富樫泰俊(やすとし)の三男であったが、1574年(天(てん)正(しょう)2)に父泰俊は越(えち)前(ぜん)金(かな)津(づ)で一向(いっこう)一揆(いっき)に攻められ討死しました。家俊は逃れて加賀に帰り、押野村字清水で郷士(ごうし)となって姓名を後藤弥右衛門(ごとうやえもん)と改めたことが伝えられています。
一向一揆との戦いでは、織田(おだ)信長(のぶなが)の武将である佐久間(さくま)盛政(もりまさ)に協力し戦功(せんこう)をあげたので、1581年(天正9)9月に300石の領地が与えられました。その子藤右衛門(とうえもん)は1616年(元和(げんな)2)に加賀藩の十村(とむら)となり、子孫は明治に至るまで代々この役を務め、その後も旧押野村の村長などの重責を担いました。
そのなかでも、藤右衛門の子で3代目の太(た)兵衛(へえ)は1655〜1671年頃(明暦(めいれき)〜寛文(かんぶん)期)に泉野(いずみの)(現金沢市)を開墾して新しい村を創立したこと、長(なが)坂(さか)用(よう)水(すい)を開削した業績が知られています。
所蔵されていた豊富な文書類や絵図約1800点は、金沢城下近郊の農村地帯の実態を明らかにする貴重な史料であり、県指定文化財として県立歴史博物館に保管されています。(本6・39)
旧十村役後藤家
農具の図(後藤家文書・金沢市史から転載)
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