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page=10 :掘り出された石川平野の遺跡と末松廃寺
位置と環境末松廃寺跡は、石川県のほぼ中央に位置する野々市町の南西端、末松2丁目地内
に所在し、標高38m 前後を測る手取川扇状地の扇央部にあたる。発展著しい当町にあって、
周辺は農村住環境活性化事業の施行等により緑豊かな景観を保持している貴重な地区であり、
国道157号線鶴来バイパスや石川県立大学の整備を経た今も町域のオアシスとしてどこかやさ
しい空気を醸し出している。史跡公園として整備された本遺跡も、遠足を含めた課外学習の場
として活用されており、特に春は隠れた桜の名所として近隣住民に親しまれている。
これまでの調査末松廃寺は、江戸時代からその存在が知られており、加賀藩士津田鳳卿が1840
(天保11)年までに本遺跡を訪れ、塔の心礎を計測し、これが地元では「唐戸石」と呼ばれて
いたことを記録に残している。その後、1888(明治21)年にはこの心礎は末松の大兄八幡神社
に運び込まれ、手水鉢に転用された。1911(明治44)年より始まった耕地整理事業では、多く
の瓦や土器が出土したと伝えられている。しばらく時をおいて、大正時代に入ると石川県史跡
調査嘱託として赴任していた上田三平が1921(大正10)年に現地調査をおこない、心礎の計測
などをおこなっている。
昭和に入ると、1937(昭和12)年に鏑木勢岐(石川県立金沢第一中学校教諭)を担当者とし
て、塔周辺の発掘調査をおこなっており、同年上田三平が瓦散布地の試掘をおこなった。この
結果を受け、富奥村長小林千太郎が内務・文部両大臣に史跡指定の要望書を提出した。翌1938
(昭和13)年には上田三平が史跡指定に必要な書類、図面、写真などの作成を指示し、1939(昭
和14)年9月7日に文部省から「末松廃寺阯」として史跡に指定され、永く後世へ守り伝えら
れることとなった。石川県では加賀市法皇山横穴群や狐山古墳、七尾市七尾城に次ぐ4番目の
ことである。その後、1961(昭和36)年に地元の高村誠孝氏により金堂推定地の西側水路より
銀製の和同開珎が採取され、「廃寺の全容を解明したい」という機運が一気に高まった。これ
を受けて、1963(昭和38)年には石川考古学研究会により試掘・測量がおこなわれ、1966・67
(昭和41・42)年には奈良国立文化財研究所技官を担当者とする末松廃寺調査団により内容確
認のための本格的な発掘調査がおこなわ
れた。その結果、白鳳時代の創建とみら
れる塔、金堂、築地などが確認され、こ
れがいったん廃絶されたあとしばらく間
をおいて再建された可能性が高いことが
指摘された。また、東に塔、西に金堂を
配する法起寺式の伽藍配置を採用した寺
院であったことも判明した。この発掘調
査の成果を受けて、1969(昭和44)年に
史跡の追加指定が行われ、総面積は
21,235.5㎡となった。
調査終了後の1968(昭和43)年から1971
(同46)年にかけて、指定地の公有化や