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page=17 :痕跡がみられる程度であり、周辺は再び歴史的な空白期 を迎えることとなる。 次に手取扇状地を含む周辺地域に人々の足跡が記され るのは、7世紀初め~前半代である。まず扇端部に目を 向けると、御経塚遺跡や同ツカダ地区、白山市横江a 遺跡などがこの時期に開始されるものの短期間で廃絶さ れる例としてあげられ、以降しばらく継続して営まれる 例として白山市東相川遺跡や北安田北遺跡がある。扇央 部では白山市三浦遺跡などがこの時期以降継続して営ま れる。また、末松廃寺の北東側一帯に広がる末松福正寺 遺跡や末松ダイカン遺跡ではこの時期の竪穴建物や土器 が若干確認されているが、水路築造部分の細長い範囲で の調査であったため、廃寺建立前夜の様相を知ることは できない。また、ここから南東へ約1.4㎞離れた地点に 広がる野々市町上林・新庄遺跡群では、最大の集落跡で ある上林新庄遺跡西端より竪穴建物5棟と数棟の掘立柱 建物が散居村的景観ながら確認されており、この時期に 廃寺周辺の開発が本格的に開始されたと考えられる。周 辺で発見されている上林古墳や白山市田地古墳、また、 古墳と伝えられる末松の大兄八幡神社に所在する末松古墳などの終末期古墳の存在や、末松地 区に残る「塚」の付く小字名は、他にも数基同様の古墳が存在していたことを示唆するもので
page=17 :あり、それらは後の発展の基礎を築いた 開発領主層の壮大な記念碑であるといえ る。その後、7世紀後半になると周辺で の遺跡確認例は急増し、標高25m 前後 に位置する白山市米永古屋敷遺跡や30m 前後の上二口遺跡、野々市町末松遺跡群 や40m 前後の上林・新庄遺跡群など、 山島用水系中流域から富樫用水系の扇央 部にかけて、扇状地を東西に横断するよ うに多くの遺跡が開始または隆盛し、末 松廃寺が建立される。近くに広がる末松 遺跡群では7世紀後半以降8世紀半ばに かけて集落としてのピークを迎え、9世 紀半ばまでには衰退へ向かう。また、上 林・新庄遺跡群では7世紀前半に誕生し た集落が、続く後半以降急速に拡大し、 8世紀には下新庄アラチ遺跡を中心とす る北エリアと上林新庄遺跡を中心とする 南エリアに整理される。前者の成立は後