ののいち地域事典 < でじたるbook < ののいち歴史探訪   

野々市町のあらまし


 野々市町は石川郡の北端、手取川扇状地の扇央部から北東端部にかけて位置し、北と東は金沢市、西は松任市、南は鶴来町と接しています。町域は東西4.5km、南北6.7km、面積は13.56k屬任后

 町の北部では、縄文時代後〜晩期の御経塚(おきょうづか)遺跡、弥生時代中〜後期の押野(おしの)タチナカ遺跡や御経塚シンデン古墳群など、南部では弥生時代前〜中期の上林(かんばやし)遺跡、上林古墳や末松(すえまつ)古墳などの存在は、早くからの人々の生活と開発が進んだ地域であったことを物語っています。

 古代から石川郡に属し南部は拝師郷(はやしごう)、北東部は富樫郷(とがしごう)の範囲に含まれます。7世紀後半の建立とされる末松(すえまつ)廃寺跡(はいじあと)や上林付近では条里制(じょうりせい)の施行が確認されており、上林・新庄(しんじょう)遺跡の調査では拝師郷の中枢と想定される集落が発見されています。

 12世紀頃には町域の領主として林(はやし)氏と富樫(とがし)氏が登場します。林氏は南部の上林・中林(なかばやし)・下林(しもばやし)付近の林郷を、富樫氏は東部の高橋川中流域の富樫郷を拠点としました。1221年(承久(じょうきゅう)3)の承久(じょうきゅう)の乱(らん)において朝廷方についた林氏は没落し、幕府方についた富樫氏が代わって最有力者となり成長していきました。

 野々市は鎌倉時代後期頃には市(いち)が形成され、1335年(建(けん)武(む)2)一族から初めて加賀(かが)守護(しゅご)となった富樫高家(たかいえ)が守護所を置いたとされ、加賀の政治経済の中心地として人々や物資が多く集まり賑わっていたことが知られています。しかし、富樫氏は一族の分裂と1488年(長享(ちょうきょう)2)の加賀(かが)一向(いっこう)一揆(いっき)の攻撃による守護富樫政親(まさちか)の滅亡とともに衰退します。その後1546年(天文15)に金沢(かなざわ)御堂(みどう)が創建されると加賀の中心は金沢に移っています。

 江戸時代の野々市は、金沢城下から上方へ向かう北国街道最初の宿駅(しゅくえき)となり、他の村々とともに一大消費地である城下近郊の農業地帯として発達しました。 明治の新しい時代を迎え、1889年(明治22)の町村制施行では、野々市村、富奥村、郷村、押野村の四村が誕生しています。

 1955〜57年(昭和30〜32)の町村合併・編入によって新生「野々市町」となりました。1970年代から始まった市街化区域編入による土地区画整理事業によって農地の減少が進み、商業・住宅地域へと変貌しています。