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page=66 :末松廃寺の周辺は7世紀始め頃から遺跡が確認されていますが、本格的に遺跡数が増加する のは寺院建立後の7世紀末以降のことでした。巨大な手取川扇状地の開発は困難なため、小規 模な開発しかなされていませんでしたが、末松廃寺建立後は周辺地域の景観を一変させました。 末松遺跡群(木津遺跡・末松a 遺跡・末松ダイカン遺跡・末松福正寺遺跡)や上林新庄遺跡 群(上林新庄遺跡・上林ニシウラ遺跡・下新庄ナカタダ遺跡・下新庄アラチ遺跡)はいずれも、 末松廃寺創建を境にしてそれ以後に発展するか、あるいはそれ以後に始まります。末松廃寺は、 末松・上林新庄地区一体の開発の「さきがけ」であり、おそらくはそのシンボルだったのでし ょう。 手取川扇状地のような、広大な扇状地を開発するには計画性と規模の大きな協力体制が必要 だったはずです。おそらく、末松廃寺周辺の開発は、古墳時代以来の政治的慣習を振り払い、 新たな政治的決断によって実行されたものでしょう。このような形の古代寺院は、北陸の中で は決して多くはありませんが、全国的には一定の割合で確認されます。畑中英二氏の研究によ れば、滋賀県ではこうしたパターンの古代寺院が多いようです。倭政権の政策に基づく全国的 な情勢だったと考えられます。 5.その後の末松廃寺と仏教 末松廃寺の衰退 威厳を備えた末松廃寺の金堂も、瓦の補修が十分になされないまま、奈良時代後半から平安 時代のうちには急速に衰微したように見えます。おそらく、瓦葺きの荘厳でお堂が飾られた日々 は、そう長くはなかったのだと思われます。50年程度は保っていた可能性がありますが、100 年保てなかったことは確かでしょう。しかし、金堂倒壊後、以前の金堂に比べれば小さくなっ ていますが、一般的な集落の建物からすれば規模の大きな建物が再建されており、寺院として 存続したようです。 末松廃寺では湯屋窯の瓦で補修された以外、奈良時代に入ってからは瓦は全く補修されてい