地方に住んでいた人たちは主として矢を作る仕事にしたがっていたといいます。

 矢作(やはぎ)という村名が生まれたのも、このように矢をはぐ人が住んでいたというところから生じたものといわれています。その名残(なのこ)りとして、昔は子どもたちが三月ごろ楽しんで遊んだという、はま矢というものをも作り出していたといわれています。

  室町時代にかかれた、回国雑記(かいこくざっき)という本に聖護院道興准后(しょうごいんどうこうじゅんこう)が北陸巡行の時、加賀の国庁の野々市を通うられたとき、うたわれた。

 「こよひは、矢はぎの里といえるところに宿りけるに暁に月を眺めて、今宵しも矢はぎの里にゐてぞみる夏も末なる弓張りの月」という矢作の里はこの所のことです。

 

 ○太平寺(たへいじ)

  加賀の守護として富樫氏が野々市の里に城をかまえて勢いをふるっていたころのことです。その富樫氏の一族に泰平(たいへい)というものがいました。泰平はたいへん信心(しんしん)の厚い人で村人からも慕われていましたので、泰平が亡くなってからも村人たちは泰平の位牌所(いはいしょ)をつくり、泰平寺(たいへいじ)と名づけ、そのあとを弔いました。「亀尾記(かめのおき)」に泰平寺を大平寺(たへいじ)に転じた。元禄(げんろく)十五年(一、七〇二)十二月大平寺を太平寺とあらためた。

 太平寺にあった寺院は曹洞宗(そうどうしゅ)に属し、開山徹通(かいざんてっつう)の灰塚(はいづか)があります。

 この村を通り下林(しもばやし)、中林(なかばやし)、上林(かみばやし)、清金(きよかね)、木津(こうず)、三反田(さんたんだ)をへて、三口(みつくち)の渡しから、寺井(てらい)、小松(こまつ)に出る道を太平寺街道(たへいじかいどう)といいますが、昔このあたりに賊(ぞく)がでて、太平寺の坊さんを殺したことがありましたので、今でも、この地方では、太平寺街道のことを坊主殺(ぼうずころ)し街道ともいっています。

 

 ○上林・中林・下林

  石川郡拝師郷(はやしごう)が平安末期以来、領主加賀斉藤氏(りょうしゅかがさいとうし)の林系によって再開発され、上林・中林・下林の三村に分かれた。林三か郷の中央部を中林と名つけられた。上は上林、下は下林と名つけられたものと思われる。

  林郷八幡神社は、往古は拝師明神(はやしみょうじん)、または拝師八幡宮ともいい、長和(ちょうわ)二年(一、〇一三)四月の創建とされる。

 延文(えんぶん)五年従五位下を授けられた。富樫家歴代守護神として崇敬した。林家・三林家をはじめ、村人たちから尊信された。観応(かんおう)二年(一、三五一)正月の記年銘(きねんめい)をもつ古鏡(こきょう)二面が伝わる。

  中林春日神社の創立は久安(きゅうあん)六年(一、一五〇)の頃春日社とよんだが、明治八年(一、八七五)八月社名を改めた。

  師も林薬師日吉神社(しもはやしやくしひよしじんじゃ)の創立はあきらかでないが、延徳(えんとく)年中(一、四九〇)と伝えられる。(神社誌)によるが明治八年(一、八七五)八月社名を改めた。同神社伝説由来によると同社の起源は仁和二年(八八九)という。

 

 ○藤平田(とへだ)

  石川郡林郷に属する集落、富樫用水の分流木呂川の西の同分流十人川の間に位置している。産土神は中奥八幡神社で弘安(こうあん)五年(一、二八二)創建と伝える。

 

 ○藤平(ふじひら)

  石川郡林郷に属する東の富樫用水の分流木呂川と同分流十人川の間に位置し、北は藤平田村(とへたむら)である。

 産土神錦橋八幡神社の創建はあきらかでないが、弘安(こうあん)五年(一、二八二)の創建と伝える。古来鎮座地(こらいちんざち)を「きんきよ」とよんだため明治十二年(一、八七九)に改められた。

 

 ○清金(きよかね)

  石川郡中奥郷に属する集落。郷用水の分流大塚川の流域に位置し清兼(きよかね)という、「三州地理志橋」には、本村は上清金、新村は下清金とよんだ。慶長(けいちょう)四年(一、五九九)の(前田利家宛行状)に清兼村とみえる。

