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page=44 :ものが東大寺七重塔の55尺や大官大寺九重塔の50尺である。これらの塔を除けば白鳳時代の五
重塔の一辺長は20尺前後で、天平時代になると南都七大寺の五重塔で30尺前後の規模のものが
見られるようになる。更に諸国国分寺は30尺を越えるものが多くなり、相模・美濃・伊豆・豊
後・下野・上野国分寺の塔では36尺(基壇一辺長は60尺を越える)となる。各国分寺には東大
寺にならって七重塔が建てられたといわれており、初重平面の大きさから考えると七重塔であ
ったとしても差し支えないであろう。末松廃寺の塔も平面規模は方36尺であり、国分寺級の七
重塔と考えることも出来よう。
② 金堂(sb2)
塔とともに中心伽藍を構成する金堂は、基壇規模が推測できただけで、平面については破壊
が著しかったため確定するにいたらなかった。基壇規模は、わずかに残る基壇土や雨落溝の痕
跡から、東西幅は約19.8m、南北幅約18.4m をはかることが出来る。金堂の創建は、塔と同じ
7世紀後半頃で、8世紀初め頃には廃絶していたと考えられた。
末松廃寺の基壇幅を飛鳥~天平時代の金堂と比較すると、飛鳥・白鳳時代の基壇規模と類似
している。この時代の、金堂の建物は桁行5間、梁間4間で、ほぼ正方形に近い平面であった
ことが特徴としてあげられる。また、廻廊内に独立して建つものが大部分であり、そのために
重層の建物であったと考えられる。
天平時代になると、大安寺や興福寺、唐招提寺などでは金堂両脇に廻廊がとりつき、正面の
柱間数が7間以上となり、規模が著しく大規模となる。また、東西幅と南北幅の比率が1.6:
1と横長のものとなり、正面性を強調した意匠となっている。薬師寺や興福寺など裳階が付い
たものが多いのも特徴である。地方の国分寺金堂も、7間堂が多くなる。
末松廃寺の金堂も、法隆寺金堂上成基壇規模とよくにており、桁行5間、梁間4間の東西棟
の建物であったと考えても良い。