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page=18 :者より若干遅れるものの、最初から核となる大型建物(竪穴建物から掘立柱建物へと同じ場所 で推移する)を中心に、条里を思わせる区画溝や整然と建ち並ぶ倉庫群・副屋を配置し、エリ ア南端には門を思わせる長大な掘立柱建物をもつ。門状建物周辺より特徴的に出土する鉄鉢(仏 器のひとつであり金属器を模写した土器)や、区画溝から出土した稜(鉄鉢に同じ)・円面 硯(土器で作ったすずり)などの存在は、このエリアの成員が仏教を取り入れ、木簡などに何 らかの記録を残す必要のある立場にあったことを示しており、極めて政治色の強い集団であっ たことを思わせる。これに対して後者は竪穴建物群の周囲を掘立柱建物群が取り囲むような配 置をみせる。竪穴建物の多くはそばに長さ3.5~5.5m、幅1.4~2.5m、深さ0.1~0.3m ほどの 長方形の土坑を伴っており、中から鉄滓(製鉄した時の不純物)やフイゴの羽口、小刀もしく は釘状の鉄製品が出土している。一角に製鉄炉と思われる土坑が1基確認されていることとあ わせ、このエリアの成員は小鍛治あるいは製鉄作業に従事した集団である可能性が高い。これ らのことから、遺跡群全体としてみれば北エリアに居住する政治色の強い集団主導のもと、南 エリアでの計画的な製鉄従事者集団の管理運営を行うという極めて合理的かつ先進的な内容を もつものであったことが考えられる。周辺に想定されている古代「拝師郷」の中枢といっても 過言ではなかろう。
page=18 :一方、これまでこの時期の遺跡は希薄と考えられていた扇状地扇端部でも、最近の発掘調査 成果から古代の集落跡が存在することが明らかになってきた。縄文時代から中世にわたる広大 な野々市町三日市a 遺跡では、2003(平成15)年に古代の官道である北陸道と思われる道路 状遺構が確認され、その後の調査で現在では延長約530m の区間で直線的に伸びる姿が復元さ れる。また、それに連動するように周辺でも古代の集落跡の確認例が増加しており、2005(平 成17)年には北陸道から約150m(1町半)北に離れた地点で8世紀代の8×2間の大型掘立 柱建物が1棟確認されている。この建物は、方位にとらわれることなく軸線を直行させる向き で建てられており、周囲に小・中型の掘立柱建物数棟と南北に並ぶ倉庫2棟を従えている。そ の建物規模や構成から一般の集落とは考えがたく、北陸道の管理やあるいは郷・駅家に関連す るなど公的な性格をもった施設である可能性が高い。 8世紀後半以降、周辺での遺跡確認数はさらに増加し、古代集落の動向上ひとつのピークを なす。扇端部及び沖積低地では横江庄遺跡や上荒屋遺跡といった初期荘園関係の遺跡が開始さ れ、それ以前より継続するものもさらに内容を充実させる。しかし多くは9世紀半ば以降10世