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page=28 :泰澄仏の分布をみると、泰澄が生まれた三十八社町、冬野町、修行の原点となった越 前町、布教活動の拠点となった石動山周辺、琵琶湖周辺などに多く発見された。逆に、白山信仰の中心とみられる白山吡咩神社や白山山麓地域、岐阜県白鳥町の石徹白や長滝、及び泰澄が関わったとする那谷寺、粟津温泉では、今のところ発見されていない。白山吡咩神社の加賀馬場、岐阜県の石徹白、長滝の美濃馬場は、平安末期白山信仰の高まりと共に発達したもので、泰澄伝説が残っているが、私が定義する泰澄仏は見つかっていない。 (4)時代鑑定 文献や仏像研究の専門家によって時代鑑定が行われている。これらは、経験則の積み重ねによるものが多く、この報告書では、年代が記録として残っているもの以外は、横に置 いておくことにする。高村仮説は、泰澄仏の可能性を示すが、断定するものではない。どのように理解するか読者に任せたい。
page=28 :7. まとめ 昭和20年5月、白山市白峰林西寺の白山本地堂で、泰澄直作と伝わる仏像を見て、野々市市末松の大兄八幡神社の、同じく泰澄作と伝わる仏像にあまりにも良く似ていることに驚き、高村仮説を立て、私の泰澄仏を探す旅は始まった。 その結果泰澄仏が浮かび上がってきた。泰澄は仏師ではなく、修験者であり、私度僧として各地を歩き、山を開き、寺を建て、その場面に必要な仏像をその場で刻んだ。 (1) 開基したばかりの寺には、荒彫りの半身像、荒彫りの立像 (2) 時を経て成熟した寺には、完成度の高い立像(御本尊) を置いたと考えられる。  荒彫りの半身像については、数も多く、造り方に「泰澄様式」と云える特徴があるので、泰澄直作の可能性は最も高い。荒彫りの立像は、数が最も多く、泰澄ゆかりの地で、広く確認されている。完成度の高い立像は、数は少ないが、同じような作風の仏像が、泰澄が行脚した場所と重なって存在し、三角マークの特徴が、荒彫りの立像と一致することから注目に値する。 泰澄仏の存在を認めるなら、結論として次のことが見えてくる。 (1) 泰澄実在の証 泰澄の伝承は、各地に沢山あるが、続日本書紀など公的文章に泰澄の記録がないこと から、泰澄の実在が全国的に認められていない。しかし泰澄が人間として刻んだ作品が、泰澄の実在を証明する手掛かりとなり得る。 (2) 末松廃寺と泰澄の係わり 末松廃寺に関する最新の学説では、末松廃寺は、7世紀第3四半期に、国家的プロジ