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ののいち郷土芸能考察

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郷土芸能によせて

 

 平安時代の中期永延元年(九八七)一条天皇の御代に富樫忠頼卿は加賀國司に任せられ、加賀に下りて國務を執った。そのすぐれた仁政は広く民衆の敬慕をうけ、この地に留まる事を熱望し訴願するに及び勅許を得て永住する事になりました。

 そして平安の都京都を偲び野々市の近郊に伏見、山科、高尾、住吉、小原、八瀬の里などの地名を付け、第二の京都を築かんとしたゆかしい心根の程が伺がわれ、また累代にわたり数多くの寺院を建立して支那(中國)留学の大徳徹通、常清大師、建武中興の勤王僧の明峰大智禅師寺の名僧高僧を招き思想の善導と文化の向上に努め、かつまた産業の振興を図るなど加賀の政治、文化、宗教にと残した業績は実に大きなものであります。

 このように野々市は中世における加賀文化の発祥地であって人々は富樫氏の善政と宗教文化の香りの中に極めて安らかな日々を送った事と察します。

 毎年みのりの稲田をわたって聞えて来るじょんから踊り唄は忘れられぬ夏の風物詩であり郷愁でもあります。

 祖先がのこした素朴で優雅な踊りは人々の心の「ふるさと」となっており石川県の代表的郷土芸能としても広く紹介されています。

 

 野々市町本町四丁目十二‐二

 嶋 田 良 三

 

 

 

 

野々市じょんから節踊りの由来

 

 平安時代の中期第六十六代一条天皇の御代に第四代冨樫忠頼郷が加賀國司として赴任するや、その優れた仁政広く民衆の敬慕を受け、この地に留まることを熱望するに及んだので訴願し、勅許を得て永住することになった。

 忠頼郷は平安の都京都を偲び近くに伏見・山科・高雄(高尾)・小原・八瀬・住吉などの地名を付け第二の小京都を築かんとしたのである。

 第七代冨樫家国は国府を野々市に移し「布市」を「野市」に改め中国留学の大徳徹通の名僧を始め明峰・大智禅師の勤王僧を招き建武中興の聖業を護持するなど中世に於ける加賀文化の発祥地として、また政治・文化・宗教・産業の中心地として繁栄した。その頃の金澤は尾山といい、崎浦・犀川辺りの一寒村にすぎなかったが、そのころの野々市は戸数五千戸を越える加賀随一の名邑であった。

 このように冨樫氏の善政と文化・宗教の香りの中に育った民衆は極めて安らかな日々を送ったことと察せられる。

 自安和楽

 野々市じょんから節踊りは武士も町人も百姓も御殿の女中も階級の差別なく祭日を祝い、みんな一つの輪になって演舞を催した。これが踊りの起源である。

 じょんからというのは「自安和楽」の転訛であると解され自から安じて和やかに楽しむ、この心と姿こそ大いに学び冨樫氏の仁政を想い且つ讃えるため後世に伝えねばならない。

 

   郷土史家 木村次作

 

 

 

 

野々市じょんから節踊りの由来

 

 康平六年(一、〇六三)第七代冨樫家国が加賀国府を野々市に移し、その境内に社殿を造営し、同年八月十六日武松(現在白山市竹松町)より住吉大明神(第六十六代一条天皇より賜る)をその社殿に還宮し、同時に富樫忠頼郷の神霊をも合祀して領内の總社とした。爾今冨樫氏には祖天朝から拝領した神として諸郷何れも朝夕礼拝するようになった。

 神楽舞

 この御遷宮の日に相当する八月十六日には毎年(現在白山市竹松町)武松の里人が地矢の浦辺にて獲れたる魚四十八尾を三尾宛十六箱に盛り献供し来りて御贄の祭儀を行なった。

 この祭儀は遠く武松の時代からであったものである。

 長享二年(一、四八八)の御贄祭留書によれば武松の衆十人野々市の衆三十八人合計四十八人が昼末の刻から塩・魚供進の神事に取り掛り、終って塩・魚を酢鱠にして朴葉に分ち盛り冨樫氏より給わった。

 白酒と共に両村衆は社頭にて酒盛りを開き、夕酉の半刻から巫女が先頭に立ち鈴を振り鳴らすを相図に一般衆が舞い廻ったそうである。

 この舞と歌は盆踊りの条に載することとする。現在の野々市の盆踊りはこの神楽舞の転訛でなかろうかと察せられる。

 

