タイトル:ブラウザ判断

タイトルをクリックすると最初のページから表示されます。
ページ番号をクリックすると該当のページが表示されます。

page=69 :手取扇状地における飛鳥時代の移民集落 小松市教育委員会望月精司 1 手取扇状地の古代集落成立と土地開発 (1)北加賀の伝統的集落域と手取扇状地 日本の米作り文化は弥生時代に大陸から水田農耕技術が伝来したことに始まる。これにより、人々は 河川流域の低地に村を作り、定住生活を行うようになる。北加賀では犀川流域、浅野川流域の沖積平野 かないわふじえうねだ である、金沢平野がその舞台で、金石・藤江・畝田地区の遺跡群、戸水・大友地区の遺跡群、千木地区 の遺跡群など、地域の中核をなす平地集落が営まれた。弥生時代以降、古墳時代、飛鳥時代へと伝統的 に水田経営を行いながら営まれる集落域であり、これを伝統的集落域と呼ぶ。南加賀の伝統的集落域は、 かけはしかわなべたにがわ 北部が梯川、鍋谷川流域の能美平野、南部が動橋川、八日市川、大聖寺川流域の江沼盆地であり、そ の後背地の里山には能美古墳群、江沼古墳群など、伝統的集落域を本拠とする在地首長層の墓域が展開 した。 やすはらそうごほうぶつ 手取扇状地でも扇状地下流域にあたる安原、相川、法仏の各地区においては、弥生時代以来の水田経 営を行う集落が営まれた。ただ、その規模は伝統的集落域に比べて小さく、単発的であり、扇状地中流 域、上流域にいたっては、継続的に集落を営む様相は確認されない。つまり、弥生時代から古墳時代ま で未開の地と呼べる地域であった訳で、それは水田農耕に適さない荒れた土地条件が要因にあったろう。 古墳時代前半までの農耕技術では水田経営が困難であった地であり、以下で述べる農業技術の進展によ ってはじめて、農業経営を可能とした地であったと言えるだろう。
page=69 :(2)飛鳥時代の先進的農業技術の導入と扇状地開発 国内における農業技術の進展とそれに伴う水田区画の拡大は奈良平安時代になって実現するが、その くわさきすきさきぎゅうばこう 技術導入は古く、古墳時代中期頃に朝鮮半島から鉄製農具製作技術(u 字形地鍬先・鋤先)や牛馬耕 ほうまぐわからすき 法(馬鍬・唐鋤)、灌漑施設等の高い土木技術が導入されたことに端を発している。ただ、当時は畿内 を初めとして西日本の一部に先進的に導入されただけであり、広く日本に普及することはなかった。 いなづみかわぐち 最近、富山県氷見市稲積川口遺跡で飛鳥時代前半に位置付けられる馬鍬が発見された。歯の部分が木 製のほぼ完形品で、北陸東部としては先進的に導入された農耕具であったと言えよう。このような牛馬 耕を示す資料や鉄製農具の出土はなかなか一般の集落からは確認されないが、北陸西部では7世紀前半 には江沼丘陵に営まれる南加賀製鉄遺跡群や金津丘陵に営まれる金津製鉄遺跡群が成立していると考え られ、鉄製農具普及の下地は十分に形成されていたものと考えられる。 これら飛鳥時代以降の先進的農業技術の導入は、従来の沖積地での農耕にも活用されたであろうが、 これまで未開の地であった扇状地での農地開拓や農業経営に大きな効力を発揮したであろう。それを示 すように、越前地域では飛鳥時代に成立する大規模な集落遺跡が、後に国府の営まれる武生盆地の山麓 たかもり 扇状地上(高森遺跡)に営まれたり、古墳時代後期に越前の中核地域であった坂井平野を望む後背丘陵 のりかねつぼえ 地の扇状地上(乗兼・坪江遺跡)に営まれるなど、地域(郡レベル)の中核となる平野に付随する形で 成立してくる。これはその地域の経済力向上を求めて、これまで未開の地であった扇状地などに農地拡 大を図ったものと言えるが、今回取り上げる手取扇状地の開発集落は、北陸西部の中では最大規模の農 地開発であったと言えるものである。