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page=24 :4 まとめ 廃寺建立前夜の周辺地域は、末松ダイカン遺跡や上林新庄遺跡、上林テラダ遺跡などで7世 紀前半代に集落の萌芽をみせはじめるもののまだまだ散発的であり、該期の遺物を伴う竪穴建 物などもごくわずかである。しかし、白山市田地古墳や野々市町上林古墳、また末松地区に残 る「塚」の付く小字名の存在など、人口増加と耕地の拡大はやはりこの時期に始まったといえ よう。廃寺が建立された7世紀第3四半期になると、上林新庄遺跡群などで徐々に竪穴建物な どが増え始めるが、まだまだ8世紀にみられる爆発的ともいえる拡大には至らない。 廃寺は、創建伽藍がその威容を保っていたのはわずか半世紀ほどのことであり、7世紀第3 四半期~8世紀第1四半期までのことである。この時期は周辺の集落遺跡が隆盛を極める時期 にあたるため、その事情の理解を困難にしている。また、建立した主体については従来「道の 君」であるという説が半ば定説化していたが、今回の検証によって加南・能美地域産の須恵器 が多くみられること、これまで青戸室石であるといわれていた塔心礎が手取川の転石を加工し た安山岩である可能性が高いこと、周辺の集落遺跡に近江・丹波からの影響が存在したことな ど、ヒト・モノの動きに財部氏などの南加賀の勢力が大きく関係していることがうかがわれる。 もっとも、当時の道の君の権勢を考えた場合、その存在の大きさを無視してこの周辺の開発を 含めた大事業を成し遂げられるはずはなく、その関与のし方が注目される。
page=24 :末松廃寺跡は、北陸ではもっとも古い時代に建立された古代寺院であり、全国的にみると白 鳳時代にこうした寺院が建立される傾向が顕在化する傾向がみられる。その多くは新たな開発 事業の施行に関わるものであり、本遺跡の例も先進的な技術を持った集団の移動を伴う、国家 的一大プロジェクト推進の前段として人々の人心掌握を目的としたものであったと考えられる。 白鳳寺院の建立の背景にまで踏み込んだ詳細な検討はまだまだ少なく、今回の検証を通して得 られた新たな知見は今後の研究に新たな道を開いたものと評価できる。末松廃寺の建立は、こ の国家的開発事業の一連の流れの中でも早い段階の事例であり、その事情を解明することは、 その後の加賀市弓波廃寺跡や羽咋市柳田シャコデ廃寺などの建立の背景を考える上で地域史全 体の中でも大きな意義を持つものである。 おわりに、今回の検討を経て末松廃寺跡の建立に関わる経緯をある程度明らかにできたので はないかと考えている。しかし、これらはあくまで1つの論証であり、決して建立主体に道の 君が関与していなかったとの確証は得られていない。本シンポジウムに参加された皆様の真摯 なご討議を経て、この問題に対しての更なる深化を期待するものである。