タイトル:ブラウザ判断

タイトルをクリックすると最初のページから表示されます。
ページ番号をクリックすると該当のページが表示されます。

page=42 :3 伽藍配置の変遷 飛鳥時代は、飛鳥寺(6c 末)のように塔の北と東西の3方に金堂を置く伽藍(高句麗の清 岩里廃寺・5c 初にその例がある)が最初にみられるが、四天王寺や若草伽藍(7c 初)のよ うに塔と金堂を前後に並べる伽藍(百済の軍守里廃寺・6c 前期に類例がある)が一般的にな る。 白鳳時代になると、唐から直接新様式が入り、川原寺のように金堂の前面に塔と小金堂が並 ぶなど、左右対称を破る伽藍が多い。法隆寺や法起寺では、塔と金堂が左右に並ぶ。藤原京の 薬師寺では、再び左右対称に戻り、塔が金堂の前面に2基並ぶことになった。 天平時代になると、一般的に廻廊が金堂の前庭だけを取り囲んで金堂両脇にとりつき、塔が 廻廊の外に出るようになる。 4 発掘遺構からみた末松廃寺 今回の発掘調査の成果によって末松廃寺は、南を伽藍の正面と想定すると、塔の西に金堂が 近接して並び、法起寺と同じ伽藍配置の形式を持つ白鳳時代(7世紀後半)の古代寺院である ことが判明した。 創建伽藍の特徴をあげると、①塔の規模が非常に大きく、白鳳時代の塔としては中央の官の 大寺を特例としてその規模は例を見ない。天平時代(8世紀)になると地方の国分寺にその規 模の事例が多い。②塔に比して金堂はそれほど大きくないが、飛鳥・白鳳時代の一般的な規模 を持つ。③塔と金堂間の距離が短く、近接して建つ。そのほか、塔と金堂を取り囲む廻廊にか わる土塀の存在も明らかとされたが、南門、中門、講堂、僧坊といった伽藍の主要な建物は確 認できなかった。
page=42 :(1)創建期の建物と伽藍 ① 塔(sb1) 塔は、心礎の据え付け穴や4カ所に残存していた四天柱と側柱礎石据え付けの根石から、方 3間で一辺長10.8m の平面規模を持ち、各柱間が3.6m 等間であることが確定された。しかし、 基壇については遺構の破壊が著しかったため明らかにすることが出来なかった。建築年代は、 7世紀後半頃で、9世紀末までには廃絶していたと考えられた。 心礎は、基壇上に据えられていたものと考えられる。我が国の古代寺院の塔心礎の据え付け 状況を見てみると、飛鳥寺(6世紀末)、四天王寺(7世紀初)、法隆寺(7世紀後半)では地 中深く据えられている(地下式)が、川原寺(7世紀中)ではしだいに浅くなり(半地下式)、 8世紀にはいると基壇上に置かれる(地上式)ようになる。現在確認されている地上式心礎で 古いものは、法隆寺若草伽藍(7世紀初)などであり、7世紀後半の末松廃寺の心礎が地上式 であるのも古い部類に属するものと考えられる。 塔の平面規模について、代表的な古代寺院の発掘成果等によりまとめたのが、下表である(平 面規模の寸法は、「飛鳥・奈良時代寺院の主要堂塔」宮本長二郎昭和54年株式会社集英堂 によった)。