日本国に約八万の神社があります。その中で三重県(みえけん)伊勢市(いせし)の伊勢神宮(いせじんぐう)は古くから「伊勢(いせ)さん」として親しまれてきました。
我が国の古来からの宗教では森が神の住む世界であった。伊勢神宮参拝者は俗界(ぞうかい)と聖会(せいかい)のかけ橋とされる宇治橋(うじはし)を渡り、森の中にある正宮を目指す。うっそうとした杉木立の葉が擦れ合う音を聞きながら玉砂利(たまじゃり)を踏みしめる。
参拝の前に御手洗(みたらし)を五十鈴川(いすずかわ)でする。石畳を下り、川に手を浸し清らかな香り水ですすぐ、水は本来、無味無臭(むみむしゅう)であるが神路山(かみじやま)の原生林を流れてきた川は自然のふくいくたる芳香をたっぷりと含んでいる。歩を進めると、次第に空気が清浄されていくのを嗅覚で感じ、全身が自然の香気に包まれる。いわゆる「森林浴」で古代の人は経験的に知っていたのである。
日本人みんなの心のふるさと、伊勢には日本人みんなの大御祖神(おおみおやがみ)の天照大御神(あまてらすおおみかみ)がおまつりされているからです。
正しくは「天照坐皇大御神(あまてらしますすめおおみかみ)」と言います。天に照り輝く太陽のように宏大無辺(こうだいむへん)な光を与えてくださる皇室の御祖神(みおやかみ)であり、私たちみんなの祖先の神さまです。
皇孫瓊々杵尊(こうそんににぎのみこと)が、この国土に降られるとき、天照皇大御神は、八坂瓊勾玉(やさかにのまがたま)と八咫鏡(やたのかがみ)と草薙剣(くさなぎのつるぎ)の三種の神器を授けられて、皇位と国家の永遠を祝福され、
「吾(あ)が児(みこ)この宝鏡を視(み)まさんこと、まさに吾(あれ)を視るがごとしすべし、ともに床(みゆか)を同じくし、殿(みあらが)を共(ひとつ)にして斎鏡(いわいのかがみ)となすべし」と神勅(しんちょく)を下されました。
この御鏡(みかがみ)こそ、伊勢の皇大神宮(こうたいじんぐう)に天照皇大御神の御霊代(みたましろ)としておまつりする神鏡です。
古代の鏡は貴重でありました。太陽の明るい光を反映し、ありのままの姿を写す鏡は不思議な霊力がこもるものであり、太陽のシンボルでもありました。その御鏡を代々の天皇は神勅のままに、同床共殿(どうしゅうきょうでん)で皇居の内におまつりし、厚いご崇敬をささげておられました。
今から二千年以上も昔第十代の崇神天皇(すじんてんのう)の御代(みよ)、「日本書記(にほんしょき)」によると、国中に疫病が流行し災害がつぎつぎに起ったという。天皇はどうしてだろうと占いをされました。
皇居の外の日本で最も良い所で奉斎(ほうさい)すべし」との御託宣(ごたくせん)がありました。
そこで崇神天皇は皇居の近く、大和の笠縫邑(かさぬいのむら)に神籬(ひもろぎ)をたてて皇大御神(すめおおみかみ)をおまつりし、皇女の豊鍬入姫命(とよさきいりひめのみこと)が日夜ご奉仕なさいました。
第十一代の垂仁天皇(すじんてんのう)の御代、皇女の倭姫命(やまとひめのみこと)が、さらにもっと良い宮地を求めて各地をご巡幸されました。
まず大和の国、そして伊賀(いが)、近江(おうみ)、美濃(みの)の国と八十九年間に十二ヶ国御還座(ごへんざ)二十九回あちこち巡られてから伊勢の国へ入り、度会(わたらい)の宇治の五十鈴川の川上にこられ、ここを大御神さまのご神慮に最もかなった大宮地(おみやち)だと定められました。
当時の大和地方の人々にとって、伊勢は海に近い東の国のはずれであり、太陽の昇る地であった。伊勢の海のかなたには常世(とこよ)の国という理想郷があり、そこから永遠の祝福を与えてくれる波がたえず打ち寄せてくる所という信仰のある「可怜国(うましくに)」でありました。
うましの国とは、五十鈴川の流れる風光明媚(ふうこうめいび)な美(うま)し国であり、海の幸、山の幸に恵まれた、神々へのおいしいお供えものが豊かな国であるということができましょう。
1)大和笠縫邑 2)丹波吉佐宮 3)大和伊豆加志本宮 4)紀伊奈久佐浜宮 5)吉備名方浜宮 6)大和弥和乃御室嶺上宮 7)大和宇多秋宮 8)大和宇多佐々波宮 9)伊賀隠市守宮 10)伊賀穴穂宮 11)伊賀敢都美恵宮 12)近江甲可日雲宮 13)近江坂田宮 14)美濃伊久良河宮 15)尾張中島宮 16)三河渥美宮 17)遠江浜名宮 18)伊勢野代宮 19)伊勢忍山宮 20)伊勢阿佐加藤方樋宮 21)伊勢飯野高宮 22)伊勢佐々牟江宮 23)伊勢伊蘇宮 24)伊勢瀧原宮 25)志摩多古志宮 26)志摩宇久良宮 27)伊勢宇治家田田上宮 28)伊勢奈尾之根宮 29)伊勢五十鈴川上宮(内宮)
