経塚は、もともとは経典(きょうてん)を永く後世に伝えるため、地中に埋めて塚にしたもので、その風習は平安時代の終わり頃に始まります。仏滅(ぶつめつ)後2000年には仏教が衰えて社会が混乱すると考えられた末法(まっぽう)思想に基づくもので、全国に経塚が作られています。
戦国〜江戸時代の頃には集落の安全などを祈願して、小さな川原石に教典の文字を一字ずつ書いた大量の墨書(ぼくしょ)石(せき)を塚に埋める、礫石(れきせき)経塚というものが作られるようになりました。御経塚の経塚はその頃のものであり、これが、町名の由来ともなっています。
付近には天台宗の真願寺(しんがんじ)という寺があったと伝えられており、寺と関係する小字名の「寺の前」、耕地整理のときに大きな手水鉢(ちょうずばち)を埋めた逸話などが残っています。また、ふるさと歴史館に展示されている五輪塔(ごりんとう)の地輪(ちりん)は、明応五年(1496)の年号が刻まれたもので経塚付近から出土しています。
この現存する経塚は、地域の歴史を知る上で、また当時の人々の願いや思いを示し伝えるものとして大切に扱われています。県内でも数少ない平野に立地する経塚であり、経塚の確認例が少ない北加賀地域における貴重な存在であることでも重要視されています。(本18・46)
経塚(1986年撮影)
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