 産土神の創立は明応年中(一、四九二~一、五〇〇)中宮社、明治八年(一、八七五)清金中宮神社に改め、同十六年(一、八八二)村社となり、同三十九年(一、九〇六)に下清金の菅原社と上清金の八幡社を合祀した。(石川郡志)

 

 ○三納(さんのう)

  富樫用水の分流木呂川を挟んで、東は矢作、古くは山納(さんのう)ともいい、山王社(さんのうしゃ)があったことから山王村ともよんだという。産土神の創立は延徳(えんとく)年中(一、四八九~一、四九一)といわれている日下日吉神社(くさかひよしじんじゃ)がある。

 鎮座地「クサカ」という地であることから日下日吉神社となる。

 

 

 ○末松(すえまつ)

  石川郡中奥郷に属する集落。「加賀志徴(かがしちょう)」によると五、六軒の垣内からなる轟(とどろき)の周囲の雑木林は轟野とよばれ、西側の寺垣内(てらかきうち)といわれている無毛の地は、字名(あざめい)を法福寺(ほうふくじ)とする土居跡などが残っていたことから東西十六メートル南北十一米の堂址と認められる敷石があり「唐戸石(からといし)」といわれた。

 塔心礎(とうしんいしずえ)は、長径二メートルあり、明治二十一年(一、八八八)に大兄八幡神社の手洗鉢(てあらいはち)に使用している。昭和十二年(一、九三七)最初に発掘をし、昭和四十一年(一、九六六)の発掘調査により、平安朝時代の様式の瓦を発見し、塔・金堂の堀立柱建物跡(ほりたてはしらたてもののあと)などの遺構を検出、法起式伽藍配置(ほうきしきがらんはいち)であることを確認。創建年代は七世紀後半と推定。我が国で初の和同開珎(わどうかいちん)など出土しました。

  産土神は、末松社は大兄明神(おおえめうじん)とし、加賀国造大兄彦命(かがくにつくりおおえのひこみこと)を祀り、明治八年(一、八七五)九月、末松神社に改めた。明治四十年(一、九〇七)三月、轟蛭子神社(とどろきひるこじんじゃ)を轟八幡(とどろきはちまん)神社へ合祀し、同四十二年(一、九〇九)三月、同神社を末松神社へ合祀して大兄八幡神社(おおえはちまんじんじゃ)と改められた。

 

 ○粟田(あわだ)

  富樫用水の分流木呂川が北流し、古くは粟田川とよばれた。「石川訪古遊記」に水難のため粟田村の村人は新保村に移ったと、正保郷帳(せいほごうちょう)に粟田新保村とある。

 粟田遺跡は縄文晩期と奈良平安期および中世にわたる集落跡がある。

  産土神豊田日吉神社の創立は、長享年中(一、〇四〇~四三)といわれるが神主岡本越前守(かんぬしおかもとえちぜんのかみ)の文書によれば、久安六年(一、一五〇)のころすでに鎮座されていたとみられる。

 

 ○上新庄(かみしんじょう)・下新庄(しもしんじょう)

  石川郡富樫庄にある村で上新庄と下新庄に別かれている(今は丁目となる)。新庄の名はもとの富樫庄に対して更に新立の庄園にすると伝えております。

  上新庄は、「石川訪遊記」によると村の西に林一族の居館(えかん)とされる上新城遺跡があり「三百田」の水田から石棺が出土したという。富樫郷八幡神社に宝物として保管されている石像は、江戸期に百姓弥三右衛門(ひゃくしょうやそえいもん)が用水修理中に地中より発見し奉納した。(石川誌)

  下新庄は、富樫高家の子氏春(うじはる)に安塔されている。正保郷帳に村名がみえる三箇国高物成帳(さんかこくこうぶつせいちょう)に寛文(かんぶん)(一、六六一~七二)のころまで「ブエイ寺」とする真言宗寺院があった。建立は養老(ようろう)年中(七一九~二四)と伝えられる。

 「三州誌」によれば粟野五兵衛(あわのごえい)の館跡があったとされている。

  産土神の年代はあきらかでないが、岡本越前守の文書によれば、久安六年(一、一五〇)以前に鎮座されていた。明治三十九年に同村の白山社を合祀した。

 