・豊受大神宮(とようけだいじんぐう)
皇大神宮(内宮)が御鎮座なさってから五百年ほどたった第二十一代雄略天皇(ゆうらくてんのう)の二十二年のある夜のことでした。
雄略天皇の御夢に天照神大御神があらわれて、「丹波の国の比治(ひじ)の真名井(まない)の原という所にまつられている豊受大神を御饌(みけ)つ神として私の近くによんでほしい。一人では大御食(おおみけ)(お食事)も安心して食べられない」と神示がありました。
内宮(ないぐう)と外宮(げぐう)
そこで天皇は丹波(たんば)の国(現在の京都府・兵庫県北部)から豊受大神(とようけおおみかみ)を伊勢の度会の山田原にお迎えしてお宮を建てられました。これが豊受大神宮(とようけだいじんぐう)であります。
御饌つ神とは、稲をはじめとする五穀の主宰神で大御神のお食事をつかさどり、衣食住ひいては、すべての産業の守り神であります。お伊勢さんには内宮と外宮があるのですか、とよく聞かれます。先に記したように、内宮の御祭神は私たちに生命の本源をあたへてくださった大御祖神(おおみおやかみ)であるが、私たちはただ生命があるだけでは生活ができません。毎日いただく食物をはじめ衣食住の恵みがなければ絶対に生きていかれません。生きていく、生かさせていただく、最大にして最小の要素が、内宮と外宮の御神徳(ごしんとく)に集約されていて、日本人として、いや人間として感謝すべき源が伊勢におまつりされているとお話しますと、ほとんどのお方は納得され、「それでどの宗教の人々も伊勢神宮にはお参りするのですね」といわれます。
・藤原氏の姓のおこり
天児屋根命の職掌(しょくしょう)は霊媒と卜占(ぼくせん)とに依る神人の中継と祝祠(のりと)の奏聞(そうぶん)による諸罪抜除(しょざいばつじょ)を典掌とした。そして皇祖の神話を奉じて天孫の降臨に供奉し葦中津国(あしなかつのくに)御経略の天業を翼賛(よくさん)し其の孫の天種子命(あめたねのみこと)、神武天皇(じんむてんのう)の東征に供奉し協心翏力して建国の皇謨の翼賛に仼じ殊勲があった。天児屋根命の霊は久しく常陸国(ひたちのくに)鹿島神宮に建御雷之男神(たけみかづちのおのかみ)と同社殿に祀られていたが、中頃神鹿に騎して大和国生駒山西鹿(やまとのくにいきこまやませいろく)の平岡に移り、さらに奈良の春日神社に合祀された。
春日神社の神鹿は天児屋根命の霊が常陸国鹿島神宮から此れに騎乗して大和国に移られた事に由緒とある。天種子命(あめのたねこのみこと)より十九代の孫御食子(みけのこ)の子中臣の子鎌子(鎌足)は中大皇子(なかおおえのおうじ)(後の天智天皇)をたすけて大化の新制に偉勲あり、その臨終にのぞみ天智天皇より大織冠(だいしょくかん)に補され藤原の姓を賜った。鎌足の子孫は藤原氏を姓とし代々大政の輔弼(ほいつ)に任じた。
又御食子の弟国子は中臣の姓を犯し代々神事を典掌し神官諸家を統轄した。国子より二十六代清宣の時に至り藤波氏を稱し中臣の姓は絶えた。
白鹿之図
白山は日本三名山の一つに数えられる山といわれております。
白山は御前が峰(二,七〇二メートル)と大汝峰(おおなんじみね)(二,六八四メートル)と別山(二,三九九メートル)と三山合わせて白山と呼びます。
加賀・越前・美濃と三国の国境にそびえる白山は古くから死者の入山する霊山として信仰されております。
「賽河原(さいかわら)・畜生谷(ちくしょうたに)・阿弥陀(あみだ)が原」などと呼ばれる霊地があります。山麓の人々にとってこの山は祖霊の宿る聖域であり、農耕に不可欠な水を供給する神の山でした。富樫氏歴代にわたり白山禅定惣長史(しらやまぜんじょうそうちょうし)として神に仕へた。
白山は奈良時代養老元年(七一七)に僧泰澄大師(たいちょうたいし)により開山されたと伝えられています。
・白山比咩神社(しらやまひめじんじゃ)
白山三山の主峰御前が峰に白山比咩神社の白山本宮が祭られています。御前が峰の神は伊弉諾尊(いざなぎのみこと)伊弉冉尊(いざなみのみこと)と白山妙理大菩薩(はくさんみょうりだいぼさつ)(菊理媛(きくりひめ))ともいい、その真のお姿は十一面観音菩薩であります。
白山大汝峰の神は大己貴命(おおなむちのみこと)であるが本当のお姿は阿弥陀如来(あみだにょらい)であります。
白山別山の神は小白山行事といい、真のお姿は聖観音菩薩であります。(大山祇命(おおやまづみのみこと)ともいう)
こうした白山の神の垂迹(すいじゃく)(かりのお姿)と本地(真実の形)をはじめて明らかになされたのが僧泰澄大師であり偉大なお方であります。
平安時代の天長九年(八三三)には加賀・越前・美濃の三国にそれぞれ馬場が開かれ、白山登拝のため禅定道の基点として賑わっていました。
