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page=34 :お前立ちの像も、ほぼ本尊とよく似た法量で、時代も同時代である。              平成19年 白山 聖地へのまなざし 石川県立歴史博物館 荒子観音寺 荒子観音縁起 荒子観音は、浄海山円龍院観音寺と言い、天台宗系のお寺です。江戸時代の終わりに、時の住職、お寺の由来を記した「浄海雑記」4巻によれば、古く奈良時代、聖武天皇の天平元年(729)に泰澄和尚によって開基された。 泰澄和尚は、北陸の白山を開いた名僧で、北陸、近畿、東海を遊歴して、各地に寺院を建立しました。当観音寺もその一つで、御本尊の聖観音菩薩像は泰澄和尚の作と言われている。 天平3年(741)に、法相宗の自性上人が七堂伽藍を建立され寺としての姿を整えました。その後、寺は戦乱にまきこまれるなどして荒廃したようですが、中世にはこの地方きっての天台宗葉上流の学問道場であった春日井市密蔵院に属する大寺として、多数の僧徒を要し学問が盛んであったようです。                          荒子観音寺 インターネット
page=34 :仲仙寺 仲仙寺の十一面観音立像は、浦の仲仙寺山頂近くの観音堂に奉安されており、同寺の本尊であった(現在地福庵所属)。素地木造で、像高162.1cm十一面42臂の千手観音通有の形像であり、優美な像容は平安時代後期の特色を示している。千手観音は、千手千眼ともいわれ、多くの手と目に限りない慈愛を現わし、延命・滅罪・除病の功徳があるとされる。さらに千手観音の中にも、十一面像は十一面観音と同じ意味を持っていると云われるので、泰澄と十一面観音信仰の結びつきから、この観音も泰澄作といわれてきたものであろう。  この仲仙寺はもと中善寺と呼ばれていた。浦の「大荒比古柄結神社文章」に、この地は嘉祥3年(850)より菅原是善卿(菅原道真の父)の家領となり、浦の行宮に応神天皇を祀って行宮八幡と称したこと。天安2年(858)卯5月には、藤原良相は真如法師(平城天皇の第3王子、薬子の乱で廃せられ、仏門に入り弘法大師の16弟子の一人)と浦に来て、この地を「剱隅之山王」と名ずけ、西の山峰(白谷の白蓮寺付近)に八王子の神を祀ってこれを「北の叡山」と称した。この時浦の山上に千手観音像を祀り、中善寺と号した。すなわち菅原是善卿の館跡なりと記している。この文章の真偽のほどは不明だが、浦の神社付近から仲仙寺にかけてを「剱隅之山王」といい、白谷の白蓮寺付近を「北の叡山」といい、天台宗寺院が平安時代にこの地に作られていたとみることはできよう。千手観音像が、明治42年に国宝に指定されたとき、平安後期の作とされているから年代的に多少遅れるが、平安後期までには、山上近くに中善寺が建てられたと考えられる。 マキノ町史 昭和62年1月31日 マキノ町史編纂委員会