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page=74 :ない7世紀中頃には、この地に江沼評(与野評)が設置されたと見られ、評設置の前提となる中央主 導型の経済基盤形成事業として、三湖台地の部民集落と丘陵部の基幹的手工業生産が置かれたものと考 えられるだろう。 (2)北陸西部地域における飛鳥時代の移民集落設置目的 以上の丘陵部手工業生産と連動する形で営まれる台地集落は越前の金津丘陵においても確認でき、大 規模な製陶・製鉄遺跡群の成立にはこのような新規集落が付随して営まれる傾向が強かったものと言え しょくさんこうぎょうせいさく る。朝鮮半島からの渡来人一世を軸として形成された殖産興業政策であり、そこには中央政府の意図 が色濃く反映されていたものと理解されよう。 これに対し、扇状地開発などの新規農地開拓集落は、集落民の一部が先進的な幾種類かの農業技術を 有す技術者や戸籍・計帳の作成・管理を行うだけの識字能力を有す者であればよかったわけで、多くの 集落構成員は一般の農業従事者であっても問題はなかったわけである。つまり、寄せ集め的な労働力編 成でも可能であった訳だが、在地の中で新規の労働力を動員する絶対数には不足している。では、他地 域からの人の移配を主として集落を形成するという前提に立てば、集落内の統制を強め、効率的な生産 を上げるためにも他地域から集団で移配させる方法が効果的であったと言えよう。それが手取扇状地に おける移民系煮炊具の分布の偏りや竪穴建物構造に現れているものと理解している。 それでは、これら扇状地開発に伴う集団移民政策は誰が主導したものなのだろうか。移配を受ける近 江や丹波と北加賀との地域間交流の密度から考えて、大規模な集団移民による農地開発は、地域間交流 に基づく首長間協力体制において成しえたとは考え難く、北加賀の在地首長層の政治力で単独で行うこ ともその政策的規模から見て、到底適わない事業であったろう。そこには中央政府が主導的な立場で関 わっていたものと見るのが当然である。 えみしじょうさくせっち
page=74 :例は極端だが、東北の蝦夷支配政策における城柵設置の前進となる移民集落が飛鳥時代に成立して くることと共通する。東北支配経営においては武力交渉が大きな比重を占め、政策的に同格に位置付け られるものではないが、飛鳥時代に関東系移民の集団移住を軸に新規開発型の集落を複数成立させてい く様子は、中央政府が地域支配のために経済的基盤をまず形成していくといった政策手法的な共通性を 読み取ることができる。そこには初期律令政府が地方支配政策を円滑に行うために、対抗勢力に対峙す るための経済基盤を形成することに第1義を置くといった政治的意図が感じられないだろうか。同時に 土地と人民とを支配管理するための布石が置くための地方支配策であり、ある程度の広い領域を対象に、 各在地首長層の経済基盤となる地を避けながら、点的に移植され、その管理に在地首長層を登用するこ とで、武力的な衝突もなく、円滑に中央政府の官僚機構の中に取り込んでいったものなのだろう。 北陸西部の飛鳥時代の移民政策は、その後、8世紀には北陸東部、そして内陸部へと段階的に進み、 そこには北陸西部で形成された移民集団が順次送り込まれたものと考えられる。その地における移民系 煮炊具は加賀南部を基点に成立した北陸型煮炊具を原型とする北陸系煮炊具であり、8世紀後葉段階に は北陸東部においても在地の煮炊具として、定着、定型化されていくのである。