平安時代には神佛習合思想(しんぶつふごうしそう)が広がり、白山に「白山宮」と「白山寺」が祀られていました。
「白山寺」が天台宗延暦寺(てんだいしゅうえんりゃくじ)の別院となり、又白山本宮の白山比咩神社は白山修験道の発展とともに全国各地に末社を拡大し「白山衆四千社」を数ふと稱せられる程の一大勢力を持つようになりました。
白山本宮の末社は岐阜県の五二五社を筆頭に北は青森県九社から南は鹿児島県の七社まで全国二,七一六社にも達しています。
白山神社は合祀されて白山を名乗らない神社末社を含めると白山を祭った神社は数倍数十倍ある可能性もあったと指摘する。
明治初年の神佛分離の際に白山から引下ろされた。下山佛など白峰村の林西寺(りんさいじ)や尾口村尾添(おぞう)の白山神社に安置されております。
「白山三所権現守護札(白峰村風岩淨光寺蔵)白山本宮地佛の十一面観音菩薩を中央上部に阿弥陀如来と聖観音菩薩を左右に配す」とくに室町時代末期から江戸時代を通じて庶民にとうとばれた。
室町に入って聖護院道興准后の登山されたときに、その著廻国雑記に「白山禅定し侍りて三の室に至り侍るに、雪いと深く侍りはれば思ひつづけ侍りけるとして「白山の名に顕はれてみこしぢや峰なる雪の消る日もなし」下山の折ふし夕立し侍りければ夕立ちの雲はしらねのゆき消かな」と詠じた。
○岐阜県五二五社 ○福井県四二一社 ○新潟県二三二社 ○愛知県二二〇社 ○石川県一五六社
○富山県一〇六社 ○埼玉県一〇二社 ○長野県九十六社 ○群馬県九十三社 ○秋田県八十六社 ○山形県七十六社 ○静岡県五十六社 ○千葉県五十三社 ○栃木県四十四社 ○福島県四十二社 ○茨城県四十一社 ○東京都四十社 ○宮城県三十社 ○滋賀県二十七社 ○岩手県二十七社
○三重県二十六社 ○山梨県二十五社 ○福岡県二十二社 ○神奈川県二十一社 ○奈良県十五社 ○徳島県十四社 ○佐賀県十二社 ○京都府十一社 ○熊本県十一社 ○兵庫県十社
○青森県九社 ○大分県九社 ○和歌山県七社 ○高知県七社 ○鹿児島県七社 ○大阪府六社 ○山口県六社 ○長崎県六社 ○愛媛県六社 ○鳥取県四社 ○ ○香川県三社 ○島根県二社
○岡山県二社 ○広島県二社 ○計二,七一六社
道興准后は白山・吉岡・剱を通過し、矢作に宿り、今宵は矢作の里といえる所に宿りけるに暁の月をながめて「こよひしも矢作の里にゐてぞ見る夏も末なる弓張りの月」と詠じた。野々市の活気満ちた村人を讃え京都に劣らぬ繁栄と活気あふれる多く人が行きかい仕事に励む街の姿を讃えて、
「風おくる一村雨に虹きえてののいち人はたちもをやまず」と詠じた。
===[part]=== ==[pt]本町地区神社[/pt]==旧 富樫郷住吉神社
境内聖地 706坪
・一日市町(現在本町二丁目)
布市神社の祭神は上筒男命(うわつつみのみこと)・中筒男命(なかつつみのおのみこと)・底都海都見命(そこつわたつみのみこと)の住吉三柱と天照大御神・天児屋根命・富樫忠頼公の神霊・応神天皇(二柱)菅原道真公九柱である。
永延元年(九八七)人皇第六十六代一条天皇の勅に依り、加賀国司として下向し、醇政を布いたので国民その化に親しみ西暦元年(九九〇年)朝廷に奏して重任を乞い、正暦四年(九九三年)永住の勅諚を賜った、その時天皇忠頼に前記住吉三柱の神像を賜ひ、爾の封国は、巨河数流に流れ、年中水漫恒に行客日を累して渉るはず、この頃越前の敦賀、能登の福良より韓唐人の入込み、国内を騒さんとするおそれあり、此の明神の利益を以って、難事を避よと宣し給へり、忠頼つつしみて拝領し、同年石川郡出城村、武松の野原に社殿を造営した。神霊をここに奉祀し、これより富樫氏の守護神として、観請するようになった。
是れ富樫郷住吉神社の前身である。
康平六年(一〇三六年)富樫家国(とがしいえくに)(七世)加賀国府を野々市に移し、同時に武松より明神をその社殿に遷し、富樫忠頼郷の神霊をも合祀し、領内の総社とした。富樫氏には天朝から拝領した神として諸郷何れも、朝夕礼拝するようになった。
この御遷宮(へんぐうみや)の日に相当する八月十六日には、毎年武松の里人地先の浦辺にて獲たる魚四十八尾を三尾宛十六籠に盛り、献供し来りて御贄の祭儀行うた。この祭儀は遠く、武松の時代からあったものである。長享二年(一四八八年)の御贄祭留書によれば武松の衆十人野々市の衆三十八人合計四十八人が、昼未の刻から塩魚供進の神事に取掛り、終って塩魚を酢鯰にして、朴葉に分ち盛り、富樫氏より給はった。白酒と共に両村衆は、社頭にて酒盛りを開き、夕酉の半刻から巫女が先頭に立ち、鈴を振り鳴らすを相図に、一般衆が舞い廻ったそうである。この舞歌は盆踊りの条に載することとする。現在の野々市の盆踊りは、この神楽舞の転訛でなかろうかと察せらる。
