鎌倉後期から存在した庄園である「押野庄(おしののしょう)」の地名が伝わっているものです。この庄園は延暦寺(えんりゃくじ)の妙法院(みょうほういん)門跡(もんぜき)の所領と考えられており、その範囲は押越から本町北部や金沢市の八日市・横川・久安一帯に比定されています。
1488年(長享(ちょうきょう)2)の一向一揆のおりには、一揆方の高橋新左衛門が押野・大野庄の人々で構成された六ケ組の軍勢5000を率いて「押野山王林(さんのうりん)」に陣を取ったと言われています。
集落の東には枝村の丸木(まるき)があり、北陸道から西へ向かう往来は押野(おしの)街道(かいどう)と呼ばれていました。
1708年(宝永(ほうえい)5)での家数は84、人数は484でした。
村内には神明社(しんめいしゃ)・春日社(かすがしゃ)・観音社(かんのんしゃ)の鎮守がありましたが1986年(明治1)には西側の高皇産霊(たかみむすび)社と東側の清水(しみず)社となりました。現在の高皇産霊(たかみむすび)神社はこの二社を1909年(明治42)に合併したもので、集落の西側には「宮跡(みやあと)」の字名が残っています。神社には「山王社(さんのうしゃ)」と記される大きな扁額(へんがく)がありますが、江戸時代の社との関係は不明です。
旧押野村に所属し1956年(昭和31)には金沢市となりましたが、分離を強く希望し1957年に野々市町へ編入しました。
毎年7月の後半には神社境内で「虫送り」の行事が行われています。このときに使用する大太鼓が神社の軒下に吊り下げてあります。
1978〜1995年(昭和53〜平成7)にかけて行われた土地区画整理事業によって農村地域から都市化の進む市街地に一変し、住所も押野1〜7丁目となりました。(本8・18・37)
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