野代には、二艘野塚(ニソウノツカか)と呼ばれた川石を積上げた2つの塚があったことや、1531年(享禄4)におこった享禄(きょうろく)の錯乱(さくらん)と呼ばれる加賀(かが)一向(いっこう)一揆(いっき)の内紛のさい、この地で合戦が行われたことが伝えられています。(本18) 塚の呼名は「ニソウノ」と考えられ、塚は今の御園(みその)小学校付近に存在していたものと考えられます。
江戸時代の1708年(宝永(ほうえい)5)に家数11、人数60、1712年(正徳(しょうとく)2)に観音堂があった記録がみられます。(本8・38・40)
氏神である野代社は、1887年(明治20)に野代神社と改称しています。
近代は押野村に属し、1956年(昭和31)に金沢市となりましたが、分離を強く希望し翌1957年に、御経塚・押野・押越とともに野々市町へ編入しました。(本・8・38)
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