 〇位川町

 池上白山神社の境内に「御手水池」があり、大乗寺主僧明峰祖哲(富樫氏出身)の葬儀を行うにあたり、白山権現が白雲にのりご影向ありと伝えられ、村人たちは白山権現がお参りされて手を清められた池として大切に守っている。正平五年(西歴一,三五〇年)

 

 

(5)押野地区

 ○御経塚(おきょうつか)

  昔この地に天台宗(てんだいしゅ)の真願時という、たいへん大きなお寺がありました。そして村人たちの信仰の中心となっていました。寺はもう跡方もありませんが、その寺跡と思われるところからお経をきざんだ石の塚がいくつもでてきました。村人たちは、その石の塚を経塚(きょうづか)とよびました。この名は経塚から起ったといわれています。正保三年(一、六四六)の高辻帳に御経塚村とかいてあり、いつとはなしにつけられたと伝えられています。

 

 ○野代(のしろ)

  石川郡横江庄に属する集落。富樫用水の分流十人川が集落の東側を北流する。

 「皇国地誌(こうこくちし)」正保郷帳(せいぼごうちょう)に野代神社の創立は、長久(ちょうきゅう)二年(一、〇四一)と伝えられ、明治初年(一、八六九)末野代(すえのしろ)と稱していたが、明治二十年(一、八八七)九月野代神社と改められた。家数七。

 

 ○押越(おしこし)

  富樫用水の分流十人川の集落。正保郷帳に村名がみえる。産土神白山社は養老年間(七一七~七二三)に創造されたと伝承されている。明治十三年(一、八八〇)九月に白山社を白山神社に改められた。

 

 ○押野(おしの)

  鎌倉期から存在していた荘園は、野々市の北部、外守・押野・押越・八日市・横宮・若松・横川・久安一帯であった。摂津(せつず)勝尾寺文書に「かゝの國をしの庄」と見える。

  貞和(ていわ)二年(一、三六四)四月十六日には、押野庄地頭(ぢとう)の藤原(富樫)家善(いえよし)が野々市にあった大乗寺の明峰祖哲(めいほうそてつ)に庄内田地(しょうないたち)五町と敷地を寄進した。(藤原家善寄進状大乗寺文書)富樫家善は加賀守護富樫高家の舎弟で富樫氏庶流押野氏の祖とされ、その館跡のものと伝える。近世絵図が残る(県立図書館蔵)庄域は富樫館に南接し、白山本宮に至る白山大道が庄内もしくは庄西辺(しょうにしべ)を通っていたと思われる。

  高皇産霊神社(たかみむすびじんじゃ)の創立年代はわからないが、押野山王神社は当社と伝えられる。富樫氏代々の館のあった村で信仰心が厚かった。明治四十二年(一、九〇九)清水社に合祀した。

 押野は、今は野々市町と金沢市と分村(ぶんそん)しましたが、昔押野庄(おしのしょう)と言って押越(おしこし)、八日市(ようかいち)、押野の三ヶ村からなっていました。

 ここに住んでいた富樫泰明(とがしやすあき)の子の家善(いえよし)を押野殿(おしのでん)といってその館は野々市にありました。

 押野の名のいわれは、はっきりしてません。

 

 

(6)郷地区

 ○徳用(とくもと)

  松任城主(まつとうじょうしゅ)鏑木頼信(かぶらぎよりのぶ)が松任に城をかまえ、この地方に勢いをはっていたところ、その一族に塚田徳用(つかだとくもと)という武士がいました。地名の徳用も、この塚田徳用がこの地に住んでいたためつけられたものだといわれています。

 この徳用町のようにその地を領していた、さむらいの名を取ってつけられたととして、 松任の倉光(くらみつ)町には倉光氏、徳光(とくみつ)町には徳光氏、宮永(みやなが)町には宮永氏、安田(やすだ)町には安田氏と沢山の町があります。

 

 ○稲荷(いなり)