   郷土史家 行野小太郎

 

 

 

 

野々市じょんから明治期に於ける
官憲の迫害と復活への献身的な努力の経過

 

 およそ一千年の昔第四代冨樫忠頼卿が加賀の国司に任せられ、野々市に赴任して国務を執られてより、その優れた仁政が民衆の敬慕をうけ、それより冨樫氏永住の地となり、加賀の守護職として六百年の久しい間行政府を置いたのであるが「じょんから節」踊りはそうした冨樫氏の優れた善政が生んだ貴重な文化的業績である。

 厳然たる階級差別の封建時代にあって武士も町人も百姓も御殿の女中も手を取り相い一つの輪になって親しみ睦みあい踊り明かしたということは冨樫氏歴代にわたり政治理念を基調とするものであって実に尊い民主政治の理想碩現であったといわねばならない。

 このように歴史に輝く由緒の深い貴重な民俗芸能の文化遺産である「野々市じょんから節」踊りが明治二十五年(一、八九二)に関某なる一駐在巡査の風紀云々による頑迷狂慕な迫害により大混乱を起しつつも遂年衰退の悲運に陥ったのであるが、郷土史家木村素堂等の志はこの暴挙に憤慨し、これが復興のため全町の先頭となって発憤激励、当時板垣伯や農科大学校教授横井時敬博士等と相呼応し、新聞・雑誌に国民舞踊として盆踊りの復活奨励を絶叫し三十年にわたる献身的な過動を続けて来たのであった。

 昭和三年(一、九二八)七月旧加賀藩主前田利為候や東京日日新聞社小野賢一郎氏等の幹旋によって野々市盆踊り「じょんから節」踊り講習会(試演)を東京小石川倶楽部に於て挙催し、映画撮影しレコード吹込みJOAK・・・BK・・・K・・・JKの放送局より十数曲にわたり全国中継放送を行うなど、また各地で披露普及されたのであった。

 このように木村素堂氏等の情熱的な努力と町民の郷土民謡に対する愛着が結実して昭和二十七年(一、九五二)三月二十九日文部省選定無形文化財となったのである。

 藩政時代は近効近在はもとより金澤方面から武士・町人あらゆる階層の人々が集って八月十三日の夕方から十四日未明まで踊り明かすという賑やかさだったと伝えられる。

 昭和初年に入るや木村素堂氏等の努力によってようやく復活期を迎え、いよいよ本格的な復興となり、終戦後は毎年大盛況を呈するところであって冨樫氏の民主的「自安和楽」の優れた理想政治が偲ばれるのである。

 木村素堂等郷土の志が「じょんから節」踊りの復活運動に献身された業績を賛えるために筆した参考資料である。

 

   郷土史家 木村次作

   保存会長 吉田喜久哉

   保存会事業部長 栗生木芳男

 

 

 

 

野々市じょんから数ある中で有名


 冨樫略史音頭は謡曲「安宅」歌舞伎十八番の一「勧進帳」で知られる。

 野々市に居を構え、加賀を支配した今は亡き冨樫一族のことを盆踊りの唄にしたものである。

 日本民謡大事典昭和五十八年(一、九八三)にあっても石川の数あるじょんから踊りにあってなかんずく「野々市じょんから節」は有名でと記されている。この歌詞の作られたのは何時かはっきりしないが言葉つかいから推して多分明治大正のものであろう。

 

 ラジオに唄声乗せて

 木村素堂の書いた、「日本古典舞踊野々市盆踊りじょんから節(自安和楽)の由来(年不詳)によれば昭和三年(一、九二八)七月旧加賀藩主前田利為侯 東京日日新聞主筆小野賢一郎氏等の幹旋により東京に於て野々市盆踊り「じょんから節」踊り講習会を挙催することとなり、余は自作の「冨樫略史音頭」と「お尚おとし」等を小石川倶楽部にて試演大塚公園にて公開映画撮影レコード吹込みJOAK東京JOCK名古屋JOJK金澤等の放送局より十余回全国中継放送云々とある。

 今日の野々市じょんからの名声はつとにここに記された木村素堂のはたから見ればなかば狂気じみたその行為のうちにあったといいうるかもしれない。

 それにしても「野々市じょんから」なのか「野々市じょんがら」なのか、これは河北・石川・能美郡を中心に加賀一円に広がるこの「じょんから」の濁音化と見てどちらでもいいということであろう。

