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page=45 :③ 土塀(sa1~3) 古代寺院は、通常、塔と金堂を廻廊でとりかこみ、その正面中央に中門を開いている。飛鳥 ・白鳳時代の廻廊は飛鳥寺、山田寺、川原寺、法隆寺などのように単廊となるが、天平時代に なると平城京内の諸大寺では複廊となる。地方寺院は、陸奥国分寺、信濃国分寺などでは複廊 となるが一般には単廊が多い。 末松廃寺では、廻廊に替わる土塀が検出された。土塀は、伽藍の南面と西面で確認され、そ れぞれ基壇幅(または基底幅)2m をはかる。廻廊となると基壇幅は6m を越えることにな り、土塀とみて差し支えないであろう。東面については、想定位置に掘立柱穴が2箇所検出さ れ南北に並ぶため、この部分は土塀ではなく掘立柱塀と考えられた。 なお、武蔵国分寺では中門から発した掘立柱塀が金堂、講堂、僧坊を取り囲み、相模国分寺 では金堂、塔を取り囲む廻廊は、北・南面が単廊、東面が築地塀であったことが確認されている。 ④ 伽藍の変遷 (1)創建時の末松廃寺 伽藍配置は、南を正面とすると、西に塔、東に金堂を並立させた法起寺と同じ伽藍配置にな る。法起寺の伽藍配置は、法隆寺の伽藍配置の塔と金堂を逆にしたもので、7世紀後半の伽藍 配置の一形式をとる。 末松廃寺では、金堂と塔が並立して建っていたとすると、金堂に比して塔が大きすぎ、また、 その隣棟間隔も大変狭くなっている。また、先にも述べたように金堂は7世紀後半の特徴をも つのに対し、塔は8世紀に類例の多い規模があることから考えると、塔は計画はあったものの、 一時期遅れた8世紀前半に建て始められ、瓦の出土がみられないことから、心礎や礎石を据え た段階で建築を中止したものとも考えられるが定かではない。 塔と金堂の中心伽藍は土塀で囲われることが判明したが、その正面中央に開かれるであろう 中門は検出できなかった。また中心伽藍の背後に配される講堂や僧坊、前面に位置する南門は 発見できなかった。
page=45 :(2)天平時代の末松廃寺 8世紀初め頃に金堂が廃絶した後、金堂跡には規模を縮小し、方位を北で東に約11度振った 建物(第2次金堂、sb2b)が建設され、その北方に掘立柱建物(sb3)更にその北方に掘 立柱建物(sb6)が建てられ、それらの一郭が、掘立柱塀(sa4)及びこれと折れ曲がって 繋がる掘立柱塀(sa6)で囲われていたものと想定され、わずかに寺院としての法灯をつな いでいたのかもしれない。掘立柱建物(sb6)廃絶後、掘立柱塀(sa4と6)がそれぞれ掘 立柱塀(sa5と7)に建て替えられている。 (3)平安時代の末松廃寺 掘立柱建物(sb3)と掘立柱塀(sa5、7)が廃絶後、9世紀初め頃までに、掘立柱建物 (sb4と5)があり、また塔跡心礎周辺から瓦塔片(9世紀前半)が出土していることから、 わずかに寺院としてのかたちをもっていたのかも知れない。 10世紀終わりから11世紀前半頃の遺構として、鍛冶遺構(sk1)、土拡(sk2、3)、溝(sd1) があげられるが、この時期にも確かではないが寺院としての機能が繋がっている可能性がある。 また、11世紀中頃以降の遺構として、塔上層遺構(sx1)がある。これは、塔の廃絶後、 わずかに残されていた心礎の覆屋的なものであったとも考えられる。sx2~4の墳墓もこの ころのもので、そのほかに溝状の畝間遺構(sx5)がある。