野々市の祭礼には必ず戸毎に小竹笹に寿司を作るようになった。祭礼の寿司は野々市より発祥したものである。
この諸神は往時野々市各所に鎮座し何れも富樫氏の勧請の神霊であったが、大正三年(一九一四年)十一月二十日富樫郷住吉神社に合祀して布市神社と改名した。
神社前左に前田利常が北国街道に植えた松がある。
・西町(現在本町四丁目)の鎮守、照日八幡神社(てるひはちまんじんじゃ)の祭神は天照大御神(あまてらすおおみかみ)・天児屋根命(あめのこやねのみこと)・応神天皇(おうじんてんのう)の三柱の神霊である。
同神社の創建は建久の頃(一一九〇年)第十三代富樫家春の勧請によるものである。場所は西表田圃で八幡田という田地に建立されていたが、天正八年(一五八〇年)まで鎮座給う。その後(現在本町四丁目一六-三川上家)附近に遷宮された。
・六日町・中町(現在本町三丁目)の鎮守、富樫郷住吉神社の祭神は上筒男命(うわつつみおのみこと)・中筒男命(なかつつみおのみこと)・底都海津見命(そこつわたつみのみこと)・富樫忠頼(とがしただより)の神霊である。
・荒町(現在本町一丁目)の鎮守。外守八幡神社(そでもりはちまんじんじゃ)の祭神は応神天皇・菅原道真公の二柱の心霊である。
天満宮と併合した宮である。八幡宮は何処に鎮座せられたか明らかでないが慶長の頃(一五九六~一六一四)大乗寺境内跡で野々市村ノ三十番地(現在本町一丁目五-一〇附近)一帯に鎮座されていた。大正三年十一月二十日富樫郷住吉神社に合祀された。
・稲荷社(いなりじんじゃ)
布市神社境内に稲荷社二社鎮座されている。
向かって右側は天照日八幡神社西町(現在本町四丁目)に鎮座されていた。
向かって左側は元外守八幡神社荒町(現在本町一丁目)に鎮座されていた。
二社とも大正三年(一九一四)十一月二十日富樫郷住吉神社に合祀のとき境内に安置された。
白山神社の祭神は大己貴命(おおなむちのみこと)・大山祗命(おおやまづみのみこと)・菊理比咩命(きくりひめのみこと)の三柱の神霊である。
永延元年(九八七)加賀国司富樫忠頼郷が高安荘(こうあんしょう)野々市の総鎮守として建立された。始め大野街道沿いの北横ノ宮地に鎮座されたが同村との距ろこと遠く、文化文政の頃に今の地に遷宮された。(一八〇四~一八三〇年)
大きな森の鎮守の宮で天狗が住んで毎夜丑の刻には天狗の奏する音楽が聞こえるといわれた。
夏になると同宮の前に宮田一帯に大きな金網がはられ、その中に「ホタル」をはなして夜空に「ホタル」が散乱し舞ひ、金澤・近郷から大勢の観衆が見物に押し寄せ、野々市の「ホタル」名所で賑わい楽んだ。毎年の行事で他村には見ることが出来ない。現在も祠が一棟あって、大きなタブの木が生い茂っている。
一、富樫昌家の頃 信長の御神刀(大乗寺の白山霊水で名刀を鍛えた)
一、奉額 住吉大明神 江戸時代の佐々木志津摩の揮毫による木額
一、源平八嶋海戦図 絵馬 狩野明信(文化の人物)
一、赤穂義士討入図 絵馬 (元禄十五年 一七〇二) 一、天満宮額
一、聖徳太子一代記図 絵馬(嘉永二年 一八四九) 一、獅子頭
一、石山合戦図 絵馬(安政二年 一八五五) 一、武内宿禰
一、和算額 (安政五年 一八五八) 一、神功皇后
○境内
先業碑 富樫氏館跡
安政元年(一八五四)水毛生伊余門氏は富樫館跡地(現在住吉町)が荒廃の野原になっていた地を私財を投じて十数年にわたり十数町歩を開墾した。この地を村民に与えて償を求めなかった。
明治二十二年(一八八九)富樫館跡地を後世に伝えるため布市神社境内に先業碑を建立した。
○公孫樹
この古木公孫樹は何時頃植えたか諸説あり明らかでない。第四代忠頼ともいい、第七代家國ともいい、第十二代泰家ともいい、木村孝信ともいい、樹齢から察するに忠頼・家國は遠きに失し木村孝信としては近いと思ひ、或は泰家と思われる。
文治二年(一一八七)社殿造営の時に植えたと記してある。木村孝信が織田信長の臣となり、野々市に在住し不破河内守光治に属し住吉神社境内に植えしものなり
○常夜燈
常夜燈二基あり年代は嘉永二年(一八四九)五月建之と見える。石工大阪長堀江戸屋七兵衛とあり、大阪湾から舟で大野港を経て九艘川(野々市)の水駅まで運んだものと思われる。九艘川上流額新保附近(乙丸)枝川が合流する川が古へ唐舟が碇を下したので碇川と名がついたと伝えられる。
表参道に二重屋根の献燈一基あり石積みの古いもので年代不詳富樫郷住吉神創建当時のものと思われる。調査を待つ。
○弁慶の力石