 尾口・鳥越(石川郡)あたりでは「じょんころ」となまっている。それに比べると「じょんから」「じょんがら」の語源はむずかしい。木村素堂は「自安和楽」から来ていると見ているようだが「常和楽」から来ているとする説もある。

 上様(蓮如)から教えられたからそうのだという所もある。これもありうることである。

 

 鉦(かね)を叩いて念佛唄え

 しかし一番素朴なのは中世において一遍上人が鉦をチンカランと打ち叩き念佛を唱えながら踊り歩き、そのあとをまた人々も続いたという。その鉦の音から来た、という説もなかなか捨てがたいように思う。只々この難点は鉦を打ち叩いて踊るという盆踊りはじょんからはもちろん、それ以外の盆踊りにおいても県内では見られないことである。

 だいたい戦前(大戦以前)においては都市部(たとえば金澤旧市内)では踊らない。つまりそれ以前にあっては盆踊りは田舎踊りといわれ農山村においてしか行われていなかったものなのである。

 それだけに山間部へ行くと、とくに貧しく、ほとんど無伴奏、拍子は、拍子木で取るか足にはいている下駄でバタバタと取っていたのである。三味線はもちろん、鉦も太鼓も買えない在所が多かったのである。

 「野々市じょんから」も昔はともかく、今の普通三味線(二〜四)太鼓(一)笛(二〜四)を使用している。農村部も都市なみに豊かになってきたということであろうか。

 

 囃しことば

 野々市じょんからでは踊り中で二回ずつの手拍子が囃子ことばの代わりになっているが、普通は唄の間に「ショーイショイ・・・イヤーサーコラーショイ」とかが入るものである。この囃しことばで一番関心をもったのは金澤市長江町(旧河北郡)のじょんから節金澤市無形文化財の間々に入る囃しことばである。「チヨイノニンマイダ」「チヨイノツイテコサーアー」「チイノハンカチチヨイオキユード」のこの囃しはいかにも金澤らしく佛教的な響きがする。囃す人は「ニンマイダ」南無阿弥陀「ツイテコ」は追悼講「オキユードー」はお行道お経を読みながらまわることから来たものだという。もっとも「ハンカチ」「ハンガチ」ともいうがについてはこれは全く分からない。

 

 起源に「道」のロマン

 じょんからの歌詞について前唄といわれる短いものや、鈴木主水(もんど)を治めとする口説など長いものも数多く唄われてきたが、最後に一言したいのは、白山麓から加賀一円に広がるこの「じょんから」という節の起源はどこにあるかという疑問である。

 西から北上する海の道に沿って考えると九州の平戸に「ジヤンガラ念佛」同系のものは福島県にも一ヵ所あり「鉦」が重要な楽器となっている。

 北陸石川(とくに加賀)新潟に一ヵ所そして津軽じょんからと考えてくると北前船の存在が大きくクローズアップされてくるのだが、この辺はどう考えたらいいのだろうか。さらに考えると越後の瞽女唄(ごぜうた)「新保広大寺」が津軽から関西まで広く影響を与えたという事実、これからは陸の道の存在も無視できない。という思ひが生まれてくる。

 

   北陸大学教授 小林輝治

 

 平成九年(一、九九七) 九月二十一日 讀賣新聞より (民謡こころの旅)

 

 

 

 

 

野々市じょんからの起源と由来について

 

 自安和楽の転訛

 野々市じょんからは「自安和楽」の転訛であると解され「みずから安じて和やかに楽しむ」の心こそ大いに学び冨樫氏の仁政を想ひ且つ讃えるため後世に伝えねばならない。武士や町人も百姓も御殿の女中の階級を越えて祝い、みんな一つの輪になって演舞を催したと伝えられています。

 

 往古から藩政期に至るまで改作法により武士や町人・百姓と交際することは十村役といえども禁じられいた。

 この時代は階級を越えて演舞したと考えられないと察します。

 明治期以降でないかと察せられる。明治二十五年に駐在巡査が風紀云々による取止めになった。

 その後野々市じょんからの復興に献身的な努力を重ね、昭和三年に盆踊り復活に奨励し、東京JOAK・・・名古屋JOCK・・・金澤JOJK・・・と全国ラジオ放送されたのである。

 歌詞のつくられたのは、はっきりしないが言葉づかいから推して大正末期か昭和の始めのものでなかろうかと察せられる。

 

