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page=72 :(4)移民系煮炊具の分布の偏り
手取扇状地の新規開発型集落は下流域と中流域とで、成立時期に違いがあると述べたが、それは移民
系煮炊具の故地においても同じ領域の中での対比でまとまる傾向が見られる。つまり、扇状地下流域の
北安田北遺跡や相川遺跡群などは、丹波系煮炊具が目立って出土する傾向があり、扇状地中流域の末松
遺跡群や三浦遺跡、新庄遺跡群では近江系煮炊具が目立つ傾向がある。凡その数値割合ではあるが、扇
状地下流域では在来型7に対し丹波系3で(朝鮮系と近江系はあわせても1割未満の僅少)、扇状地中
流域では在来型5、近江系4、丹波系1(朝鮮系は1割に満たない僅少)というデータが得られており、
下流域と中流域で移民系煮炊具の主体が丹波系と近江系とで明確に別れていた可能性をもつ。
これに集落成立時期がずれることを重ね合わせ、想像をたくましくすれば、第一次開拓集落は、開拓
のしやすい扇状地下流域を対象として、在地の集落民と丹波~若狭地域の伝統的に海伝いで交流のある
地域からの移民により7世紀前半に形成し、第二次開拓集落は、これまで全くと言っていいほど未開の
地であった扇状地中流域を対象として、当地とは交流が盛んであったとは言いにくい近江地域特に湖西
・湖北からの移民を主に7世紀後半に集落形成したものと言え、第二次開拓集落は、集落内に専門的な
鉄製農具生産者の確保を行うことで、本格的な農地開発に乗り出したものと性格付けられよう。
ただ、移民系土器の割合を見ると分かるように、在来型が主体であることと、どちらかの移民系煮炊
具に完全に別れることがないことなど、移民系煮炊具の存在がどれだけ、移民の故地を正確に伝えてい
るのか疑問視される部分もある。土器は移動するものとの前提で考えれば、もう一つの要素である、竪
穴建物構造が移民系煮炊具の故地とどのように符合していくかが重要となる。
page=72 :(5)移民集落における竪穴建物の構造
北陸西部地域に造り付けカマドを付設する竪穴建物が出現するのが古墳時代後期でも後半段階になっ
てからであるため、伝統的な竪穴建物構造の形態を提示することは困難ではあるが、それ以前の竪穴建
物構造の形態変遷から見て、飛鳥時代前半における伝統的な竪穴建物構造は、正方形竪穴で、4本主柱
を均等に配置し、奥の壁の中央にカマドが造り付けられる構造のもので、屋根の垂木が地面に直接架か
ふせやしきたてものこうぞう
る伏屋式建物構造が一般的であったと理解される。これに類似する建物構造は、手取扇状地下流域の北
安田北遺跡の竪穴建物構造である。正方形竪穴、4本主柱、そして中央にカマドが付設されるものだが、
えんどう
カマド煙道がl 字に曲がり片側に伸びる形態で、地山掘り残しで造られるカマド構造は丹波系煮炊具
おおのあやなかあおのがたじゅうきょ
の故地である綾部市青野綾中遺跡群で特徴的に存在する「青野型住居」に類似する。北安田北遺跡の
調査事例は良好とは言えず、類似するものは1例にとどまるが、この遺跡で近江地域に共通する竪穴建
物が確認されていない点を重視すれば、移民系煮炊具の故地と一致する現象とも捉えられる。
これに対し、手取扇状地中流域の竪穴建物構造は、末松遺跡群をはじめとして、竪穴の壁際に周溝と
かべしちゅうたてあなたてものこうぞう
小柱穴が巡る壁支柱竪穴建物構造という建物壁が直立する特異な竪穴建物構造を有し、4本主柱、造
ひおきまえいぐちかしわばら
り付けカマドを隅にもつことを特徴とする。近江では湖西の日置前遺跡や湖北の井口・柏原遺跡で壁
支柱竪穴建物構造が確認されるており、移民系煮炊具の分布と共通する。ただ、時期が7世紀末から8
世紀前半と末松遺跡群のものよりも新しく、その確証を得るためには7世紀中頃までさかのぼる資料の
発見が待たれる。
(6)手取扇状地開発の担い手たち
以上のように見ると、移民系煮炊具の故地とその故地に分布する竪穴建物構造とが概ね符合するよう
に見えるが、丹波特有の「青野型住居」も実は造り付けカマドが「l」字に曲がる構造から、朝鮮半島