この石は文治二年(一一八六)三月三日源義経が北陸路を潜行した時武蔵坊弁慶が富樫館を訪ねて勧進を乞い弁慶が延暦寺に伝わる延年の舞を披露し、弁慶が力持ちの曲芸を演じ泰家の縦覧に供した。この石を投げた日照が続いたときこの石をかづき回ったところ雨が降り雨乞石と呼ぶようになった。旧西町(本町四丁目)照日八幡神社に移されたが大正三年(一九一四)十一月同神社合祀のとき富樫郷住吉神社に移されました。
○聖護院道興准后
道興准后は後知是院関白藤原房嗣(ふじはらふさつぐ)の子にして聖護院の門跡たりき文明十八年(一四八六)六月上旬足利義政に東山に快別して若狭越前を通過し加賀に入り立花・動橋・小松本折・白山・吉岡・剱を通過し矢作に宿り、今宵は矢作の里といへる所に宿りけるに暁の月をながめて「こよひしも矢はぎの里にゐてぞ見る夏も末なる弓張の月」藤岡諏訪神社境内(矢作町)野々市を通過せられ、野々市の活気に満ちた村人を讃え廻國雑記に京の都に劣らぬ繁栄と活気あふれる多く人が行きかい仕事に励む街の姿を讃え「風おくる一村雨に虹きえてののいち人はたちもをやまず」 布市神社境内(本町二丁目)
○観音堂
観音堂は一日市町ラ一五二(現本町二丁目九-一四)笠間氏宅に鎮座されていたが明治維新に廃佛の余波を受けて廃止となり本堂を布市神社境内に移した。
○忠魂碑
忠魂碑は明治四十三年(一九一〇)五月二十九日建立された。日清戦役(明治二十七年)日露戦役(明治三十八年)昭和の大東亜戦役に従軍され戦死されました方々の英霊を祀られています。
明治四十一年十一月八日総会を開き全員一致で可決決定されました。委員の木戸惣太郎氏・伊藤孫太郎氏・喜多直次氏等は石材購入に上京し(京都)在京都木戸典三郎氏の周施により京都内田石材店と契約し大阪市西区今木町柏原市太郎石材店より小豆島産花崗岩を購入して大阪駅より松任駅まで六トン貨車で運び、松任駅より野々市まで運ぶ車がなく村民総出で北國街道沿いに木呂を置き石を引きずり二日間かけてようやく富樫郷住吉神社まで運んだ。村民の方々の苦労が記録されています。
明治四十二年一月二十三日起工式
明治四十二年三月二十四日題字揮毫
金沢聨隊区司令官、総理大臣兼内務大臣元師公爵 山形有朋閣下
題字彫刻 金沢石工 飯田庄三郎氏
明治四十三年五月二十九日除幕式が行なわれた。関係者多数参加された。
野々市村立郷軍人団理事長 瀬尾爾郎氏
野々市村立在郷軍人団長 釜 吉三郎氏
野々市村立在郷軍人団員 稲坂 清八氏
忠魂碑建立について村民の方々野々市村立在郷軍人会の方々と歩兵中尉釜吉三郎氏の功績を讃えたいと思ひます。
忠魂碑の基礎に松木九本立て土は高尾城山より購入する。
○天満宮
天満宮は旧中町(現本町三丁目)社名不明の宮一社照台寺南方表田圃御米供田にあったと伝える。
野々市天満宮の向うに白山水あり、是れ古へ大乗寺此地にありし時の白山水也(下略)
金沢古蹟志
○旧北國街道の松木
布市神社標柱の近くに松木が旧北國街道沿いに植えたと伝えられる。藩政時代前田利常が街道沿いに松並木が形成され藩政期に景観と積雪時の往来の便を考え、又万一に備えて木に隠れることを考えられると伝える。松並木は老衰による枯死殆んどなくなった。この松木が四百年の才月を経て往時の面影をしのばせる由緒ある松木を長く残していきたい。
○本殿
本殿は往古葺ぶき屋根であったが昭和十二年(一九三七)新築御造営されました。大阪住吉大社造りで破風は切妻造り、千木組合せ竪魚木五本のせてあります。
堅魚木(カツオギ)
○布市神社に伝わる武内宿禰(たけのうちのすくね)・神后皇后(じんぐうこうごう)
武内宿禰は大和朝廷の初期に活躍したスーパースターである。
父は第八代孝元天皇の子である比古布都押之信命(ひこふつおしのまことのみこと)というから孝元天皇は祖父にあたる。
母は山下影日売(やましたかげのひめ)といい、波多八代(はたやしろ)宿禰をはじめとする七男二女の九人の子がいる。新羅(しらぎ)から凱旋した神功皇后(しんこうこうごう)はわが子品陀和気命(はむだわけのみこと)(のちの応神天皇)とともに都に向う道すがら、仲哀天皇(ちゅうあいてんのう)の庶子香坂王(かこさかのみこと)・忍熊王(おしくまのみこと)の二人は神功皇后一行の歸還をはばみ兵を集めて反抗したが香坂王は途中大猪に噛み殺されるという事故にあった。
一方神功皇后は武内宿禰と連合して山城国(京都)宇治に忍熊王と対戦した。このとき武内宿禰は計を策してしまった。これを見た忍熊王も同じように自軍の武器を捨ててこれに応えた。
計略が的中したことを確かめた。武内宿禰は全軍にかねて用意しておいた剣を執らせ、頭髪に隠した弦を取り出して弓に張り猛然と攻め立てると忍熊王は戦うすべもなく総くずれになって敗退した。