 御贄祭の転訛

 御贄祭は康平六年(一、〇六三)第七代家国公が加賀国府を野々市に移し、武松(竹松)から社殿を野々市に遷宮し造営して第四代忠頼卿の神霊をも合祀して御贄祭の祭儀を行った。この舞と歌は盆踊りの条に載することとする。

 御贄祭は地元で獲れた海産物の献上で一千年前の平安時代に加賀の漁港から献進されたのが起源とされ、今日に至り伝えられています。

 武松衆十人と、野々市衆三十八人と舞姫二人を先頭に舞い住吉大社から伝わる御贄祭が行われた。

 御贄の前日獲れた一番立派な海の幸を奉納する習わしとなっています。祭儀が終ると献上の品で朴葉に包み、富樫氏より賜った。朴葉祭とも言われ、何時の頃から笹すしに変り祭礼には今も伝えられています。

 笹すしは、我が国での野々市が発祥地である。

 神前に祭文を奉奏して舞姫二人が御贄大祭のみに舞う「大漁神楽」をいいます。この神楽舞は平常の舞姫が舞い、神楽と違います。

 

 御贄祭の神楽舞歌

 一、八尋(ヤタズ)の鰐(ワニ)は神楽に驚き尾鰭(オビレ)を立てて沖の荒波遙かに飛び去る 有難やな 目出度やな

 一、武庫津の宮居神楽が響く沖の御旗が見える 勝鬨(カチドキ)揚(アガ)る 有難やな 目出度やな

 

 神楽舞

 神楽舞が最も盛んに舞ひ廻ったのは応永年間(一、三九二〜一、四二七)第十九代昌家第二十代滿成の時代八月の盆踊りは同一並に改められた。他村と異なる点が多かった。笛、太鼓、踊りの歌の節、音頭取り、服装、期日、場所が違っていた。

 富樫氏累代の諸郷はこの盆踊りを奨励して民心を和け稼檣(カショク)の道を励ましたもので民心階和のため大きな役割を果した盆踊りであった。

 この踊りは両手を上えにあげて丸く輪にする。顔を天に向けて仰ぐ(太陽であり天照大御神、大日如来を仰ぐ姿である。二拍子は神に祈る二拍子であり、両手振りは海の波(四方の海の波)を現わしている。舞い方は大阪住吉大社の御贄祭に伝わる神楽舞によく似ている。平成十一年四月二十二日NHKテレビに放映された。この様に神楽舞の転訛でなかろうか。

 

 歓喜嘆(カンキタン)

 戦国時代富樫政親滅亡後の十五世期末に本願寺第八世蓮如が延暦寺の弾圧をのがれて越前吉崎で布教に乗り出してきた。これまで佛教には多くの宗派があるが貴族と武士を主たる宗教であった。

 農民はまったくといってよいくらい重視されなかった。農民を布教対象の中心にするというのは、まず浄土真宗ただ一つとしてもよかった。数の上では農民の人口は圧倒的多数をしめていた。蓮如は精力的に布教に乗り出し、村内にお講の集い、説教所、寺に集めて農民に真宗念佛の要義を布教して称名念佛南無阿弥陀佛の声がまたたくまに広がって農民は本願寺派の門徒となり山野に満ちたのである。

 お盆には、この歓喜嘆の念佛歌として踊り歌われたものと思われる。

 

 ここに同行の茶呑(ちゃのみ)のはなし 聞けば誠に御経になろうぞ 二十八日お日がらなれば 今日はゆるりとお茶呑むまいか

 余り渡世のせわしきまゝに 売るの買うので日夜を明し すむのすまぬと子孫の事は 腹も立てたり わらいもしたり

 罪業ばかりで月日を暮し 大慈(ダイジ)大慈(ダイジ)の御恩の程も 懈怠(げたい)ばかりで年月送る 今日も空しく過ぎ行く事は 

 続く以下省略 唱(ウタ)えまいかや只(タダ)南無阿弥陀佛

 

