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page=70 :(3)手取扇状地の新規開発型集落 手取扇状地下流域は、弥生時代から古墳時代と断続的に小規模な集落遺跡が営まれる地であったと述 べたが、飛鳥時代前半になると、これ以降、奈良・平安時代へと継続的に営まれる集落が成立してくる。 きたやすだきたそうご 北安田北遺跡や相川遺跡群、米永古屋敷遺跡などがそうで、扇状地下流域でも南西部に主に分布するこ とと、飛鳥時代前半から集落が営まれることを特徴とする。 手取扇状地下流域の集落が飛鳥時代前半に出現するのに対し、中流域に営まれる末松遺跡群や三浦遺 跡、新庄地区の遺跡群は、飛鳥時代中頃から後半に若干遅れて出現してくるのが特徴である。中流域は 末松廃寺を中核に置くかのように、寺院周辺に営まれる傾向があり、下流域よりも集落群の広がりや密 度が高い。 飛鳥時代に成立することと飛鳥時代後半に集落拡大傾向を示す点は、越前と同様であり、その様相は さんこだいち 南加賀の三湖台地に営まれる三湖台地集落遺跡群とも合致する。以上の飛鳥時代における新規開発型集 落経営の様相は、北陸東部には認め難い様相であり、越中から越後においては飛鳥時代終末から奈良時 代前半がその時期に相当する。 以上述べた、扇状地に営まれる新規開発型集落は、どのような人々によって営まれていたのであろう いはい か。それは在地の人々であったのか、または他から移配された人々であったのか。そして、この時期の 大規模な土地開発はどこが主導したものか。地元主導なのか、中央政府が政策的に行ったものなのか。 以下で検討したい。
page=70 :2 手取扇状地の古代集落構成員を探る (1)飛鳥時代における北陸西部地域の集落激増現象 北加賀の伝統的集落域は金沢平野に営まれることは先述したが、手取扇状地に新規開発型の集落が営 まれる飛鳥時代になっても、地区内での集落移動などをしながらも継続的に営まれ続ける。そのような 中で新規集落が手取扇状地に展開し、集落数が激増していくわけであり、そこには当然、他地域からの 移民があったことが予測される。 せいてつかじぎじゅつ 扇状地開発には鉄製農具生産を行う製鉄・鍛冶技術、大規模面積を開墾するための牛馬耕技術、そ れに付随する牛馬の飼育、そして新たな灌漑施設を整備するための土木技術など、先進的な農業技術が かんばやししんじょう 必要であったわけだが、扇状地中流域でも上流域に近い、新庄地区の上林新庄遺跡では飛鳥時代後半 以降、複数の鍛冶遺構を営む。ただし、その生産規模は決して大きくはなく、専業的な鍛冶工房を構え かじさい る鍛冶集落を形成していたとは考え難い。出土する鍛冶滓の量等から見て、手取扇状地の新規開発集落 における鉄製農具生産や再加工、修復などを一手に引き受ける程度の手取扇状地の農地開発に付随した 鍛冶場であったものと理解したい。 (2)移民の存在を示す要件 遺跡資料から移民の存在を探る方法としては、生活に密着した遺物、遺構資料に関し在地のものと異 しゃすいぐ なるかを検証する方法が有効である。特に、日常的な生活用具である煮炊き用土器(煮炊具)は基本的 に容器の商品価値から見て流通対象とはなりにくく、内容物を運搬する容器としても適さないため、他 地域で一般的に使用される煮炊具が一つの集落遺跡や一つの領域の集落遺跡でまとまって出土する場合 は、移民たちが集団移住した根拠になるとされている。それは煮炊具自体が集落域内での生産により確 保される性格を持つためであり、集落員の多くが移民であった場合は、伝統的に作られ続けてきた在地 とうしゅう の煮炊具の生産技術の規制を受けにくく、移民たちがもともと住んでいた地域の煮炊具の作り方を踏襲 することが多かったためである。