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page=15 :6. 泰澄が活躍した時代 時代背景 泰澄は、682年に生まれ、767年に87才で亡くなっている。この間はどんな時代であったろうか。 聖徳太子が、593年摂政となり、仏法を中心にする国造りを始め、わが国で最初の寺、飛鳥寺は598年に、法隆寺は607年に建立された。 その後、7世紀中頃から後半にかけて地方でも豪族による氏寺が、数多く造られ、「扶桑略記」には、692年には全国で545寺があったと書かれている。新しい寺が立てば、多くの仏像も必要になってくる。  大化の改新(645年)以降、中央集権国家を目指し、律令制度が逐次確立し、国の形が出来上がり、地方を支配する制度も確立されていった。地方では、国府が作られ、これを結ぶ、官道が整備された。泰澄は、度々奈良を訪れたと記されているが、畿内から湖西を通り、越前、加賀、能登、越中に通じる北陸道(中道)、湖北を通る道として、中山道(中道)から、分岐して、美濃、越前に抜ける郡上街道、美濃街道(小道)もあった。
page=15 :大きな荷物を運ぶには、日本海水路、瀬戸 内水路が発達していたと思われる。それは、 浄(きよ)定(さだ)が、出羽から中央へ、税として米を舟 で運ぶ途中、泰澄の弟子、臥(ふせ)行者(ぎょうじゃ)に施しを 頼まれ、浄定がこれを拒んだところ米は、越 知山へ飛び去ったと云う「飛鉢法」伝説が示している。   古代の官道と国府                         修験道の創始者は、役(えん)小角(のおずぬ)(634~706)と云われている。役(えん)小角(のおずぬ)の活躍の舞台は、吉野であるが、泰澄は吉野にも訪れたことがあると伝えられている。泰澄は、白山御前峰には十一面観音、大汝には阿弥陀仏、別山には聖観音と、神仏習合の考えを現わしているが、715年に敦賀の気比神宮に我が国最初の神宮寺が建てられ、この頃から、日本古来の神道と仏教の結び付きが発生したと考えられる。 聖武天皇は、内政を安定化させようと、鎮護国家の思想を広め、国分寺の造営を勧め、大仏造立を発願、752年に完成、開眼法要が行われた。泰澄晩年の出来事である。 また7世紀中頃から8世紀中頃は、天皇、貴族、下級官人、防人など万葉歌人が、盛んに和歌を詠んだ、おおらかな時代でもあった。 当寺どんな仏像があったか 泰澄は14才のとき、十一面観音の夢告を受け、修行に入った。当時どんな仏像があったのだろうか、泰澄と深い係わりのある十一面観音像を中心に見てみよう。