  第九世富樫家近(とがしいえちか)(家通ともいう)が、応徳(おうとく)二年(一、〇八五)、白河天皇(しらかわてんのう)の鳥羽離宮造営(とばりきゅうぞうえい)をされることになり、人夫を集め京に上がった。御造営の場所に住み慣れた白狐(しろきつね)が、石垣が造られたため出られなくなったあため、石垣をはずし穴の中から三匹を助けた。その稲荷明神のお告げの「白狐の命を助けたお返し」として、国にかえって稲荷社を創建して祭ったのが長治元年(一、一〇四)である。この祭礼に小豆飯(あづきはん)をお供えしたことが、我が国での赤飯の始まりであります。三日市村の垣内となり、明治八年に三日市村に編入され、東三日市となったがその後、稲荷神社が存在していることから稲荷村と名つけられた。

 

 ○二日市・三日市

  往時は定期市場が毎月二の日は二日市に、三の日は三日市と、市店が立ち並び繁昌したといわれています。このように市の日を村名につけられたと思われます。

  二日市の八幡社は明治十四年(一、八八一)に荒川神社に改め、同四十年(一、九〇七)に長池村(ながいけむら)の八幡社を合祀した。

  三日市の神社の地に足利時代(あしかがじだい)(一、三四〇)初期に作られた薬師如来(やくしにょらい)を安置している。真言宗薬師寺院(しんごんしゅやくしじいん)を創建した。長享(ちょうきょう)二年(一、四八八)の一向一揆のころ薬師寺院の西方に大きな清水池(しみずいけ)があった。

 

 ○堀内(ほりうち)

  養老(ようろう)元年(七一七)、泰澄大師(たいちょうたいし)白山開山の折、神託により宇佐八幡(うさはちまん)の分霊(ぶんれい)を勧請(かんせい)したとつたえられる。中奥郷(なかおくごう)の總社として有名であった。明治初年(一、八六六)に八幡社としたが、その後同四十年(一、九〇七)四月、菅原社及び田尻村(たのしりむら)の八幡社を合祀し、明治八幡神社と改められた。足利時代の初期に堀之内の北西に清水池があった。

 昔、垣内(かきうち)の稲荷前(いなりまえ)とあり鎮守(ちんじゅ)の八幡社(はちまんしゃ)は泰澄大師(たいちょうたいし)が白山開山(はくさんかいざん)の折に創建(そうけん)され、中世には衰退(すいたい)するものの、中奥郷(なこくごう)の總社(そうしゃ)として有名であった。

 明治四十年に八幡社は、菅原神社(すがはらじんじゃ)を合祀(ごうし)し明治八幡神社(めいじはちまんじんじゃ)と改称した。

 

 ○田尻(たのしり)

  田之尻(たのしり)は、郷用水(ごうようすい)の分流東川支流前川(しりゅうまいがわ)などの流域に位置し、田ノ尻という「皇国地誌(こうこくちし)」によると産土神の八幡社は第七世富樫家国の勧請と伝えられ、境内に乳の宮と稱された。安産祈願(あんざんきがん)の石があった。明治四十年(一、九〇七)堀内八幡社に合祀した。

 

 ○柳町(やなぎまち)

  石川郡中奥郷に属する。柳町は、東は蓮花寺(れんげじ)・田中村集落の東方の郷用水の分流西川の中村用水の分流東川の間にある。産土神の八幡神社は、明治四十一年(一、九〇八)旧五歩一(きゅうごぼいち)の辰田(たつた)神社と旧番匠垣内村(きゅうばんじょうかきうちむら)の御姫川(ひめかわ)神社と合併し、中の郷神社となっている。柳町には柳樹があったという伝えがあります。

 

 ○長池(ながいけ)

  石川郡横江庄に属する集落。郷用水分流の大塚川流域に位置し、南は二日市、慶長(けいちょう)四年(一、五九九)、前田利家(まいだとしいえ)宛行状(あてぎょうじょう)に村名がみえる。家数五の集落、産土神八幡社は明治四十年(一、九〇七)二日市の荒川神社に合祀した。

 

 ○郷町(ごうまち)(旧下田中)

  郷用水の分流西川が流れ番匠垣内村(ばんじょうかきうちむら)の南東に位置し、本村(上田中)の枝村(えだむら)(下田中)がある。慶長五年(一、六〇〇)、前田利家と丹羽長重(にわちょうじゅう)が神前に契りを結んだという天満宮があった。

 上田中(今は松任)は菅原神社を祀り、下田中は(今は野々市)八幡神社を祀り、明治十四年(一、八八一)、菅原社は田中郷菅原神社、下田中は田中郷八幡神社に改められた。野々市町に編入のとき郷用水の名をとって郷町とした。

