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page=23 :や規模から9世紀前半ころまでであろうと考えている。 b 期は金堂北側に位置する掘立柱建物sb4・5の2棟からなる。sb4は四面庇の建物であ り、堂宇と思われる建物は姿を消す。小堂のようなものとして存続していたのであろうか。建 物の方位軸は期に近い。時期は9世紀前半を上限とし、10世紀代までの存続と考えている。 これは、続く期に時期の確定できる遺物がある程度確認されていることによる。 ・期(変動期) 期はそれまでの建物を主体とした構成ではなく、鍛冶遺構とされる土坑や南北に伸びる小 溝、その他の土坑など、様相の異なる遺構によって構成される。時期は10世紀終わりころから 11世紀前半を想定している。 ・期(中世への転換) sx とした中世墳墓などで構成される。この時期になると、生活に関係する遺構は確認でき なくなるが、墓域として利用されていることから何らかの宗教的な施設として存続していた可 能性も考えられる。時期は、11世紀中ごろから12世紀前半と思われる。 る。そ の内、この地域の通有の流通範囲は、これまでの他遺跡の検討結果より小松地域を除いた地域 で生産された土器群の流通範囲とされてきたが、当遺跡では創建時とみられる7世紀後半ころ に限り49%もの小松地域産の製品が確認される。このことこそが当遺跡におけるまさに「イレ ギュラー」な事実であり、その特異な状況が反映されているのではないかと考えられる。
page=23 :3 出土した遺物 概要出土した土器は量的にさほど多くなく、確実に遺構に伴うと思われるものはごくわず かであり、出土地不明を含めて宗教的な性格を思わせる器種の存在も決して多くなく、その特 徴に乏しい。そのため、廃寺特有の性格に迫ることは困難と判断し、出土地点から大まかに塔 周辺地区・金堂周辺地区・推定金堂地区・北地区の4地区に区分し、出土遺物の量的推移や生 産地別での供給量の推移など、数量的な検討に重点を置いた。 地区別にみた土器群の推移全体的な遺物の出土量については、北地区に分布が集中する傾向 がみられる。末松廃寺期とした8世紀第1四半世紀~10世紀には北地区以外で遺物量が極端 に減少するが、北地区では大きな変動はなく、むしろ9世紀以降はわずかであっても増加さえ している。このことを、煮炊きに使われる土器の種類でみてみると、そのほとんどが北地区に 集中しており、そのような「器種」が使用される区域であったことを示している。ちなみに、 供膳器・仏器以外の土器のあり方でも北地区の圧倒的な出土例が確認されており、廃寺内での 用途区分の使い分けを反映したものとして留意する必要がある。 産地別にみた土器群の推移この時期の主体をなす土器群(主に大陸系の焼物である須恵器) は、辰口地域で生産されたものを中心とし、加賀と能登の境に位置する押水・高松地域から南 加賀の小松地域で生産されたものなど広範囲の土器が流通している。当遺跡からは確認されて いないが、隣接する末松a 遺跡では能登・鳥屋地域で生産されたものも確認されてい