 富樫略史音頭

 未熟ながらも拍子をとりて 唄いまするは富樫の略史

 声はもとより文句もまずい まずい処を御用捨あれば

 踊りましょうぞ夜明るまでも今を去ること千年以前

 時の帝は一条天皇 雪に埋れて開けぬ越路

 加賀の司に富樫よ行けと 勅諚かしこみ都を後に

 下りて来て野々市町の 地理を選びて舘を築き

 神社佛閣造営いたし 民を愛して仁政布けば

 名僧智識は四方より集い 是等智識に道を聞きて

 下は和らぎ稼しょくを励み 上を敬い 富樫を慕い

 代々の司に奉上いたし 勅許ありたる 良官なれば

 一の谷やら ひよとり越えて 屋嶋海戦 大功たてて

 兄を名誉の将軍職に たすけあげたる義経公が

 落ちてきたりて 安宅の関所 家来弁慶読み上げまする

 音に名高き 勧進帳に 同情いたして涙で落す

 実にもすぐれし 名将智主と 後の世までも歌舞音曲に

 残る徳こそ白峰と高く 麓(フモト)流るる 手取の水と

 共に幾千代 名は芳ばしく 唄いまするは 富樫の略史

 

 御経塚じょんから

 ●へたな小野郎が 又出てこぼた  唄も悪いが文句も悪い

 ●悪いながらも 御客数ありて   唄いまするが郷土の伝へ

 ●二十と八日 お日柄なれば    今日はゆるりとお茶のみ論じ

 ●いつか来る日と心に誓い     誓いながらもいつしかくれて

 

 郷じょんから

 ハアー イヨー

 ●揃うた揃うたよ 踊り子が揃うたよ 揃うた踊り子が アリヤ手を叩く

 ●踊りや唄より はやしでしまる どうか皆さん はやしを頼む

 ●娘島田に喋々がとまる もまる筈だよ アリヤ花じやもの

 ●咲くが花かと 咲かぬが花 咲かぬつぼみの アリヤ うちが花

 

 富樫じょんから

 ●ハアー ちょいと借りましょう 憚りながら 声の悪いことよ アリヤ御免なれ

 ●ハアー 声はすれども 姿は見えぬ 花の草場の アリヤきりぎりす

 ●   来たり来なんだり 夏川の水 だれがかちらで アリヤとめるやら

 ●   梅の匂いを 桜に持たせ 花を柳に アリヤ持たせたい

 

 上林じょんから

 大正時代まで男は面をかむつて顔をかくし、おもしろおかしく踊った。

 娘は桃割れ、花嫁は島田に髪を結い正装した。林村知気寺(鶴来)から習ったと伝えられているが現在富奥じょんからとして歌い踊られているものは歌詞は同じだが踊り方は昭和十年(一、九三五)上林と粟田のものを合せて作られたと伝えられる。

 

 ●アー阿弥陀如来さま 百両の笠は 今は破れて アリヤ骨ばかり

 ●アー来たり来なんだり 夏川水よ さぼどいやなら  アリヤー来ぬがよい

 ●アーござれ ござれは 言葉のしなよ まことに来ないなら アリヤー呼びにくる

 ●アー東京生まれの 横浜育ち 今は田舎で アリヤー苦労する

 ●アーこんやに ここに寝て 明日の晩は どこに 明日は野中のアリヤー 畦まくら

 

 太平寺じょんから

 お盆と祭礼の時に歌い踊られていたものだが現在は歌われていないが歌詞や調子も富奥地区集落のものと似ている

 楽器による伴奏なし。

 

 ●アー一つ歌いましょ はばかりながら うたのへたなこと アリヤごめんなさい

 ●アーそろうたと踊り子がそろうた 稲の出穂より アリヤまたそろうた

 

 

 じょんからの囃子ことば

 

 野々市じょんから 囃子ことばはないが二拍子

                  (神様に祈る二拍手)

 富奥じょんから ヤツトコーチャー

 御経塚じょんから 

 郷じょんから アリヤー

 上林じょんから アリヤー

 太平寺じょんから アリヤー

 下柏野じょんから ナントコサードツコイサー

 金沢森本じょんから アーツイテコ ツイテコ

           (追悼講の意味)

 金沢東長江じょんから チヨイノニンマイダ

            (南無阿弥陀佛の意味)

            チヨイノ オキユード

            (お行道お経を読みながらまねること)

 

 

 麻木返し歌と踊りの由来と起源

 

 往古より野々市は麻、綿、蚕の生産地であった。麻木は高さ三米に成長する。盛夏ともなれば伐採して水槽に浸して干し返し何回も繰り返し、麻木の皮をはぐして麻皮を糸状にする。繊維として織り着物、寝具とした。

 夏には蚊が発生するので麻布で「カヤ」を作り寝室に吊してその中に入り寝たものである。(自給自足の生活)

