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page=36 :来山を待っていた。和尚が来たのは再興の期が来たことであって、早く仏像を造り、堂舎を建て衆生を利益せよと語ったので、最澄は何人か訪ねたところ「白山白翁」だと称した。寄って最澄は霊木を以て山上発見十一面観音仏頭の御身を補作し、また多くの仏菩薩を作った。その多くの仏像の所在は、石道寺十一面、高尾寺十一面、渡岸寺十一面、長方寺十一面、保延寺阿弥陀、松尾寺十一面、万千寺十一面 興福寺官務牃疏 己高山の中心寺院はいうまでもなく観音寺で己高山山頂にあって、泰澄開基として「己高山の随一也」としている。法華寺、石道寺、安楽寺は観音寺の別院として、高尾寺は観音寺に属するとしており、己高山山頂には観音寺・高尾寺があって、観音寺の参加に高尾、六別院として石道寺・高尾・安楽・の諸寺があって、更に別院の飯福寺・鶏足寺・円満寺が加えられた。この六別院のうちの鶏足寺は里坊的な性格をもったもののようである。 しかし時代の推移は不幸にしてこの諸院の古像は、木之本町古橋與志漏神社境内の薬師堂を始め、大日堂・土蔵に安置され、また近接石動の石道寺観音堂、高野の薬師堂に安置された。近年保存庫が建てられ、與志漏神社の境内地薬師堂の本尊薬師・乾漆十二神将が納入され、鶏足寺本尊十一面観音像もこの保存庫にそのとき共に移座されて、己高山里坊鶏足寺は本堂・庫裡の建物を残すだけとなって無住となり、鶏足寺の講経は與志漏神社境内地薬師堂がこれに当てられることになった。           近江寺の彫像 宇野茂樹 昭和49年5月5日発行 雄山閣出版
page=36 :小谷寺 寺伝によれば、神亀2年(725)泰澄が訪れ、この山上に開いた小谷山六坊の内の一つ常勝寺の由緒を伝えると云う。のち、浅井氏の祈願所となり小谷寺と改められた。小谷城落城、浅井氏滅亡の際に焼失したが、豊臣秀吉が再建して44石余を与えて擁護し、その後徳川氏が44石余を与えたと云う。     びわ湖百八霊場公式ガイドブック 平成23年3月14日発行 納屋嘉人 淡交社 安念寺 安念寺の由来に、聖武天皇の時代、神亀3年(726)詳厳法師の開基とある。 泰澄とは直接関係がないが、地元では、何時の間にか古い仏像が此処に集められるようになったと伝えられている。 湖北地方では歴史的経緯から、仏像の異動があるとしても不思議ではない。 達身寺 兵庫県丹波市氷上郡清住259 行基菩薩によって開かれたと云われている。