武内宿禰はなおも追撃の手をゆるめず、完全にこれを追いつめると忍熊王はたまらず瀬田川に身を投げて死んだ。これより前、武内宿禰は第十三代成務天皇の時代にわが国初の「大臣」になった人で日本の総理大臣の始祖である。
大正から昭和にかけて、発行された五円紙幣・一円紙幣の肖像画に用いられたことから経済の神として知られる。
○神功皇后(じんぐうこうごう)
神功皇后の父は開化天皇(かいくわてんのう)の流れをくむ息長宿禰王(おきながのすくねのみこ)母の名は葛城之高額比売(かつらぎのたかぬかひめ)(新羅国王の子天日矛命(あめびはこのみこと)の後裔)二女一男の長姉である。名を息長帯比売命(おきながたうしひめのみこと)といい、気長足姫尊または息長帯姫命とも書く、またの名を大帯姫命(おおたらしひめのみこと)ともいう。
二十四代のとき、仲哀天皇(ちゅうあいてんのう)(第十四代)と結婚してから神功皇后と稱されるようになった。神功皇后は女ながらに、智仁勇にすぐれた人で、その実力は今でいうならイギリスのサッチャー首相に相当するような人ではなかろうか。
九州の熊襲は日本武尊に平定されたのち、しばらくは平穏を保っていたが、またまた謀反をたくらんでいるという。
当時、朝鮮南部に任那(みまな)という国があって、日本と親交を結んでいた。任那は新羅と百済の両国に面して常に平和をおびやかされていた。特に新羅は任那がものにしようと画策するがなかなか思うようにならない、そこで熊襲をそそのかせて日本を混乱させて、任那への援助を妨害せんとしたのである。
これを知った神功皇后は仲哀天皇とともに、熊襲征伐の行動を起こした。だが熊襲の頑強な抵抗にあい、仲哀天皇は自らも敵の矢を受け、戦況不利のまま香椎(かしい)に引き返したが、この傷がもとで間もなく死亡した。
替わって神功皇后が平定に向うと、熊襲の諸将はことごとく降服して、第一の目的は達成したのである。
私はこれまで「文字」の夢を見ることはありませんでしたが八月六日夢枕に見た夢は家を出てどこかお参りに行く途中景色のよい緑りの濃い森でした。太陽の光りに照らされていた。御影石に「日本武尊」と書いた碑が建立されておりました。
環境のよい明るいところでしたので、その碑を見ながら散歩しておりました。
兼六園の日本武尊の銅像を思ひ西南の役で亡くなられた方や、日清、日露戦役で亡くなられた方の霊を祀る日本武尊と思われた。日本一強いと尊称された日本武尊、草薙剣(くさなぎのつるぎ)も一段とさえ渡り蝦夷(えみし)地を征伐した瞬間に夢が消えました。眼がパットさめましたので時計を見ると午前三時でした。今想うに「日本武尊」という夢を見たのだろうと一日中不思議でならなかった。
日本武尊は第十二代景行天皇(けいこうてんのう)を父に針間之伊那昆能大郎女(はりまのいなびのおおへらつめ)を母として三番目の子(兄の大碓命(おおすのみこと)とは双生児)として生まれたのが小碓命(こうすのみこと)(日本武尊の幼名)である。また名を倭男具那命(やまとおぐなのみこと)とも云う。ちょうどその頃九州に熊襲(くまそう)の一族が朝廷に背いて猛威をふるっていたので天皇は小碓命に命じて征伐させようとした。この時小碓命はわずか十六才見目うるわしい美少年のやさしい力持ちという勇敢な少年であり、またすぐれた歌人でもあった。
小碓命は九州に渡り、熊襲のようすを探るうち一族を集めての大酒盛りがあることを知り、当日小碓命は服装髪型を整えて少女に扮装し、多くの侍女の中にまじって宴席の手伝をしていた。夜もふけるにしたがって皆酔いつぶれてしまった中に熊襲だけ只一人小碓命の美しさに心をひかれながら尚も杯を重ねていた。
機会をうかがっていた小碓命は熊襲に近づき、たちまちねじ伏せ懐中にかくし持っていた短刀で胸をつらぬいた。
熊襲は驚いて苦しい息の下から「あなたは何という方ですか」と聞くので小碓命は「われこそは大帯日子淤斯呂和気命(おおたらひのこむしろわけのみこと)(景行天皇)の子倭男具那命である」これを聞いた熊襲は「わが国では私より強い者はおりません。これからは日本武尊と名乗って下さい」と言って息絶えた。
熊襲は本名を川上梟師(かわかみたける)といい、熊襲族の頭目であるが、それよりも強いという意味で自ら日本武尊という名を贈ったのである。
九州にはびこる賊徒は平定したが今度は東国の蝦夷がそむいて騒がしくなった。天皇は再び日本武尊に命じて蝦夷征伐に向う
○草薙剣の由来