 麻木には「雄と雌」があり「雄」は白い花が咲き「雌」には実がつく「雄」の花粉が風に乗って「雌」の実につく、仲のよい夫婦である。麻木は子孫繁栄を知っている不思議な麻木であることを教えられた。

 この麻木は毎年盛夏となれば麻を干し返した一種の作業歌の花踊りのようであった。それが練磨されて踊りと化したと口碑に伝えられています。

 麻木返しの歌と踊りは野々市独特の踊りにて古く他村には余り見られない素朴な踊りである。

 野々市中学校の校章は麻の葉を図案化したものに「中」を中央に配置している。野々市管内の小学校の校章には麻の葉と雪の結晶を図案化したものにののいちの「の」を中央に入れて組合わせたものです。麻は雨にぬれればますます強くなる。麻の繊維のように何事にもくじけず最後まで頑張り抜く強い心を象徴したものである。

 

 あさぎかえし

 麻木干せ干せ 干す手をかえしや 唄も出て来る 踊り出す

 踊り踊るなら 品よく踊れ 品のよいのを 嫁にとる

 娘島田に 蝶々がとまる とまるはずだよ 花じやもの

 今年や豊年 穂に穂が咲いて ますがいらいで 箕ではかる

 秋のいなごじや わしやないけれど あつちやこつちや とびあるく

 殿さま今来て 早やおかえりか あさぎぞめとは あいたらぬ

 あさぎぞめとは あいたらねども あまりこもなく うすもない

 紺の前だれ 松葉を染めて まつにこんとは よくそめた

 竹は切りよで 根に節や残る 物はいいよで 根がのこる

 つづじ椿は 野山を照らす 加賀の菊酒や 顔てらす

 わしの心と 大乗寺山は ほかに木はない 松ばかり

 馬は三才 馬方二才 あんじますわいな 手取り

 宿じや宿じや 野々市や宿じや 麻の野手を 木呂かつぐ

 

 麻木返し音頭

 やあり なんだい (囃(ハナシ))

 竹のきり口ちや すぼたん ぼたんで なみなりたんぶり

 たまりし水は すまず にぐらず 出るひまず

 やあり なんだい (噺(ハナシ))

 いつの盆より 今年の盆は 踊ろう子供にや

 ぴっぴいやがらがら 二毛の万頭や

 鈴買ふて持たせ 踊る子供や晴衣着せ

 

 和尚おとし物語

 和尚おとしは山口県下関市唐戸地区の引接寺を舞台とする悲恋の物語です。

 「お杉」という萬小間物屋の娘が引接寺の僧「淨然」という僧に一目ぼれしてしまいます。お杉は恋文をしたため淨然に渡しますが、淨然は佛に仕える身ゆえ、恋文などは受け取れないとそのまま返してしまいます。恋文などは受け取れないとそのまま返してしまいます。恋文を返されるお杉はますます淨然に会いたくなり、ある夜、男物の衣裳をつけて引接寺へ出かけ、寺の塀を乗り越えて淨然の寝所に忍び込み、告白します。淨然も反論しますが、もし一緒になれないならこの場で死ぬといって淨然を説き伏せてしまいます。一方お杉に熱い想いを寄せていた町奉行は二人のことを知ると、無実の罪をきせて二人を処刑してしまう。とても悲しい、しかし当時非常に流行したラブストーリーなのです。

 当時下関(旧称は赤間関)は日本有数の商港でしたから、たくさんの旅人や、商人が下関を訪れています。旅人たちは、この悲しい「和尚おとし」の物語に感動し、全国に語り継いで行きました。

 特に商業港湾都市の兵庫では、時々のニュースを盛り込んだ風の盆踊り歌が兵庫口説(くどき)兵庫節とも言われ庶民の間で大流行していました。この口説とは歌謡の一種で、七七調を基本とし歌と語りの中間に位置する節のことです。もともとは物語形式の長編歌謡が発展したもので、音頭形式で歌われることが多いために「踊り音頭」とも呼ばれました。「和尚おとし」も兵庫に伝わりこの「兵庫口説」の一種として西日本一帯へと広まって行きました。

 永禄年間開祖(一、五六〇〜六九)浄土宗引接寺(いんじようじ)享保年間(一、七一六〜三五)和尚おとしが歌われた全国に広まった。

 

