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page=67 :ません。各地で建立された白鳳時代の古代寺院は、奈良時代に瓦が痛みはじめると、度々補修 されていました。瓦だけを見ると末松廃寺は短命の寺院ということになります。そして、いつ の頃が明確ではありませんが、金堂が倒壊し、その跡地に規模を縮小したお堂が再建されます。 瓦葺きで荘厳された時期は短かったのですが、「寺」としての役割はそれ以後も連綿と続いて いたことがわかります。このように、瓦葺きが早くに廃れながらも、寺院としての機能が続く 例は、七尾市国分廃寺などでも確認されています。おそらく、雪が多いことなどを原因とした 北陸独自の現象なのでしょう。 仏教の変質とさらなる普及 末松廃寺の瓦葺きが衰微した奈良時代後半から、周辺の山地では山寺と呼びうる小規模な寺 院が数多く作られるようになります。金沢市三小牛ハバ遺跡はその中でも大規模なもので、富 樫丘陵から能美丘陵にかけての山々にも多くの山寺が作られました。 最近、小松市では7世紀後半に遡る古い山寺が発見されるようになり、山寺が平野の古代寺 院とほぼ同じ時期から始まったことが明らかになりつつあります。平野の寺院と山寺はセット 関係にあり、僧は平野で布教をしながら定期的に山寺にこもって修行をしていたと考えられて います。山寺の発展は僧の修行を示すものとして、古代仏教の普及と発展を示す大切な証拠で す。 れます。今 回、末松廃寺の発掘調査報告書がまとめられ、末松廃寺の建立を境にして周囲の古代遺跡の開 発が進められたことが明らかになりました。倭の社会にとって、こうした開発は「古代の文明 開化」の一環だったと考えられます。 開発困難であった「野」の地域を拓き、文明を吹き込んだ最初のモニュメントとして、末松
page=67 :また、集落遺跡の発掘調査でも仏器関連の遺物や「寺」と書かれた墨書土器などが出土して おり、瓦葺き・礎石建ちではない集落内の小規模な寺が発見されはじめています。これも山寺 と同じく、8世紀後半以降に顕著になってきます。おそらく、8世紀後半には末松廃寺のよう な地域のモニュメントになるような立派な建造物ではなく、ややランクは落ちるけれども、宗 教施設としての意味をもった小規模な堂が普及したのだと思われます。 山寺や里の寺の発展でわかるように、奈良時代後半以後、末松廃寺の瓦葺き荘厳は廃れまし たが、仏教はますます普及しました。末松廃寺の建立にはかなりの資本・労力を投資しなけれ ばなりませんでしたが、そのおかげで、以後の仏教の普及はスムーズに行われたのでしょう。 末松廃寺の造営は、地域の新規開発のモニュメントとしてだけでなく、仏教の普及を広める 上でも重要なモニュメントになり、周辺に仏教が普及し、寺院の施設やその荘厳が崩れた後で も、細々と宝灯を守ったのだと思います。 おわりに 真宗王国の基盤 北陸は今も「真宗王国」と呼ばれるほど、浄土真宗の信仰が篤い土地です。蓮如が吉崎で布 教したことで急速に浄土真宗が浸透しましたが、その前提として仏教信仰に篤い地域性があっ たことも間違いないでしょう。実際に、蓮如以前には能登総持寺や越前永平寺など、曹洞宗の 重要な寺院も建立されていました。 末松廃寺の建立は、その後の仏教王国・北陸を形作る大切な第一歩だったと思わ