冨樫氏の館は、野々市町一日市町(現在本町二目)東南方鬼箇窪(現在住吉町)なること、口碑により明瞭であるが、確実にその地点を明らかにしたものはないが、住吉川上流荼毘所墓地より東方荒田町冨樫と称する地名(現在扇が丘)一帯なりといい、諸説粉々とあるが、安政五年(昭和六十三年より百三十年前)森田しゅえん氏の実測にかかわる図面によると、馬替往来より東方北陸鉄道石川総線に至るまで、即ち該舘址の西南角が倉ケ獄城跡岸頭午一度八分布市神社銀杏ノ木、子一度二分鬼箇窪領境松、末六度四分と各自その見当を表示してある。ヨ八十二番地(現在住吉町二二一番地)に当たるので、この地を基点として東方六十間五分北方七十間は疑いない所の舘址である。
又御倉跡御倉籔と称する地は現在高橋町の該舘址の北方であるから住吉町二二一番地より旧北國街道に至るまでのようである。
現在の地所の何れの辺りに当たるか測量図したもので、この範囲を以て國守冨樫氏舘址の全域なりと云うことは出来ない。
この地図は、僅かに残れる土居の一廓を示した。尚冨樫氏の舘址は、その基点よりも東方背骨境(久安境)現在高橋町に一ケ所あったようである。
この南方に同舘址一ケ所矢作町に冨樫諏訪野にあり、この数倍は裕にあったものと思う。元亀元年冨樫晴貞が野々市の大乗寺から伝燈寺に遁れて安政五年までここに三百八十九年、天正八年三月柴田勝家が野々市を灰燼に帰してから二百七十九年の長き星霜を歴れば、その間に遺形或いは破棄し撤去せられて、僅かに土居の一部が残っていたのを森田しゅえん氏によって測量製図したもので、この図面がなかったならば冨樫氏の居舘何れの辺か知る由も無かったのである。
この地域の地中を発掘せれば確かに証憑物も出て舘址全域も今少し判然とすると思われる。
舘址を基点とした表鬼門に諏訪ノ宮と舘址裏鬼門に御馬ノ宮と舘址に当たる位置が配置されていることがわかります。
明治二十二年頃まで荒廃の遺形が残っていたが、中町(現在本町三丁目)水毛生伊余門氏がこの荒廃せる原野を開墾して水田となした。
冨樫氏の舘址と印ず可き遺跡の無いようになるのを優へ、この地を実測製図した。同時に同氏は自費を捐して布市神社の境内に冨樫氏先業碑を建立して永遠に人をして野々市は冨樫氏累代国府置庁の地たることを知らしむるための碑となした。
大正六年耕地整理の際、該地の工事に従事した農家の人の話に依れば、土居跡に当たる箇所は地盤が堅く開拓に困難であったと伝えている。
野々市町本町四丁目十二-二
嶋田 良三
独学・ふるさとの歴史研究