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page=16 :木ジワリ遺跡が知られているが、町域では扇端部の押野大塚
遺跡と御経塚遺跡ツカダ地区でわずかにみられる程度である。
その後、中期後半になると、押野タチナカ遺跡でようやくま
とまった土器群が出土した竪穴建物が確認されるが、しかし
後の後期後半から始まる集落遺跡の爆発的な増加につながる
ものではなく、周辺は再び歴史的空白期間をはさむこととな
る。後期後半以降になると、確認されている遺跡の数は飛躍
的に増大する。このことは、鉄器の普及や農業技術の進歩に
よる生産力の向上から人口が増加したことを示しており、人
口密度過多の解消や安定した生活環境を維持するために、新
たな耕作地を求めて中・小規模の集落が周囲に分散していっ
たものと考えられる。この時期の代表的な集落として、金
沢市の畝田寺中遺跡や南新保d 遺跡、扇端部の御経塚遺跡
群や二日市・三日市遺跡群、高橋川の自然堤防上に連なる集
落群などきりがないが、注目されるのは御経塚シンデン遺跡
や二日市イシバチ遺跡、横川・本町遺跡、白山市旭遺跡群など続く古墳時代初頭において古墳
群を造営する勢力が醸成されはじめたことである。次に、扇央部に目をやると、標高60m 前
後を測る位置にある白山市荒屋遺跡、七原町b 遺跡や40m 前後の野々市町上新庄ニシウラ遺
跡、末松廃寺、白山市上二口遺跡などが知られている。この内、上新庄ニシウラ遺跡では弥生
時代末から古墳時代初頭にかけての竪穴建物4棟、掘立柱建物2棟が確認されており、周囲の
遺跡に比べれば一応集落としての体裁は保っているが、それでも各建物に建替えの痕跡や重複
はみられず、せいぜい1世代程度の短い存続期間であったと思われる。このことは、手取扇状
地扇央部に特有の地下水位が低く高燥で、少し地面を掘り下げれば石が表出するという地勢と
無関係ではあるまい。当時、鉄器が普及したといってもまだまだ集落の構成員全員にまでは行
き渡っていなかったことは、各地で行われた発掘調査で出土する鉄器の量をみれば明らかであ
る。加えて、高地であるがゆえに急峻な流れの小河川を利用して用水を開削することは、高い
灌漑技術と相当な労働力を必要としたと考えられる。末松廃寺に近い白山市木津遺跡にみられ
る数度の洪水の痕跡などとあわせ、厳しい自然環境は容易に人々を受け入れなかったようであ
る。
page=16 :古墳時代~古代古墳時代初頭から前期にかけて、扇端部に位置する御経塚シンデン古墳群や
二日市イシバチ遺跡、白山市横江古屋敷遺跡・旭遺
跡群などでそれ以前の大規模な集落の近くもしくは
同じ地点に、前方後方墳と方墳を主体とした古墳群
が築かれるようになる。この内、旭遺跡群は弥生時
代末から続く周辺首長の墓域とみられ、山陰地方と
の関係を示す四隅突出墳も確認されており、その成
立の背景に興味がもたれる。この時期、扇央部にお
いては目立った動きは確認されていない。その後の
展開は弥生時代にみられた状況とよく似ており、古
墳時代中期後半の集落跡として御経塚遺跡に若干の