タイトル:ブラウザ判断

タイトルをクリックすると最初のページから表示されます。
ページ番号をクリックすると該当のページが表示されます。

page=55 :瓦が語る古代の文明開化 立命館大学文学部木立雅朗 はじめに 末松廃寺は7世紀後半、660~670年代頃に造営されました。北陸でもっとも古い寺院のひと つです。誰が、なぜ、末松に古い寺院を建てたのでしょうか。ここでは、瓦や仏教を鍵にして、 ひとつの仮説を提示して見たいと思います。 1.古代の文明開化 国際関係と文明開化 「古代」の幕開けは、古墳時代の中頃にはじまりました。倭の五王は中国に使者を次々と送 り、さまざまな制度や文化を積極的に導入しはじめました。事実上、中国を中心とした東アジ ア社会へ積極的にデビューしたのです。その頃、大陸から海を隔てた倭の社会も、中国や朝鮮 半島の情勢とは無関係でいられない国際情勢が作られ、その影響を受け始めたためでした。 古墳時代の終わり頃なると、中国に巨大な国家・隋が誕生し、国際情勢がさらに厳しくなり ました。中国では引き続いて唐が起こり、対外圧力は増す一方になりました。そのような国際 情勢の変化が、「倭」の社会を変え、国家形成や整備に大きな影響を与えました。 明治維新と同じように、古代でも国際関係の大きな変動とともに「文明開化」が訪れました。 明治維新と共通するのは、巨大な国際的圧力に対抗するため、相手の力や原理を利用して乗り 切ろうとする方法をとったことです。中国や朝鮮半島諸国の制度や文化を積極的に導入したの はそのためです。単なる流行ではありません。 古代と近代の文明開化の違い なお、古代にはたくさんの人々が大陸・半島から移住してきたことがわかっています。文献 史料にも多くの「帰化人」が記録されていますし、人骨を研究する形質人類学者も大量の移住 者があったと想定しています。意外なことですが、文献史料の研究でも形質人類学の研究でも、 奈良・平安時代の倭人は移住者系が過半数を超えていたと想定しています。制度や文化だけを 模倣したのではありませんから、近代以上に本格的な、「人」を含めた制度・文化の導入があ ったと考えられるでしょう。その点は古代と近代の大きな違いです。また、明治維新はごく短 期間のことでしたが、古代の文明開化は古墳時代中頃から7世紀末まで、おおよそ300年ほど 続いた、長くて紆余曲折のある変革でした。
page=55 :2.仏教の導入と古代寺院 仏教公伝 仏教は古墳時代の後期、538年(もしくは552年)、百済の聖明王から釈迦仏像と経典を送ら れ、公式に伝えられました。当時、百済は高句麗や新羅と敵対関係にあり、情勢は逼迫しつつ ありました。そのため、百済は倭と友好関係を結ぶために仏教を伝えたのですが、その聖明王