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page=56 :も554年には新羅との戦いで戦死しました。 「私的」仏教 百済から公式に仏教が伝えられる以前から、実際には「私的」に仏教が伝えられていたと考 えられます。当時、すでに朝鮮半島から多くの人々が移住していました。それらの人々の間で も仏教が普及していたと考えられるからです。古墳時代中期の変化のなかにも、そうした痕跡 が認められます。新しい横穴式石室が導入され、渡来系の文物が数多く副葬されるようになり ました。同じように「古墳時代」と呼んでいますが、実際には随分と大きな変革があったと思 います。 しかし、「私的」な仏教が導入された当初は「寺院」と呼べるような建築物はなかったと想 定されます。考古学的な証拠も少なく、今のところ、「仏教導入」を示す確証は発見されてい ません。また、百済から仏教が公式に伝えられたからと言って、即座に寺院が建立されたわけ ではありません。「崇仏論争」をへて587年に蘇我氏が物部氏を倒してから、本格的な古代寺 院が建築されたと考えられます。現在のところ、最古の古代寺院は596年に完成した飛鳥寺で す。「祟仏論争」に決着が着く直前の585年、蘇我馬子が大野丘に塔を建てたと記録されてい ますが、この塔は今のところ未発見です。 古代寺院と仏器としての土器 飛鳥寺が建立されてから50年以上の間、古代寺院の数はそれほど増えませんでした。飛鳥地 方を中心に増加したのですが、それ以外の地方ではごくわずかしか確認されていません。古代 寺院が建てられた証拠は瓦や礎石ですが、飛鳥地方以外では極めて少なく、北陸でも確実な証 拠はまだ発見されていません。ただし、金沢市や七尾市でこのころに遡る可能性がある瓦が出 土しています。また、小松市でも瓦を模倣した可能性のある「瓦もどき」の須恵器が発見され ています。古墳時代には高句麗の使節が加賀に渡来してきたという記録もありますから、倭の 中心を介さずに、仏教を導入していた可能性もあります。
page=56 :飛鳥寺が建立された頃、倭の広い範囲で食器の形が大きく変化しました。金属器、あるいは 仏器を模倣した形に変化したのです。はっきりとした瓦や礎石は発見されていませんが、仏に 添え得る器に変化したのですから、当然、仏教も本格的に導入されたと考えられます。北陸で も広い範囲で仏器模倣の食器が普及しました。これを仏教の普及と考えてよいなら、北陸も飛 鳥寺建立とほぼ同時に仏教の本格的な導入段階に入ったと言えるでしょう。 ここで大切なのは、仏教はインド・中国・朝鮮を経て渡来した国際的宗教だったことです。 世界各地での変容を通じて、「信仰」としてだけでなく、「支配原理」としても重要な役割を 果たしました。在来の倭のアニミズム的な「信仰」や「宗教」は、世界宗教として完成してい た仏教の前には未熟なものでしかありませんでした。「神道」は仏教の影響を受けてはじめて 整備されていきます。神社建築も同様で、寺院が建立されるようになってはじめて神社が作ら れたと考えられています。一般的には仏教が導入される以前に神道や神社があったと考えられ ているでしょうが、実は逆なのです。「ホトケ」は「カミ」より遅れて倭にやってきましたが、 「カミ」を束ねる最高神として位置づけられたようです。