 和尚おとしの歌

 エイーイ ここは九州赤間が関の よろず小間物問屋の娘 シヨーコラ シヨイ

  年は十九其の名は小杉 いつの頃やらお寺へ参詣

  参詣もどりに和尚様見染め 見染め逢染め恋かけそめて

  うちえ帰りて四、五日たつと 奥のひとまの机に向ひ

 親の代から三代までも 鹿のまき筆絵ばんし紙に

 お杉思うこと山々かいて 書いてふんじて状箱入れて

 ふみの使はこがいのでつち 道で落すなひろげて見るな

 和尚様へと慥(タシカ)に渡せ 和尚は手に取り開いて見れば

 見れば見るほど女の手なり ここは禅寺こんなことならぬ

 これじやなるまい返さにやならん 巻いてふんじて状箱入れて

 道で落すな開いて見るな 見れば見るほど我が書いた手なり

 さても残念ふみもどされて ふみで落さにや 通りて落す

 店の番頭の夏衣装貸つて 上に着たるは紋付晒布

 下に着たるは経帷子で 絽の羽織に三ツ紋つけて

 忍び編笠革緒の雪下駄 二尺五寸を落しに差いて

 前の小山へ上がりて見れば あれに見えるは尾坂のお城

 あれに見ゆるは円淨寺様へ 夜のことなら大門しまい

 夏の事なら雨戸はたたず お杉功者で裏門へまわり

 四十八枚唐紙開けて 和尚和尚と二声三声

 和尚は驚き こりや何事ぞ 迷いの者か変化の者か

 迷い化生の者でもないが 文をあげたるお杉でござる

 仮令奈落へ沈むとままよ かけ念なら落さにやならん

 お釋迦様さえ落せば落す なんの和尚様風夫でないか

 さあさ行くまいか円淨寺様よ 竹を見かけて雀がとまる

 梅を見かけ鶯とまる 森を見かけて鳥がとまる

 船を見かけて船頭がとまる 和尚を見かけてお杉がとまる

 そこで和尚は理につまされて 袈裟や衣を打ち脱ぎ捨てて

 夜のことなら酒屋はしまる 前の小川の水盃で

 鯛の浜焼小鮒の刺身 銀の銚子に金盃で

 和尚飲んだらお杉にさいて 二ツ三ツさいとる内に

 最早や夜があけあら恥かしや 最早や夜があけあら恥かしや

 

 

 

追録

 

 津軽じょんから節の由来と起源

 ●ハーアーお国自慢のじょんから節よ、若衆うたえば主人(あるじ)の囃(はや)し

 ●娘おどれば稲穂もおどる ソリヤー ハイサー ハイヨー

 南津軽郡浅瀬石(あせし)村がこの唄の発祥地という伝説がある。慶長二年(一、五九七)浅瀬石城主千徳政氏は大浦城主(後の津軽藩初代当主為信公)に亡ぼされた。

 その後も為信は厳しい追討の手をゆるめることなく千徳家の墓所付近の森林を伐採し、その墓地をも掘り起こしそうとした。たまりかねた千徳家の菩提寺の神宗寺(現在の長寿院)の僧常縁(じょうえん)はそれに抗議したため為信の怒りにふれて追われる身となった。

 追手を受けた常縁は、ついに浅瀬石川に身を投じて果ててしまった。この悲劇を村人が唄にしたものといい僧常縁が身を投じた場所だから常縁河原(じょうえんかわら)それが上河原となり唄の名も(上河原節)と訛(なま)って「じょんから節」になったと伝えている。

 一説には広大寺の常縁という住職が門前の豆腐屋の娘と情事に絡んで川に身を投げたところからその川を常縁河原と呼び、これが訛って「じょんから」というようになった説もある。諸説があって起源について詳らかでない。

 

 日本民謡辞典 東京堂

 津軽と加賀の「じょんから」の由来諸説あるが野々市「じょんから」は神道から出たものと思われる。

 康平六年(一、〇六三)富樫家国が能美郡国府村から国庁を野々市に移し、同時に社殿を造営し、富樫忠頼卿を神霊と合祀し、住吉大社から伝わる御贄祭に神楽舞が行なわれた。その後毎年祭りに御贄祭が行なわれていたが、何時の頃より朴葉祭となり、朴葉踊りが挙行された。その後「じょんから」となって今に伝えたものと考えられる。

 この時代我が国には踊りはなかったので踊りの起源は野々市が発祥地でなかろうかと察せられる。

 

   嶋田良三