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A20●光松(こうしょう)八幡(はちまん)神社(じんじゃ)
徳用町
ののいちガイドマップ
 徳用(とくもと)にはもともと「白山社(はくさんしゃ)」がありましたが、現在の光松八幡神社は金沢城内の金谷(かなや)御殿(ごてん)(現金沢市尾山神社)にあった八幡宮(はちまんぐう)を旧藩主の前田斉泰(なりやす)が、1871年(明治4)に御神体や縁起(えんぎ)、本殿などを徳用村へ譲り与えたものです。


光松八幡神社

 徳用村肝煎(きもいり)(村の長)の仕平の夢に、金沢城内の神様が現れ「徳用村へ行きたい」とのお告げがあり、打首(うちくび)覚悟(かくご)で金沢の金谷御殿へ行き譲り受けの願をしたところ、殿様も同じ夢を御覧になったという伝承があります。

 村民らの熱心な嘆願(たんがん)によって、加賀百万石の旧藩主が信仰してきた神が一農村の神社に納められたことは、当時の状況からみて前代(ぜんだい)未聞(みもん)の出来事と考えられます。

 神社は1874年(明治7)に鉾杉(ほこすぎ)八幡神社となり、1889(明治22)から現在の名称となっています。(本16・48)


20-1〜8●光松(こうしょう)八幡(はちまん)神社の文化財 1990年(平成2)5月29日指定

 八幡宮が金沢城の金谷御殿から徳用村に与えられたことで、このときの経過を記した文書や八幡宮の縁起、前田斉泰自筆の書画類などが大切に保管されていました。このうち24点が町の文化財に指定されています。(本16・48)
 次に、文化財のおもなものを紹介しておきましょう。


20-1●徳用村(とくもとむら)肝煎(きもいり)仕平(しへい)願書(ねがいしょ)

 村の神社にどういう訳かわからないが御神体がないので、肝煎(村の長)仕平が、前田斉泰の直筆のものかあるいは手の触れた物を御神体として頂戴したいと1871年(明治4)8月に嘆願(たんがん)した文書です。


徳用村肝煎仕平願書


20-2●金谷(かねや)御殿御用方赤井喜内(ごてんごようかたあかいきない)・山崎遐(やまさきか)福(ふく)翁(おう) 覚(おぼえ)

 徳用村が所属する富樫組の十村である瀬尾孫(せおまご)左衛門(ざえもん)の手代次吉(じきち)が、1871年(明治4)8月に金谷御殿の御広式に呼び出された際に渡された書状で金谷御殿から八幡宮の御神体を徳用村の白山社に納めることが決定し、あわせて八幡宮の縁起書(えんぎしょ)一箱と銭百貫文を与えるとしています。

 この後、8月27日に手代次吉は請書を金谷御殿の御用方に提出し、同日に八幡宮の御神体が徳用村の神社へ納めることになったことを徳用村肝煎仕平に通知しています。仕平はじめ村民は大変な喜びと恩義を感じたことでしょう。


金谷御殿御用方赤井喜内・山崎遐福翁 覚


20-3●光松山(こうしょうざん)八幡宮(はちまんぐう)縁起(えんぎ) 巻子本(かんしぼん)・冊子本(さっしぼん)

 金谷御殿の八幡宮は武州(ぶしゅう)豊島郡(としまぐん)戸塚村(とつかむら)(現東京都新宿区西早稲田)にある穴八幡(あなはちまん)神社(じんじゃ)の分神が祀(まつ)られたものでした。

 穴八幡神社は江戸でも有名な神社で、3代将軍徳川家光をはじめとし加賀藩3代藩主の前田利常の崇敬(すうけい)も篤く、その後加賀藩において分神を願ったものと思われます。


穴八幡神社

 縁起は穴八幡神社にある原本を写したもので、巻子本と冊子本(巻子本の写本)の2種類があり、ともに因・縁・果の巻からなります。内容には前田利常が1641年(寛永18)神社建立時の地形工事に当たったことなどが記載されています。

 穴八幡神社の縁起は1907年(明治40)の落雷による火災のため一部が焼けてしまいました。この縁起はそれを補うものとして大変貴重なものといえます。


縁起(巻子本)


20-4●八幡(はちまん)大神(おおかみ)の神号額(しんごうがく)・神号軸(しんごうじく)

 前田斉泰が住んでいた金谷(かなや)御殿の八幡宮の額で、裏面には「明治三年庚午五月正三位前田斉泰書」と刻まれています。

 書籍の神号軸は、斉泰が1883(明治16)に徳用の村民すべてに与えたもので、村民は表装して家宝としました。表装の困難な者に対しては、旧藩士が代わって表具し箱を作り与えました。

神号額 神号軸


20-5●宝(たから)の玉(たま)の図(ず)・猿(さる)の絵(え)・亀(かめ)の字(じ)

 前田斉泰(なりやす)が幼少の頃に書いたものです。




玉 


20-6●扇面(おおぎめん)

 前田斉泰(なりやす)が使用していた扇の面を軸装したものです。





20-7●鳥居(とりい)

 鳥居は、戸室(とむろ)石でつくられており、金谷御殿鎮座の八幡宮と同時に移転されたものです。現在は折損していますが、柱には「文久三年癸亥九月吉日」(1863年)、一方の柱には「守殿御寄附」と彫刻されており、第13代藩主前田斉泰(なりやす)の奥方偕子(ともこ)(将軍徳川(とくがわ)家斉(いえなり)の娘溶(よう)姫(ひめ))による寄附と考えられます。

 
鳥居


20-8●三社(さんじゃ)の題額(だいがく)

A-29

 この題額は、1866年(慶応2)のもので、題字は金谷御広式の物頭で書家としても有名であった市河三?の書といわれています。1863年(文久3)(御)守殿御寄附の鳥居に掛けてあったものと思われます。


三社の題額(「三社」と書かれています)


20-9●木造(もくぞう)狛犬(こまいぬ)

 光松八幡神社の拝殿に置かれる一対の狛犬です。作者は不明ですが、室町時代末頃の作品といわれるものです。

 
木造狛犬(一対)



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