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page=13 :の中核ともいうべき大きな集落が長期間にわた って営まれている。これは、後者が標高6~10 m の低地に立地し、地下水の自然湧水地帯に あたることに加え、小河川により形成された微 高地と低湿地が交互に入り組んだ地形により、 一帯が植物・動物質食料や暮らしに必要な材料 の供給源である落葉広葉樹と照葉樹が混合する 豊かな森を形成していたことによるものと考え られる。このほか、野々市町の上林や粟田など、 標高40m 前後を測る扇央部で実施された過去 の発掘調査でもこの時代の土器や石器などが出 土しているが、いずれも少量であり、住居跡な どの生活の痕跡までは確認されていない。このことについては、食料採取など人々の生業に関 わる移動と、それに伴う出作り小屋的なものの存在が想定されている。 弥生時代弥生時代に入ると、周辺のみならず全県規模で遺跡の確認数は減少する。粟田遺跡 では、弥生時代初頭の九州系の土器が数点出土しているが、あくまで客体的な土器の一部に過 ぎず、その出土状況も扇央部における縄文土器の様相に酷似する。その後、前期になると、扇 央部では上林遺跡や末松遺跡、遺構を伴う乾遺跡があり、扇端部や沖積低地では御経塚遺跡や 押野タチナカ遺跡、三日市a 遺跡などでも土器の出土が確認されている。しかしそのほとん どが遺構等の明確な実体を伴わない、極めて少量の出土にとどまっており、縄文時代晩期の集 落の大きな広がりとは対照的である。また、その立地も同一遺跡の範囲内でも規模を縮小し、 より河川に近い場所に移動する傾向がみられる。これは、初期農耕を受け入れたことにより、 集落を営む場所を選ぶ要件の変化を物語るものであろう。続く中期に入ると、県内では羽咋市 吉崎次場遺跡や小松市八日市地方遺跡など地域の拠点と思われる大きな集落が営まれるように なるが、扇央部では皆無に等しい。沖積低地では、比較的まとまった土器が出土した金沢市矢