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page=49 :回想末松廃寺と父高村誠孝
末松廃寺跡保存会高村宏
1 はじめに
私の父、高村誠孝が和同開珎の銀銭を発見していなかったら、今の末松廃寺跡は無かったと
言ってくれる人がいる、確かにそうだと私も思う。しかし歴史的事実を究明し、保存しようと
言う末松および野々市町の住民、ならびに町・県や国の関係者の熱意が今日の末松廃寺跡を作
り、今回の発掘調査報告書を完成させたと思っている。誠に目出度いことで、父が生きていた
らどんなに喜ぶことであろう。末松廃寺跡保存会としてもお礼を申し上げたい。
昭和41年から42年にかけて発掘調査が行なわれ、42年後の今、調査報告書が世に出ることに
なった。それ故に、最新の調査研究まで、全て盛り込まれることになり、興味深く、意義深い
報告書になった。
発掘当時は、この地を支配していた道の君の氏寺と位置付けられていた。その後末松廃寺を
取り巻く周辺の発掘調査が進み、これらを総合して、今回、末松廃寺が、天智系の国家プロジ
ェクトで、石川平野を開発するシンボルタワーであったと言う新しい説が提唱された。これは
非常に興味深いことであり、今後議論が更に深まることを期待する。
page=49 :2 高村誠孝と末松廃寺跡
父は、大きなスクラップブックに末松廃寺の
記録を残している。今日はこの中からピックア
ップして話をしたい。
明治41年に、末松一円で耕地整理が行われ、
父は当時13才の少年であったが、この地に数多
く残っていた古墳が工事によって破壊されるこ
とに心を痛め、あちこちで発見される瓦や土器
を見て、この地に在ったと言う寺の解明をした
いと思う様になった。
当時の耕地整理の現場を写した珍しい写真が
残っている。(写真1)
昭和12年3月、最初の発掘が行なわれ、当時
の新聞記事には、東大寺を偲ぶ加賀国分寺跡と
言う見出しが踊っている。
発掘現場の写真や調査に参加した村人、出土
品、の写真も残っている。(写真2,3)