 

 ○蓮花寺町(れんげじまち)

  蓮花寺は、石川郡中奥村に属する村で郷村名義抄に、村名は古へにこの所に蓮華寺(真言宗)があったことから名をつけられたといわれている。その後浄土真宗が盛んになり大津の方に移った。

 熊野社は文治建久以前の創立でもと熊野三所の大神を鎮斉していたが、後に蓮華寺境内の守護神となり熊野社となった。

 

 

6.その他

 〇今城寺(いまきでら)

 中世鎌倉期(ちゅうせいかまくらき)に見える地名で、今来寺(いまきでら)の寺号(じごう)を持つ古代寺院(こだいじいん)が存在していたことによる。(源平盛衰記)寿永(じゅえい)二年四月、越前國(えちぜんのくに)の燧谷(ひらだに)における平軍(へいぐん)との戦いに敗れた北国勢(ほくこくぜい)が、越中(えっちゅう)に向かって敗走(はいそう)する途中、加賀斉藤氏の林系である林六郎光明(はやしろくろうみつあき)の嫡子(ちゃくし)の今城寺六郎光平(いまきでらろくろうこうへい)が討死(うちじ)にしたと語られている。

 今城寺は林氏の開発領(かいはつりょう)である拝師郷(はやしごう)の御城(おしろ)に含まれる地名と見なしてよく、中林の西隣(にしとなり)の末松地内(すえまつちない)の末松廃寺跡(すえまつはいじあと)(奈良前期)は今城寺の地名のもとになった。今来寺に結びつく可能性(かのうせい)が強いと思われます。

 

 ○鳥越城跡(石川郡鳥越村)

 標高三一二米の丘陵に築かれた鳥越城は、一向一揆のとりでとして名高く「おしろやま」として親しまれています。山内郡の統率者出羽守の築城といわれ織田信長運勢と激戦を繰り広げ最後まで抵抗したが、天正十年(一、五八二)柴田勝家により一向一揆は全滅した。

 

 ○九艘川(くそうがわ)

  北陸鉄道石川總線(そうせん)の馬替駅(まがいえき)のすぐ近くを「くそう川」という名の川が流れています。へんな名の川ですが、昔は舟がとうるほど大きな碇川(いかりかわ)の枝川(えだかわ)です。昔大野川から舟で二万堂~野々市と石炭(せきたん)・塩と生活物資をつんだ船が常時九艘も並んで川上へのぼる(鶴来)ことができた川だったので、九艘川の名がついたのだといわれています。

 車がないときですから川を利用して舟で物資をはこぶ、川の駅でした。

 

 ○馬市(うまいち)

 馬市は文正元年(一、四六六)より大正(一、九一七)まで、四百五十有餘年続いた馬市が法律によりなくなった。加賀藩のころは宿場駅(しくばえき)として馬七十三頭をもつ伝馬駅(でんまえき)がおかれ、馬の世話をする人、馬から荷物(こもつ)をおろす人、駅人夫(えきにんぷ)が、三百人働いていました。明治になって制度が変わり、なくなりました。

 

 

 ○鉄道馬車(てつどうばしゃ)

 明治三十七年(一、九〇四)、松任八ツ矢より野の市を通り、二万堂・有松・泉まで 鉄レールを引いて、その上に台車をのせて馬がひく鉄道馬車が開通した。馬が駅に近づくと少年馬丁(しょうねんばちょう)(乗務員)が馬からとびおりて、馬車がきたことを知らせるため、ラッパを吹きながら馬のせんとうを走って駅についたものである。馬十九頭、台車十四台あり、大正五年(一、九一六)になくなりました。

 

 

 

□あとがき

 富樫のふるさと、地名のおこり、富樫氏につながる町、その土地に住んでいた人達の地名を知り昔の歴史を少しでも知ってほしいと郷土を愛する願いから書いてみました。

 これからも更に勉強して歴史を楽しみながら読んでいただけるものにしたいと願っています。

 野々市に住むみなさまと多くの歴史を語り伝えることができることができるよう努力したいと思ひます。

 執筆にあたり、こども石川県史・石川神社誌・加能郷土辞彙、野々市小史を参考にいたしました。

 

  平成九年

 野々市町本町四丁目十二‐二

 嶋田 良三

 

 

独学・ふるさとの歴史研究