京の都 応仁の乱
将軍職継承がもとで有力管領職細川氏と山名氏が東西に別れての戦い「応仁の乱」は、二十年続いた。(一四六七)
京の都は焼野原となり、公卿や朝廷に仕えている役人や僧侶・文人・画家・工芸者・芸能人・商人の多くは地方に難を遁れ、都は荒れた。
青蓮院門跡准后大僧正(聖護院道興准后)も文明十八年(一四八六)六月上旬、将軍足利義政と東山に決別し、近江・若狭・越前・加賀を得て幕府の管領職を務めた重鎮能登国守護七尾城主畠山義統を頼り、その庇護を受けた。
畠山氏の居城七尾譲は「菊の尾・竹の尾・梅の尾・松の尾・亀の尾・虎の尾・龍の尾」の七つの屋根からなる山城で、名付けて七尾城と言う。
府中所口は、能登内海湾(七尾湾)にある良港で、対朝鮮・対明貿易で戦禍の京の都と違って、城下の街は大変活気をおび賑わっていた。
聖護院道興准后が能登に降る其の途次の旅日記「廻國雑記」に、加賀國では十二首・能登國では七首を詠んでいる。
一. 立花(江沼郡橘) たちばなといへる所に宿をかり侍りて
「旅立も さつきの後の 身なりけり 我に宿かせ たちばなの里」
二. 動橋しき地 いなみ うち過ぎて いぶりはしとて あやうく いぶせき 橋に行かゝりぬ
「行く暮て ふめばあやうき いぶり橋 命かけたる 波の上哉」
三. 本折(小松) もとおりを通り侍りけるに 人のきぬを織けるを見て
「たれかもと おりそめつらん よろこびを くはふる國の きぬのたてぬき」
四. 佛の原(能美郡佛午前の生地)
「我たのむ 佛の原に今きてぞ おこのふ道の かひぞしらるゝ」
五. 吉野川(石川郡) ほとけの原といへる所を過ぎ侍るとて 吉野川といへる所にいたりて
「妹背山 ありとはきかず ここにしも よしのゝ川の名に流れつゝ」
六. 白山禅定に侍りて三の宝にいたり侍るに
「雪いと深く侍ければ 思いつづけ侍りける 白山の名顕はれて みこしぢや峰なる雪の消る日もなし」
下山の折ふし 夕だちし侍りければ
「ゆうだちの雲は しらねの雪き消ゆるかな」
七. 吉岡 白山禅定し侍りて 三の室に至り云々 これより吉岡といへる所に暫く休みて
「旅ならぬ 身もかりそめの 世なりけり うきもつらきも よしや よしおか」
八. 剣(鶴来)下白山といひて 本の白山の麓に剣といへる所侍り そのかみ剣飛来りしより此の名を残しけるとなん
「しら山の雪のうちなる氷こそ 麓の里の つるぎなりけれ」
九. 矢作 こよひは 矢はぎの里といへる処に やどりけるに 暁の月をながめて
「こよひしも 矢はぎの里にゐてぞ見る 夏も末なる 弓張の月」
十. 野の市 明れば野の市といへる所に村雨に逢い侍りて
「風おくる ひと村雨に虹きへて のゝ市人は 立ちもをやまず」
十一. 津幡(河北郡)津ばたという里にやどりけるに 住人もまれにて ことの外閑素に侍りければ
「旅人の枕の上におく太刀の つばたの里は さびわたりけり」
十二. 高松 同じ國高松といへる所に行暮れて 煙のたつをながめやりて
「すむ人の たのむ木陰やそれならん 烟にくるゝ 高松の里」
能登路巡行の旅
一. 能登の國菅原(羽咋郡)という所にて
「伏見には あらぬ野山を分け過ぎて 今宵かりねを菅原の里」
二. 杉野屋の里を通るとて
「侍人の思ふしるしのみえねども 問はではいかで杉野屋の里」
三. 四柳(鹿島郡)四柳保 よつ柳といへる所に柳のあまた侍りければ 立よりて
「里人の鞠の庭にはしめねども いとなつかしき よつ柳かな」
四. 小金森といへる所にて しばらく休て(高畠)
「陸奥の山に花さくこがねもり 此里までも種やまきけん」
五. 藤井といへる所は浦ちかき里なれば波をみてよめる
「浦近きやどりをしめて春ならぬ 藤井の里も波になれつゝ」
六. 久江(鹿島郡久江保に属する)久江のやちという所にてよめり
「心からうきすまひにも馴めらん 八千たび何を くゑの里人」
七. 石動山 石動山に参り詣して法楽し奉る
「動きなき みよに変わりて石動の 山とは神や名けそめけん」
二年後には一向一揆が起こる。
野々市町本町四丁目十二-二
嶋田 良三
独学・ふるさとの歴史研究