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page=58 :白鳳時代の仏教-瓦葺きと寺院-
日本最古の古代寺院は蘇我氏が建立したものでした。天皇自らが寺院を建立するようになる
のは、639年、舒明天皇が百済大寺を建立しはじめたのが最初でした。これ以後、飛鳥以外の
地にも古代寺院が徐々に広まっていきます。特に爆発的に古代寺院が増加するのは、天武・持
統天皇の時代(672~696年)でした。この頃の古代寺院は瓦葺き・礎石建のお堂を備えており、
「瓦葺き」といえば寺院を意味していました。
緊張した国際関係
倭は663年の白村江の戦いで唐・新羅の連合軍に敗れ、国際的な緊張が最高に高まりました。
唐・新羅の連合軍が直接、倭に侵入する危機を迎えたため、各地に朝鮮式山城を作り備えまし
たが、新羅が唐に反旗を翻したおかげでその難を逃れることができました。そのような中で壬
申の乱が起こり、天武天皇が即位しましたが、緊張が最高に高まっている国際関係に対抗する
ため、天武天皇は矢継ぎ早にさまざまな政策を実行しました。各地の豪族に古代寺院の建立を
促したのも、そのひとつでした。
この最高に国際関係が緊張した時期は「古代の文明開化」の最終的な仕上げ段階といってよ
いでしょう。その仕上げは都城や律令の完成、国分寺の整備まで続きました。
page=58 :2.北陸の初期古代寺院と仏教
古代の北陸は、「コシの国」が越前・越中・越後に分割されたのち、越前国から能登・加賀
が分立しました。末松廃寺が建立された頃、北陸はまだ「コシの国」でした。ちなみに加賀が
越前から分立するのは平安時代になってからです。
そのため、以下では、「越前」に加賀・能登も含めて考えます。
越前の瓦と寺院
現在の福井県武生市周辺に4つ以上の古代寺院が建立されました。その中で、深草廃寺と呼
ばれる寺院が最古で、近江・大津京周辺の寺院と類似した瓦の文様をもっています。深草廃寺
とほぼ同時か、やや遅れて末松廃寺が建立されたと考えられます。その後、やや遅れて石川県
加賀市でも4つ以上の古代寺院が建立されました。北陸では、武生市周辺と加賀市の二カ所で
古代寺院が濃密に分布していますが、それ以外の地域ではせいぜいで二つ程度の寺院が散在し
ている状況です。
意外なのことに、後に加賀の郡司として活躍した道君一族の本拠地である金沢市北部で古い
寺院が確認されていません。金沢市高岡町遺跡で発見された半円形の瓦(半瓦当)が飛鳥時代
に遡る可能性がありますが、仮にそうだったとしても、小規模なお堂にすぎなかったと想定さ
れます。今後、さらに規模の大きな寺院が発見される可能性が残りますが、古墳時代に栄えた
にも関わらず、古代寺院が根付かなかった地域があったようです。福井平野でも巨大な古墳群
を作っていた旧・金津町や福井市周辺には目立った古代寺院が確認されていません。その逆に、
古墳時代にはほとんど開発されていなかった土地に忽然と寺院が建立される地域もありました。
末松廃寺はまさにその典型例です。
越中の瓦と寺院
越中では深草廃寺にやや遅れて富山県高岡市に御亭角廃寺が建立されます。深草廃寺の軒丸
瓦とも文様が似ていますが、近年では美濃の寺院と類似していると言われています。この御亭