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page=64 :古代寺院の伽藍が完成させるには、何十年もかかるのが普通です。飛鳥寺は短期間で造られ
ていますが、山田寺などは政争に巻き込まれたこともありますが、30年以上かかっています。
一般的には、最初に金堂を建立し、次に塔・講堂という順番に造ったようです。ですから、金
堂の瓦を造る時期と、塔の心礎を造る時期は、時間差があったはずです。弓波廃寺と末松廃寺
は伽藍配置・軒丸瓦・平瓦・塔心礎が共通しますから、よほど長い間、深い関係にあったので
しょう。
(4)末松廃寺a 系統瓦屋の問題
a 系統の太い弁の軒丸瓦の笵型は、最初から傷がついています。笵型を彫り込んだ時につい
た傷かもしれませんが、もしかすると、末松廃寺建立以前にも瓦を造っていた可能性がありま
す。そう考えると、次のような想定もできます。
(想定1) 最初は細い弁の軒丸瓦で別寺院の瓦を作っていたが、その後で末松廃寺の
瓦を作りはじめた。その際、瓦の規格を小さくして文様を縮めたため、太い弁の文様が
できた。以前から使用していた細い弁の軒丸瓦も若干は作り続けたが、この笵型を使用
していた際作者はほどなく末松廃寺から撤退し、弓波廃寺の造営に協力した。弓波廃寺
でも瓦の規格が異なるため、細い弁を見本にして新たに笵型を製作した。太い弁の軒丸
瓦を使用していた製作者は最後まで末松廃寺金堂の造営に協力し、無事金堂を建立した。
また、湯屋窯の軒丸瓦は急激に笵型が痛んでおり、その間にも別の瓦を造っていた余地があ
ります。単に保管の状態が悪かっただけかもしれませんが、小松市千代遺跡の発見でわかった
ように、周辺には未発見の寺院がまだまだあるのだと思います。とすれば、次の想定も可能です。
page=64 :(想定2) 末松廃寺金堂を建立後、塔の建立、もしくは別寺院の建立や補修のため、
再び末松廃寺金堂と同じ笵型を使用した。そのため、笵型は著しくあれて痛んだ。痛み
具合からすれば、かなり多量の生産を行ったか、あるいは保管状態が著しく悪かったと
想定される。
別寺院があったとすれば、それは末松廃寺建立以前の最初の寺院であった可能性も高く、も
しそうだとすれば、能美古墳群のお膝元で造営されていたのではないかと想像しています。
ただし、従来、末松廃寺は道君一族が勢力圏を拡大していったモニュメントとして理解され
てきました。後の加賀郡の有力者として文献史料にも度々現れる道君氏の動向は確かに無視で
きません。道君説が正しいとするならば、将来的に金沢市北部で末松廃寺系の最古の瓦が発見
されることでしょう。能美古墳群説が正しいとするならば、能美市から小松市にかけてのいず
れかの地点で発見されるでしょう。現在のところ、いずれの地域も古代寺院の調査や発見が十
分ではありません。将来の発見に期待したいと思います。
4.開発と仏教-手取川扇状地と末松廃寺-
全国の古代寺院を見たとき、大きく分けると二つのパターンがあります。ひとつは古墳時代
から連綿と有力な古墳を作り続け、それが白鳳時代になると引き続き古代寺院の建立へとスム
ーズに移行する地域です。古墳時代以来の開発を順調に発展させた地域だと言えるでしょう。
加賀市の白鳳寺院はまさしくその好例です。七尾市でも寺院建立直前の古墳と古代寺院が近接
しています。巨大な能美古墳群の周辺には古代寺院が確認されていませんが、おそらく、小松
市十九堂山遺跡や千代遺跡周辺に古代寺院が造られたのだと思います。こうしたあり方が、北