大和国を出発した日本武尊は途中伊勢に寄り、大神宮に戦勝を祈願した。この時大神宮に奉仕している叔母の倭比売命(やまとひめのみこと)は天叢雲剣(あめのむらくものつるぎ)(素戔鳴尊(すさのおうのみこと)から天照大神に献上した神剣)と小さな袋を授け「非常の場合はこの袋の口を解きなさい」の告げた。一行は伊勢より駿河(静岡県)に入ると、かねてから日本武尊の噂を聞いていた。この土地の豪賊相武国造は、いつわりの降服をし、陰謀をもって日本武尊を殺そうとした。
蝦夷は言葉たくみに鹿守に誘い、枯草茂る広い野原のまん中に日本武尊の油断をみて不意に四方から火を放った。
燃える火災に日本武尊は初めは驚いたが、ただちに腰の神剣を抜いて枯草をなぎ倒し、叔母から授かった袋を解くと中から火拓石が出てきた。日本武尊は火打石で急ぎ火を切り倒した枯草に迎え火としてつけると、たちまち風は方向を変え蝦夷の方へと吹きつけたのである。この思わぬ逆襲に賊は惨敗した。
この由来によってこの神剣はのちに草薙剣と称するようになった。
○焼津(やいづ)
この土地も焼津(静岡)といわれるようになった。箱根の山を越えて賊を平げて三浦半島から上総(かずさ)(千葉)に上陸した。
日本武尊は蝦夷を追って遠く奥羽地方まで進み各所にある敵の本拠地をことごとく平定して帰国の途を急いだが途中尾張(愛知)に滞在し前にここを通ったとき婚約した美夜受比売(みやすひめ)と結婚した。
楽しかるべき新婚生活もつかの間に近江の伊吹山には朝廷に従がわぬ悪神がいると聴いた日本武尊はただちに討伐に出発した。
「こんな悪神などをやっつけるのに武器はいらぬ素手で十分だ」と敵を甘くみて神剣である草薙剣を妻に渡して「必ず帰ってくるから大事に預かってくれ」と置いていった。
この草薙剣はそのまま美夜受比売の手元に残されていたので、この地に社を建てて祀ったのが熱田神宮(あつたじんぐう)のはじめであるという。その後日本武尊は病には勝てず山を下り三重にたどり着いた時には三重に曲がってしまったので三重と呼ぶようになったという。鈴鹿に達したとき容態は急変し、この地に息絶えたのである。熱田神宮の娘が富樫政親の御北方である。
高皇産(たかみむす)霊神社 押野町
祭神 天照皇大神 國常立尊
創立年代詳らかでない。富樫氏の代々舘があった村で信仰心が厚かった。押野三王神社は当社と伝えられている。
白山神社 押越町
祭神 伊邪那美尊
創立年代不詳養老年間(七一七)創建された伝えられるが確証がない。明治十三年九月白山社を白山神社と改称
野代神社 野代町
祭神 天照大日孁尊
創立は長久二年(一〇四一)創建と伝えられる。明治初年末野代神社と称していたが明治二十年九月野代神社と改称
佐那武神社 御経塚町
祭神 猿田彦神・応神天皇
創立年代不詳 神亀四年(七二七)六月十五日陸奥の人佐那が海中より神像を得て鎮斉した。佐那武神の正社である。昭和十八年(一九四三)大城八幡社と合祀した。昭和四十九年新社殿幣殿拝殿を造営
稲荷神社 稲荷町
祭神 豊宇気毘売神
創立年代は寛治年間(一〇八七)と伝えられる。明治十二年から八幡社だったが明治二十九年稲荷神社と改称
郷八幡神社 三日市町
祭神 応神天皇
創立年代詳らかでないが長久年中(一〇四〇)の勧請と伝える。古くは村の東南方(古宮)の大きな河の畔に堂宇を建て村民の崇敬していたが天保年間に現在地に移した。(天台宗又は真言宗寺院跡地)明治初年寺院を買取り拝殿とし大正七年本殿新築明治二十九年八幡社を現社名に改称 古来がある
荒川神社 二日市町
祭神 応神天皇 古来鳥居なく何故か再三建造するが皆破倒する明治十四年八幡社を現社名に改称
創立年代は長久年中(一〇四〇)の創立と伝えられる。明治四十年長池村八幡社と合祀する。
明治八幡神社 掘内町
祭神 応神天皇・神功皇后
創立年代養老元年(七一七)泰澄大師白山開山の砌り神託により宇佐八幡分霊を勧請したと伝えられる。往時は郷総社八幡宮と称した。明治四十年(一九〇七)田尻八幡社と合祀した。
光松八幡神社 徳用町
祭神 応神天皇
創立年代詳らかでない。古来徳用村の産土神として鎮座した。藩主前田家の崇敬厚い。
田中八幡神社 郷町
祭神 応神天皇
創立年代詳らかでないが田中村の藤右衛門が勧請した。はじめは菅原社を合祀してあった。
熊野神社 蓮花寺町
祭神 伊邪那岐命・伊邪那美命
創立は文治、建久の頃(一一八五)で熊野三所の大神を鎮斉していた。真言宗蓮花寺境内の守護神となり、蓮花寺が廃寺となったので熊野社となったと伝えられている。
白山神社 太平寺町
祭神 伊邪那美命・豊宇気毘売命
創立年代詳らかでない弘安五年(一二八二)岡本越前守兼帯神主を勤めたと伝えられる。明治四十年(一九〇七)二月一日稲荷社を合祀した。
池上白山神社 位川町
祭神 菊理媛命
