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page=19 :紀には終わりを迎え、その後は徐々に扇状地の中でもさらに手取川に近い地域に移って行く傾 向がみられる。 中世中世の集落に関しては、町内では旧来の集落に重複する例が多く、その成立時期を知る 手掛りとなっている。このような中、野々市町の本町地区において、1994(平成6)年に加賀 の国司であった富樫氏の館跡内堀の調査が実施され、土器類とともに手鏡1点が出土している。 また、町の東部に位置する扇が丘ハワイゴク遺跡では、1997(平成9)年の調査で加賀地方で も最大級の規模となる8×6間の大型掘立柱建物が確認されており、富樫郷の一角を所領とし た有力武士の館跡と考えられている。このほか中世前期のものとして白山市三浦・幸明遺跡や 橋爪ガンノアナ遺跡などでも高級陶磁器類が多く出土しており、開発領主クラスの居館と考え られている。廃寺周辺では、粟田遺跡や三納ニシヨサ遺跡、三納トヘイダゴシ遺跡などが南北 に連なるように分布しており、当時の散居村的な景観を思わせる。また、扇端部では現在の二 日市町の南側に広がる三日市a 遺跡北ブロックで、大きな堀割やたくさんの井戸をもつ館跡 と五輪塔が多く出土した方形台状の墓域などが確認されており、やはり有力な領主層の存在が 想定できる。同様のことは三日市町・徳用町においても確認されており、やはり旧来の集落に 近接して中世の居館・集落が検出されている。特に徳用クヤダ遺跡では、中世の北国街道が南 側の近くを走っており、陶磁器類や石造遺物に上質なものが多くみられる。
page=19 :2 末松廃寺の調査成果 概要末松廃寺跡は1939(昭和14)年に史跡に指定されており、したがって1966・67(昭和 41・42)年に本発掘調査を実施した時点では、遺跡の性格の解明と将来の整備に向けた学術発 掘であった。そのため、遺構の破損、破壊を最小限にとどめるために必要な地点のみを掘り下 げるトレンチ調査として実施している。確認された遺構は創建当初のものとして塔・金堂及び これらを取り囲む土塀であり、ほかに7世紀中ごろの竪穴建物1棟、8世紀~9世紀初めにか けてのものと思われる掘立柱建物4棟、塀4条及び金堂上層遺構などがある。 金堂は南を正面として建つと考えられ、創建時の伽藍配置は塔・金堂が建物の中心をそろえ て東西に並ぶ、いわゆる法起寺式といわれるもので、廻廊のかわりに土塀が周囲を囲んでいた と考えられる。なお、北に存在すると思われた講堂は確認されなかった。