創立年代詳らない 弘安五年(一二八二)岡本越前守当社に兼帯勤めをしたと伝えられる。
薬師日吉神社 下林町
祭神 大山咋命
創立は仁和二年(八八六)光孝天皇の創始にして大山咋命を祭神とする。元拝師山王社と称したと伝えられる。
中林春日神社 中林町
祭神 武甕槌神
創立は詳らかでないが神主岡本越前守の文書によれば久安六年(一一四九)以前から兼帯していたとあるのでその頃即に鎮座されていた。もと春日社と称したが明治八年八月現社名に改称した。
林郷八幡神社 上林町
祭神 応神天皇
創立は往古拝師八幡宮と稱し長和二年(一〇一三)創建と伝えられる。守護富樫家で歴代守護神として崇敬地頭大桑玄猷土豪林家、三林家、村民の総社として尊信されていたと伝えられる。
富樫郷八幡神社 上新庄町
祭神 応神天皇 菅原道真
創立年代詳らかでないが神主岡本越前守の弘安五年(一二八二)の文書によれば本村名を記載しているのですでに鎮座されていたと伝える。
もと八幡宮と称したのを明治八年現社名に改称同四十年三月同字菅原社を合祀した。
菅原神社 下新庄町
祭神 伊邪那美命・菅原大神
創立年代は詳らかでないが古来村民から産土神と尊崇厚く神主岡本越前守の文書によれば久安六年(一一五〇)以前の鎮座と伝えられる。
大兄八幡神社 末松町
祭神 天照大神
創立往古大兄明神と号し加賀國造大兄彦命を祀ったといわれる。明治四十二年(一九〇九)三月轟八幡社と合祀した。
清金中宮神社 清金町
祭神 天照大神
創立は明応年中(一四九二)と伝えられる。明治三十九年(一九〇六)十一月一日八幡社と菅原社と合祀した。
もと中宮神社と称したが明治八年現社名に改称
中奥八幡神社 藤平田
祭神 応神天皇
創立は文明年中(一四六九)といわれているが神主岡本越前守の弘安五年(一三八二)の文書によれば当時既に鎮座されていたと伝えられる。
もと八幡社と称したが明治十二年十二月十九日現社名に改称。
錦橋八幡神社 藤平田新
祭神 応神天皇
創立は詳らかでないが神主岡本越前守の文書によれば弘安五年(一二八二)自己兼帯神社として当社を記している。
豊田日吉神社 粟田町
祭神 大山咋命
創立は長享年中(一四八七)といわれるが、弘安五年(一二八二)神主岡本越前守の文書によればその頃鎮座されていたと伝えられる。
日下日吉神社 三納町
祭神 大山咋命
創立は詳らかでないが延徳年間(一四八九)といわれている。もと日吉社と称したが鎮座地をクサカという処により明治八年現社名に改称
藤岡諏訪神社 矢作町
祭神 武御名方神
創立年代は詳らかでないが神主岡本越前守の弘安六年(一二八三)の文書によればかなり古くから鎮座されていたと伝えられる。
もと諏訪社と称したが明治十三年十月二十日現社名に改称同三十四年十月二十五日同字八幡社を合祀した。
○野々市町内には二十七社鎮座されています。本町二社、押野四社、郷七社、富奥十四社、石川県神社誌より
往古は本町に七宮があったと伝えられる。
稲荷町の沿革
延喜十五年(九一五)藤原利仁鎮守府将軍が加賀國の領主となり富樫氏と稱し野々市に所緑となる。
藤原利仁鎮守将軍より九世富樫家近(家通ともいう)が応徳二年(一〇八五)白河天皇の鳥羽離宮御造営されることになり、人夫を集めて京に上がった。御造営の場所に住みなれた白狐が石垣が造られたため出られず石垣をはずして穴の中から三匹を助けた。その稲荷明神のお告げに「白狐の命を助けた」そのお返しに國にかえって稲荷神社を創建して祭ったのが長治元年(一一〇四)である。
この際礼に小豆飯をお供えしたことから、我が國での赤飯の始まりである。
三日市村の垣内となり、明治八年(一八七五)十月、三日市村に編入され、東三日市村となったが、その後稲荷神社が存在していることから稲荷村と改称した。昭和三十一年(一九五六)九月郷村分村編入野々市町となる。
神社誌によれば創立年代は寛治年間(一〇八七)と伝えられる。明治十二年(一八七九)から八幡社だったが明治二十九年(一八九六)四月稲荷神社と改称した。
境内聖地 二四〇坪
祭神 豊宇気毘売神(とようけひめのかみ) 伊勢神宮外宮の祭神豊受大神である。
豊宇気毘売神は伊弉諾尊(いざなぎのみこと)・伊弉冉尊(いざなみのみこと)の夫婦時代の最後の子である。和久産巣日神(わくむすびのかみ)の子で天孫降臨のとき天降った神である。ある晩第二十一代雄略天皇の夢枕に天照大神が現われて「一人で毎日の食事に不自由している丹波國(京都府と兵庫県北部)にいる御饌(みけ)の神・豊受大神(とようけのおおかみ)をすみやかに呼び返せ」といわれた。天皇は伊勢の山田原に大社を建て、丹波の真名井より豊受大神を遷座したのである。
独学・ふるさとの歴史研究